Monday 29 September 2008

Rainy days and Mondays always get me down

…とカーペンターズは歌うが、今日はそのどちらもが該当する日である。ただ、昨日も勤務していたので「あああMonday again」という悲壮感と嫌悪感は無かった。幸いなことである。ずっと休みが無かったらずっと嫌悪を感じずにいられるのかもしれない。しかし、それは、まったくいやなことである。

今日の雨の降り方はあまり嫌いではない。
蒸し暑くもなく、寒くも無い。
つまり、秋なのだ。

人肌恋しくて、身が切り裂かれそうになる。

先日見た、ヴィム・ヴェンダースのRainみたいに、あちらこちらで色々なことが起きているんだろうと思う。街を、ぐぐぐぐーっと引いたファインダー越しに見つめてみたら、何か分かるかもしれない。

話は変わるが、最近、リーズが恋しい。ちょうどそういう季節なのだと思う。渡英してからの数日間、あの空気と感じを、ありありと思い出すことができる。

世の中には、そうやって「あの日あの時」のことを語る人はたくさんいる。
例えば、初めて海外に興味を持ったきっかけがパリコレを見たことであった、とか、
ジュリア・ロバーツがニューヨークを歩く映画を見て、身が悶えるほどの憧れを感じたとか。

聞いている側としては「ふーん」程度のものである。
ただし、当の本人の中では目まぐるしく「何か」が動いており、劇的としか言いようの無い、ある種の「よろこび」あるいは「感動」がある。
それについて、言の葉を尽くして、彼あるいは彼女は語るわけだが、やはり「ふーん」で終ってしまうのである。
到底伝わりようの無いことなのだ。
その日その時、その人の年齢をもって、その人しか感じられなかったことなのだ。いくら説明したって、そしていくら相手が感動を示してくれたとしても、わかっていない、と思う。むしろ、そんな簡単に理解されるような話であってはならないのだ。

ただし、そういうごく小さな瞬間を、上手く言葉で表す人がいる。村上春樹のエッセイなんて読んでいると、その巧みさに、思わずうなるほどである。まるで、空気に文字でも書いてあるかのようだ。

目に見えない抽象、または「センス」は、ここまで具象化されうるものなのである。

とまあここまで書いてみたものの、言いたいことのニュアンス部分までを伝えるのは実に難しい。これで一体、言いたいことの何パーセントが伝えられただろう。
11時になるのでこの辺で諦めて寝るとします。

Sunday 28 September 2008

"Tomorrow is another day"

ブログの時間がやってきた。実際のところもう少し早いはずだが、今日は、レイアウトの変更をしていたら遅くなった。ちょっと変わったことにお気づきですか。サイドバーを見てください。

今日、このブログへのアクセス数が20を超えていたので驚いた。普段は10くらいなのだ。そして、新しい事実に気付いた。

それは、グーグルで検索すると、このブログがヒットするということだ。これは驚きである。公開しているし、検索エンジンにひっかかっていいですよという設定にしているので、当然といえば当然なのだが、新鮮だった。ちょっと、気合を入れなおした。人に見せるというのは、こういうことなのだ。つまり、「ああ読まれているんだ」と思うと、きちんとしたことを書かねばという気になる。

今日も仕事に行ってきた。あえて感想は書かないでおく。

今日も映画を見て、スパゲティをゆでた。(いつものDe Ceccoじゃないやつを使ったら、やっぱり美味しさが格段に下がってしまった。)

ゴダールの『彼女について私が知っている二・三の事柄』を選んだ。見るのは二・三回目である。なんちゃって。

今日買ったもの:

・DVD-R 20枚
・モッツァレラチーズの巨大なかたまり
・はみがきこ
・はぶらし
・カーネーション一束

やたらと湯量の多いお風呂に入る。村上春樹の『パン屋再襲撃』を持ち込む。何行か読んだら、思わず音読を始めてしまった。

いい本や好きな本は、音読したくなる癖がある。特にお風呂に入っているときが多い気がする。たとえば吉本ばななの『哀しい予感』など。

もし、手元にあるそれが外国語で書かれたものであればなおさらである。声に出さずにはいられなくなる。

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そういえば昨日の夜も、職場の誰かが夢に出てきた。誰だったかもよく覚えていないが、起きて、反芻して、がっくりした。頼むから切り離させてくれ、と思った。もっと自分の時間が欲しい。なにゆえこんなにまで、おびえ、慌てなくてはいけないのだろう。自分は何か悪いことをしているんじゃないか、と、思う。間違っていなくても、やっていることに自信が持てていないのだろう。常に誰かに見張られている気がするのだ。家に帰ると、安心する。「よし、ここまできたらもう誰も追ってこない」と。一体何を糧に生きているんだろう。よく分からない。昨日、カウンセラーに話したときに、同じセリフを三回口にしたことに気付いた。それは、「今のところそれが救いです」というセリフだった。そのうち二回分は
①会いたいと思ったら会える友達がいること
②家で毎日、きちんと料理をして食べていること
だった。救いが三つもあるだけ、マシなんだろうと思う。
ただここでクエスチョン:何を糧として生きているのか。
生活のなかで、楽しみは何なのか考えてみた。食べ物を、惜しまずに買ってきて料理すること。友達と会う予定を立てること。映画を見ること。だいたいこのあたりに尽きる。ただ、支えが欲しいと思う。そもそもの根源は、遠く離れた恋人にあるのかもしれない。彼がここにいるだけで、現状の70パーセントは軌道修正、というか回復しそうな気がする。

ぐだぐだ言ってても、明日は明日でやってくるのです。Time is a cure - I keep saying it.
All I need to do (or I can do) is to switch off the light and go to bed.

Saturday 27 September 2008

Going to Therapy

カウンセリングに行った。

一週間以上前に予約を入れていた。勤務時間帯だったが、この時間しか無かった。予約を入れた当初ほど、ストレスは溜まっていないんですよ…と言いながら、あれこれ話し始めたら、20分くらいで泣き始めた。ずっと泣きたかった。そのことはよく分かっていたのだけど、この場で泣くとは思っていなかった。洗いざらい全部話して、涙が出ないわけは無かったんだよね。まさに「こみ上げる」といった感じだった。

同時に、初対面の相手なのにここまで話せるものなのか、と少し驚いた。そして自分がいかに弱っているかを感じた。「このくらいみんな耐えているんだから」とか、極力、自分に言い聞かせないように、と思った。カウンセラーに対して「私、逃げてるんですよ」とか「わがままなので」とか、そういうセリフを何度も何度も口にしているのが自分でも分かった。他人を基準にすることはない。色々な人がいるんだから。キャパシティは人によって異なって良い。

ここ最近、連日、夢に職場の人たちが出てくる。そのせいか、眠りが浅い。自分の家が、寝るだけの場所になってしまっている。日曜日に、きつくて、動けない。

考えてみれば、今年度が始まって以来、日々が楽しい、あるいは、これだったらやってける、と感じたのは、7月と8月だけである。9月に入って抱えているストレスについていえば、6月のそれを超えている。

