Sunday 31 August 2008

日にちを忘れられたら

もう明日を恐れてもどうしようもないので恐れるのはやめにしなければいけない。そもそも、9月1日だと思うから良くないのである。とてつもなく重要な区切りのように感じているからこそ、恐れるし、かつ、覚悟しなきゃと思ってしまう。いっそのこと、日にちも曜日も忘れてしまえたらいいのに。そうすれば、週末まであと何日、なんて思わなくて済むだろうに。

仕事へのストレスの反動か、友達とよく会っている。昨日会った友人は、とにかく誠実で美しく、久しぶりに会ってもそれは変わっていなかった。「家、ていうか育った環境が与える影響って大きいです」と言う彼女は、雨の影響で終電を逃し、結局うちに泊まることになった。

この家に越してからというもの、人を泊めることがとても多くなった。大学時代は滅多になかったことだ。家の位置や広さといった条件が良いからだろう。さらに言えば、昔に比べると自分自身がよりオープンな人間になった。それも理由の一つだ。上京して数年、具体的に言うと留学する前までは、他人が自分の生活圏に入り込んでくることを生理的に受け付けなかった。というのも、自分自身の生活を完璧なまでに管理していたため、それをどうしても乱されたくなかったのだ。寝る時間、起きる時間、食べるもの、これらが影響を受けることを決して許さなかった。だからこそリズムのある規則正しい生活を送っていた。しかしながら今振り返ってみると、ちょっときつくなかったのだろうか、と思う。いわゆる「スキの無い」人間だった。

先週、友達が「留学して帰ってきてから、変わった」と私のことを言っていたが、それは事実だ。私はそのことをとても良かったと思っている。18,19歳だったころ、視野を広げるのどうのこうの言いながらも、実はせまい人間だったのだ。

だったら今どれくらい視野が広がったかと聞かれたらやっぱり「まだまだ」である。うずうず、する。無知すぎて。ということでさっき、アマゾンで池上彰の本を二冊注文しました。読書にかけるお金は自分への投資であります。

9月は、無駄に消費をしない月にしようと思う。ボーナスが出ていい気になっていたけど、お金をつかうこと自体を楽しみとするようになりつつあった気がする。原点に戻らねば。最近ちょっと分かってきた。つまり、お金との向き合い方が。必要だと思うものにはケチケチしないが、本当に必要なものって実はほんの少しなのだ。これまで消費した「無駄」を省けばもっと生活がすっきりするんじゃないかと思った。お金を貯めるのはもちろんだいじなことだが、感覚を取り戻し、生活をシンプルにすることを心がける。質素じゃなくて、シンプルに。

もうひとつ、9月は腹筋をサボらないようにする。それこそ、18,19のころ、つまり生活をきっちり管理していた時こそ、腹筋、背筋、腕立てその他、一連のエクササイズを完璧に毎日こなしていた。なのに現在ときたら、簡単にサボるようになった。罪の意識もなく!学生時代と違って日々の疲労というものがあるので仕方ないとは思う。しかし、疲れている時であってもせめて腹筋だけは頑張ろうと思う。

と、電車内の中吊り広告に写ったお姉さんの美しいお腹を見て思ったのだった。

あ、日にちを忘れられたら…とか言いながらも結局9月の目標を立てている。やめられないのね結局。

Saturday 30 August 2008

メンタルヘルス向上委員会

土曜だが今日も一日中仕事だった。
コンビニにある100円の「アメリカンドッグ」が好きだ。あの安っぽさがいい。ソーセージのまわりの、あの油を吸った小麦粉の部分が少し甘いのだが、それが、小学生のころよく作ったドーナツの味を思い出させる。買う理由はそれというわけでもないが、時々むしょうに食べたくなる。

ということで、今日昼ごはんとして食べた。そういえば昨日も食べた。

渡辺淳一の『鈍感力』を今さらながら読んでいる。
小言は「はいはい」と聞き流しておくに限るということを再確認した。うちの父親なんかはそれが本当に上手いと思う。そういえば弟も。母親の小言を「どうせぜんぶ真に受けても同じだから」と「はいはい」で聞き流す。
あとはイタリア人の友人たちがちょうどこれに該当すると思った。
小言に限らず、人の話していることをあまりよく聞いていない。適当に聞き流して、自分にとって都合の良いところだけ聞く。彼らがあれだけハッピーでいられるのはその成果なのだろうと思う。どうやったらああなれるんだろうなあとよく思うのだが。
あれはなかなか真似できないと思う。

