Saturday 31 January 2009

sciopero!

今ふと思いついたことを書きとめておく。

私は先輩後輩と呼び合うのが結構嫌いだ。敬うことは敬う、けれど必要以上には先輩扱いしない。したくない。必要以上に先輩扱いしなければいけないような年上の人とは、そもそも親しくない。

そして、後輩から、必要以上に敬われるのが、とにかく嫌いだ。敬うことよりもむしろ敬われることのほうが気持ち悪い。ただし仕事は別の話である。

2,3歳しか違わない後輩からのメールに「大変お手数ではございますが」とか「ぶしつけなお願いをしてしまい大変申し訳ございません」なんて書かれてあるのを読んだときには、びっくりした。むしろショックだった。気味が悪かった。たった数行で済むはずのメールが、挨拶に始まり挨拶で終る、とてつもなく長いメールになっていた。だから「そんな言葉遣いをしないでいいよ」と返した。

そんなに距離を感じられているくらいなら、しょせんその程度の間柄なんだろう、という判断をしてしまう。あっちは丁寧なつもりなのだろうが、私はむしろ悲しいのだ、その、必要以上の気遣いが。そんなに近寄り難いんだろうか私は、と思う。

だから名前に「先輩」をつけて呼ばれるのも嫌いだ。どこから来るんだろう、その肩書きは。未だにヘンな気がする。「~~部長」とか「~~先生」とかいうのとは違う。いまいち、1人の友人として見られている感じがしない。その呼び方が、あえて距離を作っている。気持ちが悪い。

そもそも敬語を使われたくない。私はその人の友人でありたいのに。敬語を使われてしまうと、だいぶ距離のある友人になってしまう。後輩を家に招いたとする。すると、「お宅にお邪魔させていただいてもよろしいのでしょうか」なんて堅苦しい答えが返ってくる。これがショックだし、いらいらする。

まあ、日本社会にいて、日本語を使っている以上それは仕方がないんでしょうね。そういう世の中に生れ落ちてしまったわけだから。ビジネスの世界はまた別の話です。当然、敬語が必要になる。ただ友人間であればそれって崩しちゃってもいいのでは、と思う。

とまあこういうことを書きながらも、結局「敬えよ、オマエ」みたいな、敬語を使わざるを得ない雰囲気をかもし出している張本人は私なのである。年上なのに、自然と、敬語を使わなくてもいいような相手っていうのもいますよね。いつの間にかタメ口になってた、というような。私もそうありたいんだけどなあ。

生まれた歳がもし10年違ったら、嫌でも敬いたくなるようなオーラと経験値を感じるのでは、と思うし、そういうケースは多い。ただ、たとえば、大学1年と3年の違いなんて、あ~んまりこだわる必要は無いのではと思う。だから、学年のくくりというのは本当に面倒だと思う。たとえば3月生まれの4年生と4月生まれの3年生のあいだに歴然とした上下関係が生じているのは、正直言って、見るに耐えない。


日本のことは好きだけどこういう面倒なシステムは嫌いだ。「それを守らなければ集団から取り残される」みたいな考え方が。大嫌いだ。みんな、自分が「出る杭」になって打たれることのないように首をすくめて亀みたいに団子状にくっついて道の端っこを歩いている。世の中が、個人を脅かしている。みっともないくらい。論争も革命も起きるわけないよこんなんで。上の言うこと聞いてりゃ、なんとか生きていけちゃうんだもんね。
意見を主張したほうが損する、そういう世の中。
若造は黙ってろ、そういう世の中。

根拠も無く偉そうなおじさんっているよね。電車の中とか。収入はあるんだろうけど。口がへの字をしている人たち。人にぼこぼこぶつかってるのに謝りもしない、席が開くと飛びつくように座る、そういう、明らかに周りのことを考えられない中高年。なんでそんなこと平気でできるんだ。あなたたちが変われば世の中もう少し良くなるんだよ。なんで気付かないの。みんな自分のことしか考えてない。そういうおじさんおばさんを見ると、私は、殴り飛ばしたい衝動に駆られる。


かく言う私は今日、仕事を休んでいる。小さなストライキだ。なんちゃって。ああこんなたくさん書くつもりは無かったのに。発展してしまいました。賞味期限が明日までの豆腐をどうやって食べるか、考えることにしよう。なにかいいアイディアありますか。レシピ募集中です。

Friday 30 January 2009

Harras the Police


The memorable 100th entry is about a naked guy in Belarus. Just terrific. If you are interested in this article and want to see more pictures of him, click here.