次に会議が入っていたので、カウンセリングは途中で打ち切った。会議中にまた涙が出てきた。当然こらえたけど。緊張が解けたせいか、思い出して泣けてきたのか、いったいどういう感情からくるものか、よく分からなかったけど、カウンセリング後、電車の中や、別の場所で、何度か涙しそうになった。

人間、もろいのである。
できる無理にも限界がある。

おばあちゃん(もう死んじゃったけど)みたいに、大らかに、なんでも寛大に受け止めることができるようになれたらいいのに、と切に思う。ただ、性格はそんな簡単に変わらないので、今の私にはまだ難しい。経験と知識をつむことが必要なのだろうと思う。

カウンセラーは、私の主張や意見を何一つ否定しなかった。妥協できない主張っていうのは持ってていいらしい。それをわがままと呼ぶ人もいるかもしれないけど、変わってはいけない部分、あるいは染まってはいけない部分が、ある。

と、まあこんなこと書いているけど明日も勤務なのです。土日とも勤務。また休みはお預け。
ちょっと泣いていいですかね。

Friday 26 September 2008

ストレス、映画、広告批評

22日。

「ああ嬉しいなようやく休日だ」とブログを書き始めてすぐにインターネットエクスプローラがフリーズしたため結局何も投稿しないまま休日を終えた。そしてまた忙しい日々に突入して、今日で二日目である。



昨日、今日、と仕事のストレスが最高潮に達した。昨日の方がもっと酷くて、職場を出てからしばらくの間、何度か泣きそうになった。世の中の人たちはどうやってストレスと闘っているのだろう。それにしても、自分がここまで弱いとは思っていなかった。



最近では家がまるで逃げ場みたいになっている。ここにいる間だけ、かくまってもらえるような気になる。シェルター、か。



嫌なことがあると(いやむしろ、無くても)映画を見る。ただし、見たことのある映画、だ。見たことの無い、新しい映画を見るのは、じっと座っているだけの、2時間という充分な時間が持てるときである。気分転換したい時、あるいは現実から少し遠ざかりたい時、何十枚かあるDVDをぱらぱらとめくって、その時の気分に合った映画を一本選ぶのである。ただ、それを二時間ずっと見ているわけではない。洗濯物干したり、スパゲティを茹でたりしながら、都合の良いときだけ、好きなシーンだけ見る。そして満足をする。というわけで、DVDは、もしかするとCD以上に、私にとっての必需品なのである。



こうやって「その時の気分」によって選ばれた回数でダントツ1位なのが、言うまでもなく『パルプ・フィクション』である。最近はあまり見ていないが。



ちなみに昨日は『プラダを着た悪魔』を見て、ああニューヨーク行きたいなーとか、やっぱり仕事よりプライベートだよなとか、Mocean Workerいいよなあとか、アン・ハサウェイの英語聴き取りやすいなーとかそういうことを考えてました。ビール飲みながら。



さらに、ちなみに今日は『デス・プルーフ』である。なんらかの「痛快」なやつを見たかったので。グロいし、エンジン音がぶんぶんうるさい映画だが、容赦ないスラングと、「あっはっは」な最後が気持ちいい。





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話は変わって、マキアージュのCMに、アギネス・ディーンが出てるのは変だと思いませんか。そんなの私だけだろうか。4人の日本人のなかに、アギネスが1人。日本人4:イギリス人1というアンバランスさは言うまでもない。加えて、格の違いが目に付いてしょうがない。エビちゃんとアギーを並べてしまってよいのか。だいぶ格が違うんでは?と思うのは私だけだろうか。アギネス・ディーンがどれくらい売れてるかって、ジゼルに負けてないんじゃないか、と思えるくらいだ。イギリスのニュースサイトを見ると、毎日のように写真や記事が載っている。どうもあの広告が"しっくりこない"のである。



そもそもイギリス人のアギネスが、日本人向けの化粧品の広告に出てきたところで、現実味が無い。こればっかりはどうしようもないのである。例えばハーバル・エッセンスのシャンプーCMに出てくるラテン系のお姉さんがどんなに綺麗であろうとも私ら日本人の黒髪にとって結局、合うシャンプーはツバキだったり、あるいはアジエンスだったりする。



アギネス・ディーンが綺麗なのは当然だが、綺麗でしかなくて、そもそも細胞の種類が違う(科学的なことはよく分からないけど)西洋人が、化粧品を宣伝しても、説得力に欠ける気がする。



(カネボウかどこか、あまり覚えてないけど「おとなButかわいい」のキャッチコピーで、いつだったか。ジェマ・ウォードが登場していた。日本人の女優以上のCM料が発生したんだろうなと思った。だって、世界のジェマである。こんなのによく出てくれたよなあ、と思った覚えがある。

しかし、これだけの大スターを使いながらもやっぱり話題性と売れ行きで勝るのは、日本人女優を採用したメーカーであるように思う。人によって違うかもしれないけど。)



あー資生堂も広告のためにだいぶお金を払ったんだろうな、と思わせる広告である。少なくとも私にとっては。



さらにもう一つツッこませてもらうと、あの音楽はどうかと思う。Power of the Woman(かな?たぶん)は、ちょうど私が中学生ごろに聞いていた曲だ。懐かしくあることは確かだが、それだけじゃ認められない。曲のタイトルと内容があからさま過ぎるし、なんだか幼稚な感じがする。そもそもあの「画」と合っていない。「ア~ ドゥードゥードゥー…」って、なんだかガックリである。



とまあ、見過ごせない広告についてこんなに書いてみたんだけど、今になってマキアージュのサイトを見てみたら、もう次のCMに移行しようというところでした。そしたら、ほらね、もうアギネスが出てない。The Strokesのボーカル(名前忘れた)との熱愛で、シセイドーどころではないのである。マキアージュは、伊藤美咲とエビちゃんで貫き通して良いと思うんだよね。

Sunday 21 September 2008

フランス語を話した

土日ともに働いた。ちなみに明日、月曜も勤務である。これでは曜日の感覚が無くなっていく。そして、曜日の感覚というのは、生活のリズムをつくる上で実に大事だと思う。週末を失うという体験をして初めて分かることだ。あと一日。あと一日行けば、休みがやってくる。

ベルギー人と会話をした。知り合って数週間になるが、今日は、初めてフランス語で会話をした。これは感動的だった。会ってから今までずっと英語を使っていたのだが、ついこの前、あることにふと気付いた。彼女の母語は、フランス語なのである。これは、私のフランス語の出番が来たのではないか。

実に、年に数回、数える程度だが、フランス語を話す機会がこうやって訪れる。ほかの言語をしゃべれないときより、フランス語をしゃべれないときの悔しさのほうがだいぶ大きい。
私のフランス語がどういう具合かというと、「だ、だいがくでェ~、ワタシは~…ふ、フランスゴヲ~、べんきょ、チョット、したあるヨ~」という具合である。大学で、最後の一年だけ履修した。楽しかったのでもっと早くから真面目にやっておけばよかったかもしれないと今さらながら思う。本当にあの一年は楽しかった。