「心身ともに元気なまま長生きをしている人に限って、人の話をよく聞いていない」と本にあった。ははは

今日、上司からちょっと注意をされた。数分間それがぐっときたのだが、ちょうど本の内容を自分に言い聞かせて、開き直った。くよくよしてもしょうがないのだ。

「血がさらさらと流れる身体」をめざすのである。ストレスをためず、副交感神経の働く身体。
外部から及ぼされたストレスも、自分でコントロールして軽減できればそれに越したことはない。
9月からはその方向で行こう、と考えている。置かれた状況を嘆いても、今のところはどうしようもないのだ。
メンタルヘルスを良好に保つべし。

雨がひどいですね。明日、日曜はどうかなあ。

Friday 29 August 2008

何ですか、基準は

朝から晩まで長いこと働いた。
英語を使う機会があった。
ドイツ人を相手にしばらく説明その他をする必要があった。そもそも毎日のように関わっているわけだが、普通とは違った。それで、率直な感想を述べると、前よりしゃべれるようになっていた気がする。事実、ここ数年、どんどん英語がしゃべれなくなっていく気がする。文法を気にしすぎるためだろうと思っているが本人の努力不足にもよる。

夏のあいだ、結構と英語を使う機会が多かったので、その延長みたいな感じで今日はしゃべりやすかったのかもしれない。

ところで、帰宅が8時ごろになった。だいぶきつかったし、イライラが最高潮に達していた。結局自分のせいなのだということは分かっているのだが、すべてを抜かりなくこなすには限界ってものがある。

「仕事だからしょうがない」

というフレーズが世の中には存在するが、これが大嫌いで、できれば発したくない。その、「しょうがない」の基準は何なんだろう。意味があるのかこれは、と思えるようなことでも、その一言で片付けてしまって良いのだろうか。

「若いんだからバリバリ働けるでしょ」

周りはそういうけど、これも基準が分からない。バリバリっていうのは、明らかに「中間」あるいは「普通」以上であるはずだが、普通、の基準は何なんだろう、と時々思う。一体、何以上に「バリバリ」しなければならないのか。普通とされているもの、標準的な働きっぷりとは何なのか。

一般的な日本人の働きっぷりを基準とするんだろうけど、私が基準としたいのは私自身なんです。
わがままかつ幼稚な意見ではあるけど、満員電車にゆられて夏休み三日しか休みがとれないようなサラリーマンの働きっぷりを、自分のスタンダードとしては当てはめたくない。

ああ眠いよ。おやすみなさい。

Thursday 28 August 2008

Welcome to My Spaceship

まとまったことを書こうと思うのだが、実際のところ特筆すべきことが無い。先日、近況報告をしようと思ったらここ数日のことが思い出せずにしばらく戸惑った。あえて言うなら、トマトをよく食べているとか映画を見ているとか、そういうことだろうか。

無気力なのだ。午後になると、無気力。
午前中は仕事があるのでとりあえず6時すぎには起きる。
午後になると、吸い寄せられるように家へ向かう。昼間なので人ごみを避けて買い物だってなんだってできるだろうに、寄り道一つせずに家へ向かう。そして家で何をするかというと、特に何も無いのである。

私は自分の部屋が好きだ。インテリアにしても、光の入り方にしても、音の具合にしても、とにかく心地が良い。何も無くても、何時間もベッドの上に転がっていることができる。これが何よりの幸せなのかもしれない、と思っている。

したがって、一度家に入ると、もう外に出たくない。徒歩2分のコンビニにすら出かけていく気がしない。銀行も郵便局も、帰宅する時に寄って帰ろうかとも思うのだが「まあいっか、今はいったん家に帰って、夕方にまた行こう」とあきらめる。なぜかというとすぐに家に帰りたいから。
しかしながら結局、部屋のドアを閉めるとすっかりその気が失せてしまうのだ。
モードが変わるのである。ねじが緩む。張っていた糸が緩む。

今日は3時ごろにアンチョビのスパゲティを作った。『アモーレス・ペロス』を見ながら食べた。前から見たかったのだが、やっと見た。この監督名、どこかで聞いたと思ったら『バベル』の監督だった。ああ、この映画があってこそのバベルだったのだ、と、納得がいった。ぜひ見てみてください。