This naked guy in Belarus city of Grodno harassed the two police patrol
guys. They didn’t want to arrest a naked man probably they didn’t want to touch
a naked man at all, so when he came to them they even didn’t want him to sit
inside their car and asked him to stay not closer than 5 feet to them while they
called local ambulance. Their unwilling to arrest him was so strong that they
even didn’t care much about dozens of people walking around this midday along
the city street where all this happened, some even made photos and sent us.
Probably it would be a good advice for Belarus criminals - if he wants not to be
arrested he should undress, Belarus policemen don’t touch naked men.

Thursday 29 January 2009

ほうれん草、木曜

大量のほうれん草を食べた。

午後6時前に夕飯を食べた。オーストラリア産の、安いステーキ肉を3枚焼いて、ほうれん草とまいたけを炒めた。ほうれん草は、一体何グラムあったのだろう。1世帯でも、1回で食べきるものなのだろうか。そのくらいの量だった。まいたけも1パック。やはり、炭水化物が無いと、と思い、玄米を食べた。賞味期限の都合もあり、卵ごはんにした。ものすごい量である。こんなにたくさんのものが、一度に人間の胃袋に収まるものなのか、と我ながら感心した。

考えてみれば、今日はその1食である。明らかに良くない。朝はコーヒー。11時ごろ、非常食として乾パン。ああそういえばまたチョコレートケーキを買ったんだった。今回は3切れ食べた。

話は戻って、なぜほうれん草なんてものを食べたのか。いや、そもそも買ったのか。ほうれん草を買うことは滅多に無い。(もしかしたらこの辺に住み始めて以来初めてだったのではないだろうか。)

理由は:

「インフルエンザ対策」

である。周りで、大流行している。マスクをしておくべきかとも思ったが、マスクはあまり好きじゃない。だから私はとにかく、手洗い、食事、睡眠を徹底して行おうと思った。スーパーで見たその緑の山、つまりほうれん草は、見るからに栄養がありそうだったから、買った。だからと言って全部食べようとは思っていなかったのだが。思いのほか、美味しかったのだ。

別に野菜が無くても、一日を過ごすことはできる。しかし、しばらくそんな日が続くと、なんだか「欠乏」を感じるときってありませんか。ビタミン不足ってやつ、つまり。そんなときって、身体が何を欲しているのか、最初はつかめない。私の場合は、そう。

スーパーや、レストランで、「ビタミン」を目の前にして、やっと気付くんですね。「ああ、なんだかキャベツを思いっきり食べたい気がする」とか。

そういえば今日は、朝、久しぶりに立ちくらみがした。朝のブドウ糖は大事なのだなと改めて思った。

そんなこんなで、元気なのだが、明日はどうしても休みたい気がする。別に仕事が嫌というわけではない
なんだか今週金曜は勤務日じゃないような、そういう思い込みが、月曜くらいから続いている。だめねー、もう。

Monday 26 January 2009

人身事故、チョコレート・ケーキ

疲れているとき、脳は糖分を欲するらしいが、帰宅時にそれがよく分かる。最寄駅の改札を出てから、まっすぐ家の玄関に向かえばよいのに、なかなかそうはいかない。最低でも週に2回、寄り道をしたくなる。今日こそはまっすぐ帰るはずだった。まっすぐ向かっていたのだが、どうしてもTim Tamが食べたくなった。「我慢は良くないよな」と、誰かの言葉が、今の気持ちをみるみるうちに正当化してしまった。