書き、となるとデタラメこの上ないが、聞く、となると、ある程度できる。一年という学習歴にしてはまあまあじゃないか、と自分でも思う。聞くことに関して言えば、私はフランスの映画がとにかく好きなので、耳が慣れている。見る映画の割合としては、英語と同じくらいかそれ以上、フランス語の映画が多い。フランス人の友達はいなくても、映画のおかげで、決まり文句くらいは聴き取ることができる。

話すとなるとどうしても「恐る恐る」にならざるを得ない。これはきっと慣れていないからに他ならない。さらに、フランス語は母音も子音も多くて、ちゃんと相手に聞きわけてもらうにはある程度の気配りが必要である。英語も然り。イタリア語やスペイン語、韓国語となるとその心配があまり無い。

だから心理的な壁ができてしまう。こんな発音で通じるんだろうか、という「恐る恐る」にいたる。

英語の場合はなぜそんなに恐れないかというと、場慣れしているからだ。これまで習ってきた年数もあり、そもそも、フランス語母語話者と話した経験VS英語母語話者と話した経験 を比較してみると、答えは…言うまでもない。やはり慣れは大きい。

まあ、いずれにせよ、忘れかけていた活用を思い出しはじめた。今度の休みにでも文法書を引っ張り出してみよう、と思う。「右」と「左」すら逆に覚えていたようなので。いい機会だから復習しよう。

Saturday 20 September 2008

19日の夢、トマトについて

19日の夢について。

弟がいじめにあうという夢だった。最悪だ。そもそも以前から「ぼくはクラスで好かれているほうじゃないし」というセリフを何度も聞いたことがあった。それがなぜ今さらこんなかたちで現れたのだろう。クラスメイトに無視され続けるという夢だった。つらそうだった。

こういうとき、分からないのが、私自身が夢の中でどこに位置しているのか、という問題である。
まったく不明なのだ。ちょうど、村上春樹の「アフターダーク」みたいな感じだ。自分の視点だけが宙に浮いて、対象をおっかけているような、そんな感じ。

今日の帰り道、急にそのことを思い出して弟に電話をかけた。仕事中はとても忙しくて、夢のことをすっかりわすれていたのだが、職場を出たらすぐに夢のことを思い出したのである。

心配には及ばず、元気であるようだった。良かった。安心した。

*****

トマトについて。
どうでも良い話だが、トマトが好きだ。あんなに嫌いだったのに。
そう、かつては嫌いな食べ物ナンバーワンだった。何が嫌いか、と言われれば、相手が食べ物、動物、テレビ、その他もろもろ、一体何について訊いているのか、それさえ分からずともとにかく最初にトマトと答えていた。20歳近く、もしくはそれより前、味覚が変わり始めたころ、だんだんと「好きじゃないけど食べれる」ようになってきた。そして、イタリアにしばらく滞在したころ、トマトが美味しいということを知った。それでもまだ好きとは言えなかったのだが、今となっては、トマトを食べない日は無い、というほどまでになってしまった。常食である。常に冷蔵庫に5個以上ある。1日に2個は食べている。トマト無しには食が始まらない、というほどまでになった。というのも、主食がパンとパスタになってからのことである。トマトなしで食べることは考えられないのである。両者とも。

「見かけからして、あれさえ食べてれば大丈夫そうだよね」

と同僚が言っていた。

私も、そんな気がする。

Friday 19 September 2008

追記:18日夜の夢

バトンをまわす16歳くらいの女の子たちが出てきて、私に「辞めて下さい」の請願書をつきつけてきた。怖かった。

語学はせっぱつまって伸びる

雨が降っている。特に書くべきことが無い。仕事の愚痴なんてものはいくらでも書ける。しかしここではやめておこう。

9月から再開させたラジオ英語は、高校時代ほどとまではいかずとも順調に続いている。ビジネス英語なんて、特に、知らない単語が本当に多くて毎度自分を責めることになる。未熟さを痛感している。今までどれだけ怠けていたか、文字通り「痛い」ほどに「感じ」るのである。

イタリア語も英語も、もっときちんと勉強したいのだが、どうにもこうにも、時間をとるのが下手になっている。やろうと思えばできる。英語のほうはまだ勉強しやすい。イタリア語については、インターネット記事を読んだりする。
http://seidimoda.repubblica.it/home
しかし、なんというか、もっとはまりたいのだ。没頭したい。語学って、ある程度没頭したほうが効果が出やすいような気がする。ぼちぼち、一日少しずつ継続させていくのは大事だ。しかし、同時に、一ヶ月くらい、その言語づけになるのはかなり効果的であるように思う。科学的根拠までは語ることができない。よくわからないから。ただ、ある程度、せっぱつまったくらいのほうが伸びる。だから、検定試験なんてものを自分に課すとちょうど良いのである。事実、韓国語も、イタリア語も、そうだった。受験料もったいないじゃーーん、とせっぱつまるのである。自動的に、貧乏性だと必死度も増す。

ま、いいや。今日は寝よう。

どうも身体がFlabbyである。嫌気がさす。

Thursday 18 September 2008

ナイーブな日本語、レモングラス

「さきほどニュースで“つくばエキスプレス”とお伝えしましたが、正しくは“つくばエクスプレス”でした。訂正いたします」
さっき、NHKのアナウンサーが、ニュースで言っていた。エクスプレスかエキスプレスか。どっちでもいいじゃないか。と言いたいところだが、私にとってはこれが魅力のひとつでもあるのだ。つまり、外来語を統一できていない、ナイーブな感じがするニッポン。いや、むしろ日本語。ほっとけないわけよ。いわゆる、ツッコミどころ満載の、日本語。

一つの、れっきとした「言語」であるわけだが、耳にする語彙はほんの数年のあいだに、みるみるうちに変わっていく。さらに、あふれかえる外来語と向き合うべきなのか、明確な指針も決まりも無いまま、エクスプレスになったりエキスプレスになったりする。City bankがシティバンク(Shitty bank)と発音されちゃったりもする。よくも悪くも無い。ただ、どこまでも面白いと思うし、奇妙だと思う。言語ってこんなにも脆いのか、と、驚いたり、むしろその柔軟性に感心したりもする。

話は変わって、先日、友人宅でレモングラスティーをご馳走になった。とても美味しかった。アールグレイが美味しいとか、お茶について私がしゃべれることは限られていて、たいして詳しくはない。

レモングラスティーを飲んだのはおそらくこれが初めてで、美味しすぎてびっくりしてしまった。どれくらいびっくりしたかって、飲んだ瞬間「わ!」と声が出たくらいだ。

カフェインも入っていないので、夜飲んでも、不眠に悩まされることはない。むしろ身体が落ち着いて、眠りやすくなるらしい。機会があれば、ぜひみなさんもどうぞ。

Wednesday 17 September 2008

長い水曜のぼやき、いくつか

世の中、みんな水曜日は辛いようだ。私にとってもそれは同じで、スケジュールはタイトであり、メンタリー、あまりかんばしくない。そんな気がする。

ところで今日はまあまあ調子が良かった。昨日、すごい病みかたをしたから心配していたのだが。

***

リアム・ギャラガーが本当にジョギングを続けているらしい。
http://www.thesun.co.uk/sol/homepage/showbiz/bizarre/article1677180.ece
売れに売れているアギネスの記事を読んでいたら、リアムが出てきた。画像のコピーはできないのでこのリンクで確認してほしい。リンクが消えないうちに。写真がなかなかシュールで面白い。
ロックスターたるもの、酒とタバコと女だけじゃやっていけないんですね、どうやら。