もう少しで、仕事が本格的に始まる。一ヶ月以上ぶりだ。はっきり言って、恐れている。まさしく"dread"である。だから最近は、昼になると逃げるように帰って行くのだろう。
怖い。9月が怖くて仕方ない。

ねむい午後、夢の話

午前中、数時間働いて、昼には職場を出るという日が一週間くらい続いている。9月までのリカバリーと考えればこれは適切なのではないだろうかと思う。
段々と身体が慣れてきたように思うが、それでも6時半の起床がつらい。今日は夕方5時過ぎから7時ごろまで眠った。この程度の、途中休憩程度の睡眠が必要である。
とても気持ちが良い。

眠りは浅かったらしい。
というのも、夢を見たから。

先日電話で話した友人が、隣の部屋に住んでいるという話だ。すべてが見たことのある光景で、ハリーポッターみたいに空を飛んだりすることもなく、登場人物の相関関係にも無理がなかった。

自分の部屋のカーテンをちらっとのぞけばあっちの部屋が見え、窓越しに話ができそうな距離だった。
バイオリンだったか何だったか、茶色い楽器を演奏する女の子が彼の部屋に遊びに来ていた。
私はカーテンからそれを少し覗き見した。そしたら彼もわたしを見た。
ぎゅー、とにらみあった。

この人と話したいんだろうなあ私は、と、起きてから思った。
というわけでとても現実的だった。あまりにも現実的で、夢と現の境が無くても良さそうなくらいだった。

きみの出てくる素敵な夢を見ました。
結局、きみのことが好きで仕方なくて、わたしの心が放っておけないんだろうと思いました。
どうせならうちの隣に住んじゃったらどうですか、こんどから。きっと楽しいと思うんだけど。

こういうメールを書こう、今すぐに書かないと忘れちゃう
頭のなかにぽんぽんと浮かび上がるメールの文面。
無言で読み上げながらも、空腹に負けて、結局向かった先はパソコンではなく食べ物のある場所。
パンを焼いているうちにシャワーを浴びた。それからトマトを切って、オリーブオイルとローズマリーで和えた。
パンにそれをのせて、ビールをあけた。

しばらくして今度はスパゲティをゆでた。モッツァレラを切った。
『Easy Rider』を見ながら食べた。意味がよく分からなかったけど、どこか切なかった。
ビールをもう一缶あけた。

なでしこの花が枯れている。枯れるのが早すぎて驚いている。通常、1週間近く持つのに。一生懸命救おうとしているのだが、ちょっと難しいみたいだ。もともと古かったのだろう。しかたない。

Tuesday 26 August 2008

雨の夕方にエヴァンスを聴くにあたって

すっかり秋になってしまった。もうしばらくすれば、きっとまた日差しの強い日々が戻るのだろうと思う。それでもやはり、一時期の暑さは終った。
実に、一時期、であった。7月末~8月上旬にかけての数週間。
それは燃えるようだった、けれどやはり終息する。
ものごとはやはり、いずれは終息するようにできていると思う。
たいていのことは、放っておけば時間が解決するのである。

「すべては時間が解決する」

もう何年も前に、尊敬するおじから聞いたこの言葉。何度励まされただろうか。

けれどここ最近(具体的に言うと仕事を始めてから)、このフレーズから遠ざかっていた。
今さっき、夏の暑さについて考えて(書いて)いたらちょうど思い出したのである。

事実、しばらくのあいだ「時間が解決するだろうから」という方向に考えをもってくることがなかった。それができずにいたというよりは、むしろ、そうすることを忘れていたと言ったほうがいい。今ふと思いついた。

…余裕が無かったんだなあ。

何をするにも焦っている。明日のことも仕事のことも恋人のことも将来のことも。
頑張ってもどうしようも無いとき、というのが存在するはずだ。ある程度まで行ったら、自分自身に調子をうかがってみることも大事である。
最後に頼りにできるのは、自分自身だろう。
25年経った今もまだ自分自身をよくつかめていない。だけど、ほかの人に自分を伝えたいと思う。人にわかって欲しいと思う。ときどきそれだけで手一杯になっているけど。もっと単純になりたいと思う。