くるっときびすを返し、店へ。Tim Tamを買うつもりだったのだが、その場でセール中だったチョコレート・ケーキを買うに至ってしまった。 Tim Tamよりも量は少ない。安い。前から、どんなのだろうなと思いながらも一度も食べたことが無かったので、新境地を開拓してみるのも有りかもしれない、と思ったのだった。

ポロショコラ、という名前の、このチョコレート・ケーキは、日本で作られたものである。輸入食品ばかり扱うその店だが、これに限っては国産だった。ブラウニーみたいな感じがする。ほとんどチョコレートに近い、が、チョコレートほど硬くない。とても美味しかった。5切れ、入っていたが、結局全部食べてしまった。



食べ物のことをこのページでお勧めするのは珍しいですよね。そういうブログじゃないんだけどさ。まあ、でも、お勧めします。とても美味しかったよ。

ところで今日は疲れていた。いつもそうだけど、今日の帰りに、人身事故が起きたせいで、電車が止まってしまったのだ。タイミングが悪すぎた。あと5分でも早ければ何か違ったかもしれない、と思った。嘆いても仕方がないので、別の路線を使って帰った。距離的には、そんなに違わないはずなのだが、ひどく疲れた。神経を使うのだ。はあ。

というわけでポロショコラ5切れは、食べすぎでもなんでもないんだよ。

Sunday 25 January 2009

雑誌の強さ

早くこの寒さが終って欲しい。身動きがとれない。困る。最近あまり写真を撮っていない。もちろん、行事的なものがあれば撮る。撮っていないというのはつまり、日常の写真を撮っていないということだ。だって寒いから動けないんだもん。というのは冗談。いや、半分くらい本当かもしれないな。今日は9時ごろに起きた。そして昼過ぎから泳いだ。図書館に行ったら、いろいろな雑誌が次々に休刊になっていた。あるいは、図書館が、購入を取りやめていた。なのに棚はたくさん存在していて、なんだか寂しい感じがした。書籍、雑誌を買う人が減っている、というのはよく言われることだ。これだけインターネットが普及した世の中で、当たり前と言えば当たり前の流れである。しかし雑誌っていうものは結構簡単にギブアップしてしまうものだなあと思う。創刊1年ちょっとで、姿を見なくなり、「あれもう終ったらしいよ」という例はよくある。

テレビ番組と同じようなものなんだろうきっと。人気番組は何十年だって続く。人気の雑誌も何年だって続く。これだけインターネットが普及したって、人気の雑誌(例えばnon noとか、女性セブンとか)が休刊するなんてことはちょっと予想しがたい。ですよね。そう思いませんか。

インターネットやフリーペーパーがあればもう、極端な話、雑誌は無くても良いくらいなのに、それでも存在し続ける雑誌には、結構すごい力があるのではないか、と思う。やっぱり紙媒体って欲しいもんなんだろうね。なんだかんだ言って、どうしても、すべてをデジタルに移行することはできないんですね人間。

Thursday 22 January 2009

右目の涙腺がゆるい


左手の中指に皸(あかぎれ)が出来ていて―まあ、毎年のことなんだけど― パソコンをタイプするたびに痛い。こういうときに、"足がナイフで刺されるように痛いのに踊り続ける"人魚姫のお話を思い浮かべてしまう私は、夢見がちすぎるかな。

ブログをしばらく書かなかった理由はそれというわけではない。別に理由も無い。なんとなく久しぶりになってしまった。ここ最近、メンタルヘルスが好調である。体調はあまりよくないはずなのに、それほど辛く感じないのは、やはり心が健康だからでしょう。言わずもがな、仕事も好調。

頻繁すぎるほど頻繁に、人と会っている。週末はもちろんのこと、平日も仕事帰りに会う。今週は月・水・金、と、1日おきに予定がある。職場でもぺらぺらとしゃべりつづけ、それが終ってからも、さらにこれでもかというくらいにしゃべっている。