イギリス紳士に「ザ・サンを読みなさい。英語が上手になりたいなら」と薦められたことがある。滅多に新聞なんて買わない私だが、イギリスではこの新聞を何度か買ったことがある。使われている単語が明らかに特殊である。書き方も違う。素人でも分かるのではないかという違いである。そして英語学習の教材としてはパーフェクトである。かなり上級だが。

****

帰り道にふと、プリングルスを買ってみた。ジャンクフードが欲しくなるときがある。帰り道、歩きながら食べた。歩き食べは見っとも無いということは分かっていても、歩きながらしか味わえない味というものがあると思う。やや強引だが。ほんとうに。その場で食べたいからこそ買ったもの、というのは、やっぱりすぐに食べたいものだ。

眠い。

かかりつけの医師に、昨日のメンタルヘルスについて説明をしたところ、うつ病の始まりかもしれないと言われた。早めに診察をしたほうが良い、と。ただし、今日は平気なのだ。ほうっておくとまた昨日みたいなことになりかねないのだが、確かに一度はカウンセリングを受けてもいいかもしれないと思う。

先週買った花を、よく世話している。そしたら一週間経ってもまだ元気であるのだ。世話の仕方は影響するのだなあと実感している。

周りにもストレスを感じている人が多い気がする。共感しあえる。五月病にはかからないけど、九月のほうがだいぶ危険性が高いと思う。季節柄もあるだろう。夏が終って切ないうえに、急に忙しくなり、現実に戻されるから。

今回、生理痛が全然ひどくなかった。久しぶりに苦しまなかった。その代わりに、ストレスがすごかった。ホルモンバランスの崩れがすごかった。自覚症状があった。

どっちが良いのだろう。いわゆる究極の選択、である。選べない。どっちもやだ。

先日思いついた誕生会参加者が、今日だけで10人近くに達した。このブログを読んでいて、来たいという人があれば連絡下さい。

Tuesday 16 September 2008

ある種のディスオーダー

今日は朝からストレスに押し殺されそうだった。メールの転送システムを解除しておいて本当に正解だったと思ったと思う。(数日前のブログを参照。)
帰り際までずっと苦しくて仕方なかった。こんなにもストレスに弱かったのか、とおもった。そして、どう対処していいのか本当に分からなかった。ここまでストレスを感じたのは、いつが最後だったろう、と思ったけど思い出せなかった。
強いストレスを感じると、どうなるか。具体的には、耳の後ろから方にかけての部分がひどく凝り固まったような感じになる。ちょうど、角でも生えてきそうな感じである。さらに、腹の中がすごい。もののけ姫が煮えくり返ったような感じになる。正確に言うとそれはもののけ姫ではなくて、私が「もののけ姫」と聞いて最初に思い浮かぶあの、ぬるぬる、あるいは、どろどろした、黒いもののことである。ああいうものを胃の下あたりに感じるのだ。

同僚が何かあったのかと訊くので「おなかが、もののけ姫」と答えておいた。

帰り道、人ごみのなかで、ちょっと通り魔の気分が分かってしまった。こりゃーナイフふりまわしたくなるわ、と思った。みんな消えちまえー、て。「誰でも良かった」というおなじみのセリフの意味が、やっと分かった気がした。

ほんの20分くらいだが新宿のカメラ屋に用があって行った。できあがったフォトブックを取りにいくのだ。これで段々と気分が紛れてきた。レモングラスと、ローズマリーとハムを買って帰宅。スパゲティを茹でて野菜を刻みまくっているあいだに、さらに気分が回復してきた。それからビールを飲んだら、70パーセントくらい解決したように感じた。

人間ていうのは面白いと思った。実に単純である。
"Tomorrow's another day."
このセリフがすぐに思い浮かんだ。そして急に明るくなってきて、昨日思いついた誕生会の計画を立て始めた。楽しくなってきた。結局、夕飯もしっかり食べた。
やっぱり、ほら、時間が解決した。もがいても、どうにもならないときがある。
明日は明日の風が吹くのだ。

Monday 15 September 2008

Another Sleepless Night

昨日はブログを書く時間も、書くこともたくさんあったというのに何も書いていなかったらしい。朝もまともな時間に起きて、比較的健康的だと思った。でも一日が過ぎて夜10時ごろになって気付くと、その日はチョコレート、バナナ、コーヒーとパンしか食べていなかったということに気付く。それでもあまりお腹は減っていなかった。

掃除をしたのは覚えている。アイロンもかけた。ほかは、ずっとベッドの上にいた。午後4時過ぎまで一歩も部屋の外に出なかった。テレビも音楽も結局消して、何ひとつせずに空っぽの部屋で1人、ぼーっとしていた。寝ればいいんだろうけど、既に眠ったあとだった。

泳ぐことにした。巨大なストレスを感じたのだ。普段なら1kmに達する前に、面倒になって泳ぐのをやめるのだが、そのまま泳ぎ続けて1.25km泳いだ。久しぶりにこんなにたくさん泳いだ。それでもまだまだ泳げそうなくらいだった。こんなにエネルギーがあったのか、と驚いた。エネルギーというか、ストレスだ。

シャワーを浴びて、コカコーラを飲む。

少しスカイプで話してさらに不機嫌になる。今日食べたものを思い出してみたら、やはりまだ何か食べる必要があると思ったのでブルスケッタを作った。3枚。あとは、モッツァレラと、ビール。

11時過ぎごろから手紙の続きを書き始めた。合計で、7枚の手紙になった。我ながらすごい勢いで書いた。その証拠に(?)辞書を一度も使わなかった。気がついたら日付が変わって、2時半になっていた。「明日は休みだから昼まで寝よう」と思った。

しかし結局眠りにつけず。結構気分が悪くもあったし、コカコーラに入っているカフェインのせいだったろうとも思う。

見た夢がとにかくむちゃくちゃだった。職場で会うはずの人たちが私の実家に大勢やってくる。職場の人たちの同窓会が、近くの学校を貸しきって行われている。なのに私の家にも人があふれているのだ。大宰府乗り換えで行く~、とか、意味の分からない単語がたくさんでてきた。大宰府?そしてやたらと母親の出番が多かった。「ここが自分のうちであることを言ってはいけない」と言われた。「それは無理だ。むしろ意味が分からない。何のために」と訊いたら「こんなに大きな家を持てる人は世の中になかなかいないし、みんなが羨ましがるから偉そうにしないの」みたいなことを言われた。なのに彼女は、ホスト役をやっている。ほとほと理解しかねた。

昨日読んだ内田樹のブログによれば、「夢というのはその日に構築した思考を解体するものだからなるべく支離滅裂(意味不明?)であることが望ましい」らしい。うむ。昨日は確かに色々なことを考えた。