すべては時間が解決するのである。自分自身へ言い聞かせているにほかならないけれど、今のところ"効く"言葉はそれしかない。

雨が降るとどうしてもビル・エヴァンスを聴きたくなる。complete riverside recordingsをランダムに流し続けている。ほかのジャズでも良さそうな気がするものの、結局この人でないといけないのだ。ほかのものに変えたところで、結局納得がいかずにディスクを取り出す羽目になるだろう。私はジャズ通でも無いし、適切な言葉で評価をするようなことは決してできない。だってみんなみんな凄いからね。

けれど、詳しいことを分かっていない-たとえば私のような人-が、雨が降ると無意識のうちにそのCDを選んでしまうような、そういう演奏をしているジャズ・ピアニストは、音楽の分かってない人からであっても「すごい」とか「いい」とか言われていいのではないかと思う。
つまり音楽の分かってない人でも「すごい」とか「いい」とか、稚拙ではあってもそういう感想を述べていいのではないかと思う。

繰り返すようだけど、私は音楽がよく分からない。
けれど、その音楽のどこがどのように良いのか、言葉で表現できなかったとしても、心が何かを受け取っているのは事実であって、言ってみれば音楽を提供する人たちというのは、そういう音楽を純粋に目指すべきなのである。
つまり、「よくわけがわからないけど、これってなんだかいい感じがする」みたいなセンセーションを与えること。
音楽に限らず、映画も、絵画も、写真も、そう。
ふわっと目の前に何かが降り立つような、あるいは心臓をきゅううとしめつけるような、そういうセンセーション。
相手が1人であっても、地球規模であっても、そういうのってひどく素敵だと思う。

Saturday 23 August 2008

花を買う、夢のこと

土曜、雨、八月―

赤い、なでしこの花を買った。



こうやって時々、自分の部屋に花を買う。柄じゃないとか似合わないとか言われたらそれはもう仕方あるまい。それでも私は花を買う。帰り道、駅と家との間にある、小さな花屋で買う。

部屋に花があると、平坦な日常が少し変わる。ありきたりな表現法しか見つからないが、本当に心が潤う。こういう余裕を忘れずにいよう、という、心のなかで繰り返す自分への言い聞かせが具体化された結果なのかもしれない。



話は変わって、22日夜から23日朝にかけてみた、ある素敵な夢を忘れないうちに記しておこうと思う。



恋人がケンちゃんだった。

ケンちゃんは小学校3年生ごろのクラスメートだ。とても好きだった。当時は小学生によくありがちなからかい方をして、気を引こうと一生懸命だった。夢では、あの頃よりも背が伸びて、成長して同い年の24歳なのに、やっぱりそこにいるのは9歳のけんちゃんにほかならなった。少なくとも私にとって。夢で、人前でベタベタしているのがとても心地よかった。自慢の彼だわ、と思った。

彼が自分の妹に電話をすると言った。

「そっちはどう?」と、電話先はなぜかローマである。彼の妹は誰かというと、これまたやはり、小学校時代の同級生で、えりちゃんだった。とても物静かで、すぐに泣く、体育の苦手な女の子だった。私はそれをよくバカにしていて、何度か傷つけた。ちなみに、私自身は最悪かつ劣悪な運動神経を誇る。

そういえば、えりちゃんとけんちゃんは、同じ地区から通学していた。

実際、けんちゃんに妹はいなかったはず。それがなぜかえりちゃん。

恋人である私のほうがけんちゃんにとって重要だと信じたかったが、そのとき、電話の向こうの妹、えりちゃんに嫉妬した気がする。少なくともえりちゃんより自分は、いろいろとみりょくてきなのに、と思った。



でもなんでローマ。



配役とこのくらいしか覚えていない。後は、とても気分が良くなったあたりでちょうど目覚ましが鳴った。

「本当に目覚ましというものは邪魔なやつだ!」

瞬間的にそういう感想を抱いた。

Friday 22 August 2008

ネットなし生活から戻って

仕事で月曜から木曜まで東京を離れて長野に滞在していた。

2週間の休暇と、この4日間のaway from 東京との間に、たっぷり3日間ちょっとの休みをはさんでおいたのは正解だったと思っている。

充分すぎてむしろ暇になるのではないか、と、当初思っていたがこの期間が大きな作用をもたらした。精神的にも、体力的にも、である。3日もあったら近場に旅行できるのではと考えもしたが、今考えてみると、とんでもなかった。