ちなみに昨日はとんかつを食べに行った。どうしても、とんかつじゃなきゃ嫌だったんだ。

以前ほどではないけどやはり映画は見る。今日は『paris, je t'aime』を見た。これはこれは、作った人たちはずいぶんと楽しかっただろうなあ。そう思った。18人の監督(日本人もいた!)が、5分ずつのストーリーを作っている。それぞれにつながりは無いので、『バベル』や『ラブ・アクチュアリー』みたいな話を期待してはいけない。

オスカー・ワイルドが出てくる話と、ナタリー・ポートマンの話が結構印象的でした。ドラキュラの話に出てきた女の人は、実はオルガ・キュリレンコ、つまり、007最新作のボンドガールだった。そしてイライジャ・ウッド。へえ、気付かなかった。

ところで、右目の涙腺がゆるい。鼻をかむと、右目から、たらたらと涙が出てくる。否、むしろ吹き出る。右側だけである。でも、別に嫌じゃないんだよね。身体から無駄なものが出て行っているような感じがしてむしろ気持ちいい。

そして花粉が飛び始めた。明らかである。肌が荒れるし、鼻水がとまらない。肌が敏感になるので、顔に髪が触れるとイライラする。

寒いのが苦手だ。大嫌いである。12月の寒さは、まだ、ある程度の素敵さを帯びていると思う。しかし1月となるとこの寒さは、実に耐え難い。寒すぎると腹が立ってくる。「なんでだよおい」と叫びたくなる。外に出たいのに出られないのはつらい。動き回れない。早く3月になってくれ。

睡眠不足が解消できていないので、今日は10時前に寝ちゃおうと思っている。

Thursday 8 January 2009

あやまっていっちょきんしゃい

コミュニケーションたるもの、について考える機会が多い。仕事柄、というのもあろうし、人と話すのが元来好きなためでもある。だから老若男女を問わず色々な友達に会う。また、幸か不幸か、たちまちのうちにご機嫌斜めになるボーイフレンドがおり、その対処方法に頭を悩ませているうちにだいぶ自分は大人になったような気がしている。

口論なりケンカなり、いわゆる「ぎくしゃく」にどう対処するか。最近これがやっと分かってきた気がする。

「謝ったらね、そこで自分の非を認めたことになるんだよ。だからダメ謝っちゃ」と、かつて17歳の女の子に、びし、と言われたことがある。なるほどそうかもしれない、と思った。しかし、その当時、結果的に私は「謝る」という方向に出た。

謝ったら本当に負けなのか。

私はそうじゃない気がしている。むしろ、謝ったほうが勝ちなんじゃないか、と思う。相手の言い分が、いくら意味不明であったとしても「ああ、そういうこともあるかな」とか「よくわからんけど、自分にも非があったのかもな」と、なるべく早く思えたほうが、断然いい。「でも自分は絶対そんなこと言ってないし…」とか、意地を張ったり、「よし冷静に、論理的に考えてみよう。やっぱり私は悪くない」と思っても、そして本当に自分に非は無かったとしても、だ。とりあえず気持ちにゆとりを持たせてみると、相手の気持ちが手に取るように分かる。

そして、分かっただけではダメなのだ。まだ、ケンカに勝ったことにはならない。「ごめんね」の一言が要る。それが出たらもう、勝ったも同然である。ただし、結構これって難しいと思う。ごめん、ってしょっちゅう口にしている一言であるはずなのに、肝心なときにはなかなか出てこない。

以前は、絶対に、自分から謝れる人間ではなかった。しかし、段々これができるようになってきた。

そうなったきっかけと言っても良い一言がある。それはどのようなものか。


親戚のおじちゃんが言った。
「どげん相手をむかつくと思ってもな、次の日の朝、"おはよう!"って元気に挨拶してみー。学校行ったら、まるでなにごともなかったかのごと。したら、勝ちたい。もう相手は、なんも言えんやろ。勝った、て思ってよか」

まだ私は小学生だったと思う。どういう流れからこういう話になったのかはまったく覚えていないが、その部分だけよく覚えている。おじちゃんは、小学校の先生をしていたので、まるで生徒に諭すように話していた。そして歳月を経た今となって結構この言葉に助けられていることが多い。仕事でも、人間関係でも。次の日の朝、おはよう言えたもんが勝ち。