体重がまた減っていた。何年間か見たことの無い数字だった。驚いた。きっと、考えることにエネルギーを使いすぎたせいだろう。

というわけで長く寝るつもりでいたのに、ご覧のアリサマである。2時半に寝たのに、8時前に起床。12時まで寝たかった。とりあえずはちみつ(同僚にもらった)パンとミューズリーを少しだけ食べたものの、しばらくしてもう一度寝ようと思う。最近撮った写真をFacebookにアップロードしておいた。

もう一回昨日の話に戻る:The strokesとRadioheadをよく聞いた。今日こそは何か映画を見たいと思っている。そしてもう少し生産的な一日を過ごそう。一日24時間じゃ足りないんだよね僕には

Saturday 13 September 2008

a milestone

さてさて、待ちに待った連休である。9月第一週に比べると今週は短く感じた。仕事の量も少なかったと思う。本日土曜は、時間になったら逃げるように職場を出た。身体が、休みを待ちきれずにいたのだ。

昨日に続いて、友人に会った。こういうのって楽しくて仕方ない。つまり、"気のおけない"友人と、ゆっくり話しながら時間を過ごすこと。もう少し正確に言うと、その日の終わり、つまり仕事の後に、人と会う予定が入っていると分かっていて過ごす一日は結構いい。仕事中が楽しい。さらに、帰り道が楽しい。
わくわく、というより、うきうき、に近い。そして事実、わくわく、より、うきうきのほうが好きだ。

数日中にアメリカへ経つ友人を送ったあと、本屋に行ってみた。買うべきものは無いのだが、知的好奇心ってやつがオイラをここに導くのさ、的入店に過ぎない。だいぶ長い間、色々と見てまわった。これだけじっくり本屋に浸るのは、実は久しぶりである。

情報量の多さに、目が回りそうになる。雑誌のカラフルさもそのひとつだが、一番「わあ」と思ったのは自己啓発本のコーナーである。

「病んでんなあー」

と思わず口に出しそうになった。仕事から恋愛まで、人は「助言」を求めるのである。今も昔もきっと変わらないと思う。ただ、どれだけベストセラーになろうとも、それが啓発系の本である場合は特に、自分に合うかどうか、まったく予測不能である。小説であればベストセラーなりに、「おお」と思う、つまり、ある程度ヒットする確率は高い。しかしこういう自己啓発系は、その人に「ヒットする」可能性は低いと思う。

「ストレスをためない」「鈍感力」「"いい加減"が効く」「聞き流す法」

といったようなタイトルが多いなと思いながら、新書のコーナーに行くと、姜尚中の「悩む力」という本が目に入る。
もう、本当に世の中矛盾だらけだよなあ、と、心のなかで苦笑いした。

たとえば、悩むな、という人もいれば、悩むことはいいことだ、という人もいる。助言を求めたところで、適切なものが得られるとは限らないのだ。つまり、そもそも助言が多すぎる。書き手は、相手を知ってるわけじゃないから。無差別なのだから、対象は。

私はファッション誌を買わない。あれだけ情報があふれているのだが、本当に自分に必要な情報なんて、実を言うとほぼゼロに近いのである。そういうことを、既に分かっている。買わない、というより、買えない、のである。

話は変わって:
『キンキー・ブーツ』を見た。イギリス、サウサンプトンの話だった。☆☆☆★★かな。音楽が良かったから。

たとえば、ニューヨーク・シティが映画の舞台として「サマになる」のと同じように、イングランドのさびれた街も、「サマになる」と思う。「ビリー・エリオット」や「フル・モンティ」を思い出した。


少し北部イングランドが恋しくなった。ふと気付くと、今日は13日。確か、4年前の今日、イギリスに向けて日本を旅立ったのではなかったか。マイルストーン的な日である。誕生日やほかの記念日とは別の、ささやかながらも私にとっては深い意味を持った、マイルストーン的な日である。

転送設定解除

数ヶ月ぶりに親しい友人と会った。半年近く会っていないにも関わらず、不思議と久しぶりな感じはしない。たくさん話した。精神的な成熟度が人一倍高いと学生時代から思ってはいたが、今夜会って、さらに成長していると感じた。

*****

私が普段使っているメールは、仕事上のメールも転送するようにしている。4月ごろにそう設定した。というわけで、家でも見ることができるわけだ。

しかしながら昨日、ついにその設定を解除した。せっかく半日勤務で早く帰宅して休んでいたところに、パソコンのo-la-la (メールが届くとこの音声が鳴るようにしている)が鳴って、誰かと思えば同僚からのメールである。うんざり、というか、げんなりした。毎度のことではあるのだが。
家に帰ってまで、見なくていいはずのメールを見たくは無いと思った。
「あれ、これを解除すればいいだけの話ではないか」と、ふと気付いた。単純なことだ。これを今までプレッシャーに感じていたのだ。少しはストレスが軽減されるだろう。

というわけでだいぶ気分が良かった。

さてさて! one more day to go!!!

Wednesday 10 September 2008

まーだ水曜だわ

多忙である。

たとえば、一般企業に勤めている人たちがどのくらい忙しいのか私は知らない。想像はできるが、経験が無いので実際はわからない。しかしながら今の状況は間違いなく多忙と呼べるだろう。断言できる。座っている暇が無い、という時点で、間違い無く、私は多忙、だ。

ただ毎日そうというわけでもなく、今日なんかは、たとえば、二回も休憩をとった。2時間近く休んだ。二回も休めるならその間に片付けられる仕事があるはずだ。しかし私はあえて、手を止めることにしている。片付けるべき仕事を見ないで、休むときは休まなければいけない。仲の良い同僚と、あえて時間を合わせ、色々なことを話す。必要な時間である。

この週末をとても楽しみにしている。いつの間にか、人と会う予定で埋まりつつある。友達の存在は大きい。本当に大事な友人というのは、しばらく会っていなくても、ふしぎとつながっているような気がする。ふと会いたいなあと思ったら、相手から連絡がきたりするものだ。

ただ、大学を出て二年経った今、思うのは、ある程度「連絡をとろう」という気持ちと、まめさも必要かもしれない、ということだ。暫く連絡をとっていなかっただけで「あいつはどうせ連絡くれないから」という変な勘違いが生まれることも、無くはない。

幸いなことに、私はそこまで気にするたちではない。

ただ、ふとした、とある瞬間に、ある人の顔が思い浮かんだら、それをなるべく逃したくないと思う。「会いたいな」と少しでも思ったら、すぐに会えるわけでなくても、メールなり電話なり、する。
「げんき?」と。
別に特別に仲良いわけではなくとも、「あー、げんきかな」と、ぼやーっと思った瞬間に、私は今きみのことを思い出したよー、というサインを出すのは、うれしくて、素敵なことだと思う。まぎれもなく。

縁ってのはそういうものだろうと思う。ほとんど、すべては「あー、げんきかな」から始まる。

*****

総裁選が始まる。麻生さんになっちゃって良いのだろうか。不安だなと思うものの、あの人の話し方には注目せざるを得ない。滑舌が良いのももちろんだが、あのイントネーションが、実に上手い。人々が「気になって仕方ない」しゃべり方である。だてに吉田茂の孫やってないなあ

いずせにせよ、もう、5人中5人とも、一年後にはサヨウナラになっちゃってそうだ。悲しいかな、そう見えて仕方ない。

Sunday 7 September 2008

I'd rather walk.