4日間、インターネットの無い生活を送った。とても不便だった、と言いたいところだが、一度も困ったらなかったというのが本当のところである。

手元に無いと、なにかこう、枯渇したような感じになるが、それで致命的困難が訪れたか―答えはNoである。

いかに日々ネットに依存しているかを思い知った。

本を読んだ。

長い手紙を書いた。

ビールを飲んだ。

オリンピックを見た。

何人かと電話で会話し、膨大な量の「いろいろ」を考えた。

いくつかの決断をした。



昨日は帰りが遅く、長時間のバス旅のせいで極度の疲労状態にあった。

いわゆる「ばたんキュー」で眠れるかと思いきやそうではなかった。眠れない。これだけ疲れているのに眠れないのである。



実は未だに睡眠が安定していない。時差ぼけももう治って良い時期である。

長野にいる間も、毎晩、ちっとも寝付けずに困ったのだが、昨夜も同じ状況だった。



寝付くことができないときにどういう対策をとるか、なんていうテーマの記事を何度か目にしたことがある。しかしながら、こういう肝心のときに限って、その「対策」を覚えていないのである。

おそらく「無理に寝ようとしない」ことではなかったか、と思い、もう一度起きた。結局寝たのは1時過ぎである。



私が「こいつ羨ましいな」と思う対象が世のなかに何種類か存在する。極度に楽観的な人や、おおらかでストレスをためにくい人など。その中の一つが、



「いつでもどこでも寝れる」人だ。羨ましくて仕方ない。睡眠不足でガクンガクンと、つい寝てしまう、という人ではない。

寝ようと思ったらその場が狭かろうがうるさかろうが明るすぎようがすぐに眠れるタイプの人間だ。羨ましい。

付け加えて言うなら、「かつ、眠りが深い人」だ。



短時間の睡眠で足りるという人が時々いる。激務をこなす医師や、そういえば大学の教授もそうだった。そういう人たちは、一回の眠りが深いらしい。だから短時間で足りるんだとか。



私は(特に最近)頻繁に夢を見、眠りが浅い。実は休暇中から、ある、妙なことに気付いた。それは、現実の思考と、夢のラインがはっきりしなくなってきたことだ。逆に言えば、夢をコントロールしているのである。帰国後あまりそれは起きていないが、イタリアにいる間、何回かそういうことが起こった。とても変な感じがした。何かを深く考えているうちにそれが夢になっている感じだ。

「あれ、これは夢だっけなー、思考だっけなー」と眠りながら冷静に考えていた。いや、本当に考えていたのかどうかそれも分からないけど。



話は変わって、長野での食事について。周りの人と一緒に、同じ時間に同じものを食べていた。バランスのとれた、適切な量の食事だった。嫌いなものも無かったし美味しかった。しかし何かが物足りなく感じた。



昨日東京に帰って食べた食事は、焼いたパン2枚、モッツァレラ、レタス、(オリーブオイルと塩)、それとビール。一気に満たされた。こういうのを欲していた。



私はいわゆる、西洋かぶれというものに属するんだろうと前から認めている。仕方ない。かぶれている。アジアの映画はなかなか見ようとしないし、ファッション誌は西洋のものしか読まないし、ざんぎり頭をたたくと文明開化の音がするのだ。

ただ、食事について言えば、"西洋"のほうが合っている。和洋中何でも食べるし苦手なものはこれと言って無い。それでも食卓は完全に洋である。米を炊かないし、納豆もキムチも豆腐も買わない。

冷蔵庫にあるものは、トマト、玉ねぎ、ピーマン、チーズ、ビール、牛乳。冷蔵庫の上にミューズリーとパン。冷蔵庫の横に、オリーブオイルと塩。これだけあればたいてい十分である。逆に、これ以外のものを買っても消費しないから滅多に買わない。

朝 ミューズリー か、なんか甘いもの少し
昼 そのときによる。おにぎり一個だったりサンドイッチだったり
夜 自分で料理(ほとんどパスタ)+ビール

油と炭水化物はしっかり摂っているが、体重は減って体の調子はとても良い。
むしろ、さっぱりとした和食だと、どうも、何かが足りないと感じる。豆腐と納豆とみそ汁では、なんというか、こう、ガッツみたいなのが欠けている。

寿司と鰹のたたきは大好物だが、普段の食事が和をベースとしていない。食生活の欧米化…とよくいわれるが私はこのおかげで健康でいられるのである。たぶん。

体内を流れる血液がビールとコカ・コーラでできているのではないかと思えるくらい、それらをよく飲むが、体が求めているものを体に取り込んであげるのが一番いいと思う。

さて、コカコーラ買いに行ってきます

Sunday 17 August 2008

痛いから効く、か、休むから効く、か

この夏休み、仕事からうんと離れて海の向こうで2週間過した。これだけ物理的な距離があると、ああこれでこそ休暇なのだ、と思える。同僚から届くメールも、"あいにく"日本語の使えないコンピュータを使っていたせいで全部読めなかった。ここまで来れば誰も絶対追ってこないなあ、そう思った。

ということはつまり、それほどまでに逃げたかったのである。4ヶ月間よく頑張ったと思う。しかしまだ半分も終っていない。4ヶ月が経過して、そこでやってきた夏休みというのはとても貴重な時間であった。

それにふさわしく、途轍もなく色々なことを考えている。
というのも、考える時間があるから。
1人で悶々とする時間があるから。

学生時代は考える時間ばかりがありすぎて、頭がパンクしそうになることもよくあった。だから早く仕事したいと思っていた。特に何でも良いから仕事して自立したかった。

昨夜会った友人が「考える時間が一秒も無いくらい働いている」と言っていた。9月からはまた自分もそうなるのだろう。

考える時間が必要なのだ。翌日のことも、寝る時間も起きる時間も気にせずにゆっくりと考える時間が。だから休暇は休暇として2週間くらいは持つべきだと思う。日本社会で働いているとそれが本当に難しい。別に、ただ休みたいからそういうことを言っているわけじゃない。
二日前に会った友人も言っていたが、休んでこそ生まれる成果というのがある。
友人曰く、日本では、スポーツの練習でも同じように、休まずコツコツ続けるのが良い結果を生むと一般的に考えられている。けれど欧米では、逆に一定の休憩が与えられる。休むことは練習に含まれるひとつの要素なのである。

だから日本のサラリーマンなんて文字通り、ノンストップ、フル稼働しているわけだ。季節を感じる暇も無い。少なくとも私にはそう見える。

「SですかMですか」
というような質問が日本人はとても好きなのだが(外国人の口からこの質問を未だに聞いたことが無い)、日本という国がそもそもマゾヒズム的国家なのだ。したがって国民もまたマゾだらけなのだ。

太平洋戦争については周りの国から何か言われればそのたびにペコペコ謝っている。60年経った今もまだ悪役である。「周りのひとたちゴメンナサイ」という姿勢がずーっと続いていて、周りの人たちは日本を責め続ける。

世界の約半分を支配していたイギリスがどこかで謝ってたりしたんだろうか。むしろ、「自分たちは利益をもたらした」と考えているんじゃないだろうか。

話が飛躍してしまった。

はり・灸や、脚ツボマッサージ、垢すりetcというような治療法は東洋ならではである。これは日本に限ったことではない。
「痛いからこそ効く」という考えが浸透している。痛みと同時に、悪いものを身体から取り除くという、この考えはたぶん昔から変わっていないんだろうと思う。

欧米の人にマッサージ(とくに肩もみ)をしてあげると、悲鳴をあげる場合が少なくない。弱いなあまったく、と思うが、そうではなくて、極度に刺激を与えることが身体に良い効果をもたらすとは考えられていない。

ほかに例をあげると、柔軟体操が苦手である。座って、足を伸ばしたまま、手を足の指につける、というお決まりのポーズがあるが、あれができない人が多い。「痛い」と感じたらすぐにやめてしまうので、そもそもそれを「体操」として認識していない。学校でやったりはしないのだろう。

また、シャワーを使って身体を洗うときに、いわゆるボディタオルを使わないという人に今まで何人か会った。身体は「こする」べきものではないのだ。指を使って洗う程度で、それ以上の刺激を与えない。垢すりなんて考えられないんじゃないだろうか。それとも西洋文化のどこかには存在するんだろうか。


それでも私は東洋人なので、痛くて気持ち良いマッサージは好きだしボディタオルも使うのだが。

仕事がつらいと
「つらくてこそ仕事だから」
「耐えてこその仕事だから」
とよく言うのだがこの辺をきくにつけ
「ああもうMまっしぐらだよなあ」
と思わずにはいられない。耐えること、我慢することが美とされてきた社会である。