7日ぶりの何も無い日。この日を待ち望んでいた。誰からも、何ごとも強制されない日である。昼まで寝るつもりだったのにいつもの癖で7時ごろ目覚める。睡眠が足りているわけはないのに。空腹であるようなないような、そんな気がしたのでマシュマロを食べた。食べかけたまま冷蔵庫に入れていたら一晩で干からびていた。
その後何か食べたような気がしたが忘れた。

パソコンの電源を入れる。

この動作がとにかく好きだ。電源を入れることが好きなのではない。朝起きてから、パソコンの電源を入れるのが好きなのである。自分が眠っていた数時間のうちに、世界では一体何が起きただろう。そういう想いからくるのかもしれない。よく分からないけど、起きてから数秒後にテレビの電源を入れる行為も好きであることを考えると、やっぱりそうだと思う。

しばらくしてから、読みかけていた『お金がなくても平気なフランス人 お金があっても不安な日本人』を読み終えた。この筆者の本は、主観が相当入っているし、おい極端だなと思うことが多い。しかしながらこのタイトルは当たりだと思う。ベストセラーになるひとつの理由。

9時半ごろから眠った。起きたら11.59だった。ぴしゃり。

ミューズリーを食べた。少し掃除をした。しばらくしてからバナナを食べた。

*****

そのあとずっと、YoutubeでOasisを見た。ステージ上で兄弟ゲンカをしてリアムが立ち去る様子をはじめ、ありとあらゆるインタヴューを見た。相変わらず、マンチェスター訛りの英語を、ちっとも聞き取れないでいるのだが。

まあそれにしても痛快である。と、あらためて思った。何回か見た映像ではあるものの、何回見てもやっぱり面白い。個人的に一押しするのが、オーストラリアでのインタビューだ。リアムがカメラに指を突きつけ:

"I'll tell you kids- I'd rather walk."

この一言である。"Legend!" と誰かがコメントを残していたが、うむ。確かに。
"You said it."と返したい。

そういえばもうすぐ、新しいアルバムが出る。と思っていたら、後で行った図書館で、雑誌のコーナーを通りかかったらロッキン・オンの表紙にリアムが載っていた。

やれやれ、今日はOasis Day、である。
雑誌のインタビューによると、最近、リアムは禁煙をしているらしい。さらには、ツアーのための体力づくりとしてランニングをしているらしい。

…あと何日もつだろうか。


そもそも、どうして今朝に限ってOasisの映像を見たくなったのか。
もともと好きだしよく聴く音楽ではあるのだが。

金曜日、仕事中に二回もWhateverを聴く機会があった。歌詞を見ながら、である。
そしたら、急に涙がこみあげてきた。
なんて泣かせる歌詞なんだろうと、そのとき、初めて思った。

なぜって、タイムリーなのである。ちょうど、将来や人生ついて真剣に考え始めたここ最近、こんなことを歌われてしまってはもう泣かないわけにはいかなかった。



I'm free to be whatever I
Whatever I choose
And I'll sing the blues if I want
Whatever you do
Whatever you say
Yeah I know it's alright



ちなみに恋人はOasisの世界を地で行くような人間だ。しばらく前、まさにこういうことを語っていた。人生ってのはこうあるべき、みたいな真剣な話だ。後にそれは、この先を考え始めるきっかけとなり、起点となった。
その日のことを思い出した。
曲を聴いているうちに、思考は、壮大な規模でぐるぐると回転を始めた。

ほんの何秒間かのあいだ、頭の中に映像が浮かび上がった。
それは、岐路に立たされている自分(のようなもの)だ。
具体的に言うと、(典型的かつ短絡的で申し訳ないが、)広い荒野に、いくつか道があって、そこにぽつんと人間が立っている様子。

岐路なのか、今って
やっぱりそうだったのか!

今の生活に疑問は無いのか
このままでいいのか

何か、選ばなければいけないんじゃないのか
考えるのはまさに今なんじゃないのか
そういうときなんじゃないのか
幸せとか、辛さとか
我慢とか、愛とか



と、仕事中に何秒か目を閉じて、信じられないくらいたくさんのことを考えた。 
まあ、言葉に表すとこんなちっぽけなもんだ。いくら並べたって足りない、パローレ・パローレ。

私の頭のなかでそれだけのことが繰り広げられていたなんてその場にいた誰が気付いただろうか。
というわけでここ数日ずっと頭の中でWhateverが鳴り響いているのであります ― 応援歌のごとく!

******

(自分で言うのも何だが)私は想像力が豊かである。幼いころからそうだった。
いわゆる「ワンダーランド」みたいなものが常に存在していた。そしてそれを画に描いていた。

まだ幼稚園児かそれ以前に、「ピンク色の世界に住みたい」と祖母に言った。おそらくドラえもんか何かの影響だったと思う。
「あっちこっちにお菓子が浮いていて、お友達も、家族もみんなふわふわ飛んでうごくせかい」
と説明したら祖母は

「そりゃ、おしっこもできん」

と一蹴した。
少女は紛れもなくガビーンΣ( ̄□ ̄;)と衝撃を受けたのだった。

が、今となっては微笑ましい想い出である。

Saturday 6 September 2008

Vacanze bye-bye, come mantenere energia e pensieri positivi

un articolo da Repubblica.it

http://seidimoda.repubblica.it/dettaglio/Vacanze-bye-bye/52248



Vacanze bye-bye, come mantenere energia e pensieri positivi
di I. E.
Avanzini, A. Croce, A. Remenghini
Estate agli sgoccioli. Come togliersi di
dosso la malinconia del rientro? Con i giocattoli, come le bambine: un pennello
magico, il fard oro colato, la crema che fa lievitare il seno, il mascara con le
setole a ventaglio...

Ormai ci siamo. Le giornate si stanno accorciando
e la nostra pelle se n'è accorta subito: la brezza marina è più fresca,
soprattutto dopo una certa ora, quando la sabbia sembra polvere d'oro. Ma non
eravamo appena arrivate? Per una strana legge del tempo, invece, le vacanze sono
agli sgoccioli. Coraggio, per affrontare questo piccolo trauma, ci vuole un po'
di psicologia spicciola applicata. Come? Con lo shopping, antidoto alla
malinconia così potente da richiamare continuamente l'attenzione degli studiosi.
Importante è non mandare in tilt il bancomat, perché se lo shopping diventa il
proprio Prozac-on-demand si tende a spendere cifre più alte del previsto, come
sottolinea la ricercatrice Cynthia Cryder, della Carnegie Mellon University di
Pittsburgh, in una recente indagine. «Le piccole delusioni a volte si combattono
regalandosi qualcosa di speciale, come un acquisto non pianificato, che ci fa
svagare dai pensieri negativi», conferma il dottor Alessandro Miani, esperto di
strategie di comunicazione e autore, insieme a Gianfranco Virardi, del libro “Il
marketing dei 5 sensi” (in uscita a settembre, Fausto Lupetti Editore).Joshua
Freedman, neuroscienziato della University of California, si è invece spinto
oltre il concetto di puro possesso scoprendo che, in realtà, i centri del
cervello legati al piacere di una ricompensa si attivano non appena ci rendiamo
conto che l'oggetto desiderato è alla nostra portata: «Sì, posso comprarlo», et
voilà, una cascata di energia positiva invade i nostri circuiti cerebrali. E
dato che anche un piccolo acquisto diventa un talismano antidepressivo, la
profumeria è il luogo ideale per questo tipo di gratificazione.

Oggetti
del desiderio accessibili e seducenti: le donne si regalano rossetti e profumi,
ma secondo un rapporto Unipro (Associazione italiana delle imprese cosmetiche)
sono attirate anche dall'innovazione tecno-logica, tanto che nel 2007 il settore
trattamenti antiage è cresciuto del 37%. Il make up, comunque, fa sempre la
parte del leone. «Impossibile resistere alle variegate palette multicolori, in
secondo luogo si viene conquistati dalla piacevolezza tattile, visiva e
funzionale trasmessa da prodotto e confezione. La marca invece non solo è
garanzia di qualità, ma crea l'illusione di entrare in un mondo magico ed
elitario», continua Miani. «Si sta acquistando un sogno, un sogno di bellezza e
di appartenenza». Non a caso alcune aziende scelgono packaging molto attraenti,
alcuni sembrano veri e propri gioielli: bracciali, ciondoli, collier che
nascondono gloss, ombretti, illuminatori.Seduzione a prima vista, certo, ma
anche naso, tatto e olfatto possono essere ammaliati altrettanto efficacemente,
come rivela Miani: «Oggi si parla di marketing dei sensi: si fonda
sull'importanza del fattore emotivo nella decisione del consumatore, e poiché le
sensazioni soggettive e irrazionali che influenzano lo shopping dipendono dagli
stimoli sensoriali ricevuti in quel momento, si cercherà di trasmettere input
sempre più mirati.

In certi casi poi la moderna comunicazione si esprime con capacità
espressive polisensoriali davvero sorprendenti. Per esempio, l'anno scorso
un'azienda di materie plastiche ha inventato un flacone capace di “ricordare” la
fragranza del contenuto. Così, per annusare il profumo all'interno è sufficiente
prendere in mano il pack senza bisogno di aprirlo. Ma c'è chi, ancora, si affida
a sensazioni più vere, come spiega Isabelle Gex, senior vicepresident global
marketing Parfums Givenchy: «Mi piace far testare i nostri prodotti più
particolari in ufficio dove lavorano molte donne. Quest'anno tra le tante novità
ci sono un orologio da taschino che contiene un fard illuminatore e una crema
antietà nera, profumata e setosissima al tatto, ma totalmente incolore sulla
pelle. Bene, le nostre ragazze li guardavano sorridendo. Sarà perché la nostra
audacia creativa ci ha sempre premiato, ma sono sicura che avranno
successo»
(Pubblicato il 29 agosto 2008)

あなたたちを利用します

昨夜だったか、「海外で日本語アシスタント」という、よくありがちなサイトを見ていた。気になる情報といえば行き先、資格、費用などである。しかしながら、やたら目立つのがTOEICの五文字なのである。
「TOEICスコア125点アップしました」とか「TOEIC対策に最適」とか。

ええっと、どういうことなんだっけこれは、と思って3秒くらい考えてみた。それはつまり行き先が英語圏であって、英語母語話者を相手に日本語を教授することによって自分の英語力が伸び、さらにはTOEICスコアもア~ップ…というメッセージであったわけだ。

日本語アシスタントの宣伝なのだから、日本語を教えることの意義や、実際にアシスタントをやった人の感想、コメントその他が載っていると思った。少なくとも、そのサイトを閲覧する人の求めている情報といえばそういう類のことであろう。

なのに「TOEIC点数アップ」は無いだろう。

がっかり、というよりも、とても妙な感じがした。それは何故か。
簡潔に言えば、学習者に教えるというよりむしろ、学習者を利用しているからだ。
別にそれを良い悪いの2言論で片付けるつもりもない。むしろ、そういう動機で「教える」ということに携わる人もいるのだなあ、と新鮮に感じた。

ただ、それを知った日本語学習者はどう思うだろう。「先生は僕たちから英語を学ぼうとしている」と気付いたとき。嬉しがる人もいるのかもしれない。
ただし、大事なのは、これはランゲージ・エクスチェンジではないということだ。エクスチェンジ・パートナーなら教えあうことが基本のコンセプトである。しかし残念ながらアシスタントはエクスチェンジ・パートナーではない。

結果的にそのサイトへの信頼度が下がった。まあそもそも「最後までサポート」とか「信頼される」とか「就職率も良い」などというワードが並ぶサイトは信用ならないわけであるが。

以上、ちょっと気になった出来事でした。

Friday 5 September 2008

会議を途中退席する、の巻

勤務後、出張して会議に参加しなければいけなかった。夜の7時開始。

内容に意味が無さ過ぎて呆れた。事務長みたいなおじさんが出てきてしゃべりはじめたが、要点が分からない。会議と言うよりも説明会である。要点さえつかんでしゃべってくれたらそれで良いのだ。



20分くらいで終るだろうと思っていたら1時間近くかかろうとしている。イライラが最高潮に達してきたので、会議を途中で退席した。意味が無いのだ。資料に書いてあること以上のことは何一つ述べられていない。

よっぽど、会の途中で



「すみません、要点はなんですか、結局」



と聞き返そうかと思ったくらいだ。我慢が切れる前に退席した。

夜になってみんなが一番家に帰りたいと思っている時間帯に、どうして少しでも早く終らせようという意識がうまれ無いのだろうか。



これが平気だという人もたくさんいるんだろう。が、私は「仕事だから」とか、「こういう人もいるさ」とか、「帰宅が遅れたくらいで」とか言って寛大になることがどうしてもできない。どうしても。



自分の時間を、第三者に邪魔されることが大嫌いなのだ。このことは小学校4年生くらいから分かっていたが、もはや、「大嫌い」どころではなくいわゆる「生理的に受け付けない」というやつである。部活というもので今まで一度もうまく行ったことが無いのもこのせいである。仕事はまだ自分に説得することができるが、それが拘束時間外であれば頭の中が狂気の沙汰になる。これは特筆すべき、ひとつの「性格」だと思う。





なぜ自分の時間を邪魔されたくないのか。それは、1人でやりたいことが多いからだ。



・画を描く

・写真を撮る

・映画を見る

・料理をする

・本を読む

・手紙を書く

・ピアノをひく

・勉強をする

・ビールとトマトとチーズを買いに行く



たとえば今やりたいことを挙げるとこれだけざっと挙がる。ちょっと自慢に聞こえるということを承知で言えば、これだけたくさんの趣味と好奇心に恵まれているのである。




今日、帰りの電車を待ちながらあらためて確信した。


「これは重症だな」と。周りにあわせるなんてこと、当分できそうにない。
*****
帰宅後すぐ、トマトとモッツァレラとパンを食べた。お風呂に入って、ビールを飲んだ。ラジオ英会話を聞いた。親しい友人から電話がかかってきた。1時間も話した。よく笑った。
そろそろ寝なければいけない。ただ、よく笑ってアドレナリンが放出されたのでいつものような漬物石級眠気は襲ってこないのである。
1 more day to go