例えば、自分より20歳以上年上の人に仕事について相談をするとたいていそういう答えが帰って来る。経験のある人は違うのだろう、しかしそれがすべてとも限らないのではないかと思う。例えば欧米の友達に相談すると決してそういう答えは返ってこない。
「やめれば」
この一言である。

休暇の話からこんなところまで来てしまった。「考える時間」がメインテーマであったはずなのだが。いや、論点は統一されているのかな。

三日間、昼夜逆転、これでもかというくらい怠惰な生活を送っていたのでこれからちょっと柔軟体操でもして掃除でもしようかと思う。

私と公をわけて切り替える

ブログを変えることにした。
ブログとは意見を言うための場であってそもそも日記を書く場所ではない。あくまでもパブリックなものであって、プライベートではない、ということを昨日少し話した。これまでプライベートとパブリックが混同、混在したまま書いていたので、ちょっと切り替えようと思ったわけだ。

仕事を始めてから、ブログを書くのをやめようかとも思ったのだがどうしてもそこに踏み切ることはできず、何度か移行させた。読者を限定したこともあった。しばらくのあいだ招待制にして書いたりもしていた。
それはとにかく楽である。いわゆる日記に他ならないし、他人に読まれている心配が無い。しかし、どうしてもいい加減なことを書きがちだったので、構えを変えようと思った。

そもそも世の中でブログを出している人たちのことを考えてみると、そのブログが有名であればあるほど批判をされていて、それはつまり世の中に試されているっていうわけだ。自分を他にさらして、評価なり批評なりを受けている。そうかブログを書くというのはそれなりに覚悟の要ることなんだよなと、今さら気付いたのである。ちなみに今年の夏で、ブログを書き始めて4年になる。

当初madnna journalを書いていた頃が一番多くの人に読んでもらっていた。その間「あなたの文章は良いと思う」とか「昨日の記事は」とか言ってもらって有難かった。当時のように多くの読者を集めようという気は無いのだが、少なくとも人に文章を読んでもらうのは光栄なことである。

書き始めた当時、20歳だった。今年で25になろうとしている。"もう大人なんだから"、もうちょっと真面目に書いてみても良いのではないか。気休めでページを開くのではなく、人に読ませる文章をここに綴ろうと思う。

さて、話は変わってタイトルですが、これにした理由を一応述べておくことにしましょう。

最初は「そろそろジャーナル」でした。
なぜそろそろと考えたか:単純に言うと「そろそろ25歳」だから。25歳とかいうラインにこだわってるのかよお前は、まるでコテコテの日本人じゃないか、と思う人もいるかもしれない。
わたしゃコテコテの日本人じゃないさ、と思っていても、どうしても気にせずにいられない数字だなあこれは
と、ここ最近はどうしても自分の"日本人度"を感じる。まあ日本人に限ったこととは言えないけど。何かしなきゃいけないんじゃないか、という想いというか焦りを感じている。そういう人って周りに少なくないのではと思う。

そろそろ…
そろそろ…

むむむ、なんだかしまりが悪いなと思っていた矢先、ふと「そぞろ」という言葉が浮かんだ。色々意味があるが、広辞苑でいうと7番目の意味「気持が落ち着かないこと」というのをみて、嗚呼これだ、と内心叫んだのであります。そろそろ、も捨て難いのだが音も似ていることだし、これで行くことにした。というわけで、実は「そろそろ」も含まれた題である。

ブログのタイトルを考え出すのはこれで何回目か分からないけど、毎回、考え付くまでに相当な時間を要する。現在夜中の2時すぎ。遊びに来ていた友達が部屋を出たのは12時。写真のアップロードやその他様々な作業をしてはいたものの、1時間以上考えていたのかもしれない。

「そろそろ」を思いついた直後、ふと「さてさて」にしようかとも思った。が、「さてさて」と言える段階に自分はまだたどり着いてない、と考え、やはり変更はせずにおいた。あと3,4年たったときに「さてさて」になっていれば良いと思う。

"そろそろ"寝るとするかな。

いっさいはんは最強

 1歳半。 めいは1歳半である。26日から帰省していて、弟の一家と一緒に過ごしている。姪が2人。ひとつ屋根のしたに8人がいる状態。たいへん賑やかでいつもどこかから泣き声やわめき声が聞こえている。こどもの声は高くていい。なかでも1歳半の姪は、もうどこを切り取っても、おもしろくて、た...