Wednesday 3 September 2008

漬物石が身体全体に

疲れた。疲れすぎて頭が回らない。家に帰ってくるところまではいい。そして家に帰ってから2時間後までは良い。問題はその後だ。シャワーを浴びてベッドに横になると、急激に疲れが襲ってくる。だいたい9時ごろだ。今日も、帰り道に「ああ今日は元気だな」と思ったのだが、9時に「限界…」と感じるのは、前日とまったく同じである。だから家でやろうと思っていたことが少しも済ませられない。今日は
・注文して届いた本を読んで
・印刷しておいたイタリア語の新聞記事を読んで
・手紙を書いて
etc..
という予定だったのだがそれどころではなくなってしまった。もうこれ以上からだが動かない。体力が欲しい。つくづくそう思う。寝なきゃいけない、というよりむしろ、寝たい。そもそも、昔から疲れやすい体質である。今の状態は、漬物石が身体全体にのしかかってきている感じ。

明日こそ、少しはやりたいことをやれたら良いと思う。今日はもうこれで限界。

ああ一応仕事について書いておくと、出だし好調である。信じられないくらいに調子が良い。夜の疲れはその反動だろうと思う、きっと。

おやすみなさい

Tuesday 2 September 2008

手紙はいいね

嫌だ嫌だと言いながらも、職場で動いているとき、結局、楽しんでいる。この規則正しさが好きなんだろう。生き生きしている自分を認めざるを得ない。

それにしても疲れた。脚が苦しがっている。今週という一週間は長くなりそうな気がする。

*****

最近あらためて思うのだが、手紙というのはやはり良いものだ。「やっぱりあの手書きの文字がたまらない」とか色々理由はあろうが、何にも勝る点は、書いている間、書き手は相手のことだけを真剣に考えているという点である。私が手紙を好む最大の理由だ。こんなに嬉しいことは無い。
便箋を選ぶ、ペンで書く、封をする、宛名を書く、切手を買う、貼る、ポストをみつけて投かんする。
…電子メールよりもはるかに手間のかかる作業である。

今日、ちょうど仕事中、あなた宛に二日間かけて手紙を書いたので送ります、というメールを受信した。奇しくもちょうど相手のことを考えていた。とても嬉しかった。ティーンのことばを借りれば「テンションあがった」といった感じだろう。

眠さときつさが限界なので今日はこれで終わり。腹筋もお休みしよう…。

Monday 1 September 2008

増えてくけど、ちょっとずつ取り戻す

9時過ぎ、見ていたニュースがぶちっと切れた。

「たった今ニュースが入りました。自民党の福田総理大臣が…」

辞任するという。思わず、画面に向かって「はぁ?!」と声を出してしまった。びっくりした。よりによって、9月1日という、この素晴らしきはじまりの日に。直前まで何のニュースを見ていたかもう今となっては思い出すことすらできない。一年未満の任期。むむむ。何か、大きなことをやってのけるパワーは無かったんだろうか。その前にやめてしまうのが国民のためなのだろうか。どうも、日本という国はやる気に欠ける国であることを外に示してしまっているように見える。「ああまたかよ」「やっぱり」と、みんな思う。たとえ次の人がやって来ても、なかなか期待ができない。1年交代になってるわけじゃないのにね。民主党が政権を握る日も遠くは無いのだろうか。

この大ニュースはさておき、まったく関係のない話題に移る。

最近、新しい口ぐせが増えた。4月から夏にかけての口ぐせは

「どうしようもない」

だった。最近はこれに、ひとつ加わった。それは


やだ


本当に嫌と思っていないときでも、ここ数日間はこれが口ぐせになってしまっている。実際あまり嫌と思っていないときまで「あーやだやだやだ」と言っている。ほとんど意識していない。ちなみに今日は、恐れていたほど忙しくもなかったし、仕事に滅入ることも無かった。ただ、昨日まで、日常に戻るのを恐れていただけだ。にも関わらず今日も「あーやだやだやだ」を繰り返していた。

ただ、こうやってぶつぶつ言いながらも結局難なく仕事はこなした。5時過ぎには退勤した。ほかの同僚より早い。こんな感じで残りの月日を過ごすのであろう。

なにごとにも、100パーセント不満足を感じることがない人間だと思う。実は小さく感動していたり楽しいと思っていたりする。それでも「くだらない」とか「やだ」とかぶつぶつ文句を言い続けるのは、たぶんそうやってバランスを取っているのかもしれない。結構、幼稚だ。ちょっとその辺はよく分からない。

帰りにミューズリーとトマト缶を買った。ポストに母親からの手紙が入っていた。時々こうやって手紙を書く人だ。先日父と行った沖縄旅行の写真が入っていた。9月からも元気で頑張って、みたいなことが書いてあった。結婚して25年という2人、写真では、手さえつないでいない。まあ仕方ないよなー、日本人だしなあ。しかもあの2人だしなあ。ちょっと苦笑した。でもやはり、両親の幸せそうな姿はいつなんどきも嬉しいものだ。

昼ごはんに、しっかりと定食(コロッケと刺身!)を食べたので、お腹がすいておらず、むしろ眠かったので、帰宅後すぐにベッドに横になった。30分くらい、うとうとしてから、シャワーを浴びた。トマト、パン、チーズ、じゃがいもを食べた。ビールを飲んだ。じゃがいもなんて久しぶりに食べた。とても美味しかった。

今日から、ラジオの英語を再開させることにした。忙しいことを言い訳に、今まで聴いていなかった。ただ、最近どうも語学に対してどんどん怠け癖がついてきている気がする。そして低下している気がする。どこかで気合を入れなおさなければいけないと思った。これが完全に気合を入れた状態かといえばそうではないが、まあ、第一歩としよう。

昨日も書いたが、腹筋にしてもラジオにしても、ちょっとずつ取り戻していかなければいけないことがある。

毎日、新しく増えていくことがたくさんある。生きて、歳月を経ていれば、むしろそっちのほうが多い。でも、減らす必要の無いものもある。人間は、容器に詰め替えるコーンフレークスとは違う。詰め込む量に、限界なんてものはなかなかやって来ない。堅実な故郷のことや、毎日継続して努力することとか、失いつつあった感覚を最近少しずつ思い出してきた。

このことを親に伝えるべきかもしれない。もちろん手紙でね。

万年筆、外出

なくなったと思っていた万年筆が職場の引き出しから出てきた。一本千円のものなので、なくなってもあきらめはつくのだが少し気になっていたのは事実だった。中のインクは空っぽだが一体何色を入れていたのかさえ判然としない状況だった。家に連れて帰って洗うことにした。  翌朝の万年筆カートリッジ...