謝るのは負けなのか、という前述の話題とはややずれる気もするが、やはり「ここは自分のほうが、いっちょ、大人ってことで…」と、思い切ってふるまってしまうことが、"粋"なのである。プライドを捨てて、思い切って。プライドを崩すって困難なんですよね。少なくとも私の場合は。だんだんできるようになってきました。

やっぱりそういうときは尊敬する祖母や父やおじや友人を思い出すのです。あの人だったらどうするかな、と。すると雲の上から、ぼやーっと言葉が降りてくるんですね。「どがんでんよかたい」「あやまっていっちょきんしゃい」というおばあちゃんの声が、まず。

と、昨夜ひとつ、ささいな口論に"勝利"をおさめながら、思ったのでした。どがんでんよかたい。

Sunday 4 January 2009

悶々とすること


東京に戻ってきた。戻ってきた当日は、家族と離れて急に一人になって、とても寂しい気がした。三日くらいの滞在であれば、東京に戻ってきてこういう気持ちにはならない。今回は一週間も滞在したからだ。いつまでもダラダラしたいのは山々だったが、早く現実に戻る必要があった。現実、と言ってもそれは仕事に限ったことではない。

部屋に戻って、1人にならなければ。
自炊をせねば。勉強せねば。
身体を鍛えなおさねば。
1人で悶々と思索にふけらねば。

やることがたくさんある。とにかく、私は自分で生活をしなければいけなかった。
一週間、自分自身の身体を放置した状態だったので、色々とメンテナンスをするのに時間がかかった。爪、肌、眉、手、脚…

体重は変わらずとも、実家にいるときは表情が明らかに違う。日々に、緊張感が無いからである。早く日常の顔に戻さなければいけない。

昨日は、日本に一時帰国中の友人と会った。初売にでかけた。午前11時ごろリヴァプールから電話が来た。途轍もなく驚いた。

今日は、プールに行った。今日も1km以上泳いだ。初めて行ったときには、道が分からずに迷ったこのプールだが、なんと家から自転車5分だということが分かった。近い。

話は戻って、1人で悶々と思索にふけるのは、良いことだ。この時間ばかりが多すぎると、多少苦しくもある。ただ、その時間を避けちゃいけないと思うんだよね。意外と色々なことが発見できるし。

はっきり言ってここ最近、私はその時間を避けがちだ。怖がっている。1人になると寂しくて、悶々とするのが嫌で、極力誰かと一緒に居ようとする。

悶々とすること。

それは、悩むこと、とはまた別である。悩みというほど、明確な、悩むべき対象は無い。もっと、輪郭も、線路もない、もやもやとしたものである。いわゆる堂々巡りに似ているかもしれない。自分自身と向き合おうとする作業はたくさんある。その中の一つだ。ただし程度があまり重くない。つまり、頭を抱えるほどでもない。しかし時間は長い。コンスタントに、頭にひっかかる、何か。

たいていの場合その「悶々」はネガティブな方向に作用する。比較的ポジティブといわれる人でもやっぱり少しはネガティブ方向に考えを運ぶ(と思う)。「ああだめだおれって」とか「私どうせモテないから」とか。誰からも、何も、言われていないというのに、自分ひとりでどんどん、勝手に、決め付けていく。人間の思考って恐ろしいと思う。ひどい場合はそれで自分の命を絶ったりするわけだ。

その人がネガティブか、ポジティブか、というのは、結局その時間がどれくらい続くか、ではないだろうか。いわゆる「立ち直る」までの時間である。楽天家と言われている人だって一度は落ち込むのだ。ただ、立ち直るのが早いかどうかの問題だ。

そして(これが一番言いたいことなのだが)、ネガティブから抜け出す瞬間、人間のみせるパワーには凄いものがあると思う。仕事で失敗する、失恋する、試験に落ちる、友達に裏切られるetc.. これらは紛れも無く、とても辛いことだ。しかしそのあと「あのヤロー」と思った、その瞬間のパワーが凄い。何でもできそうな気がする。(私の場合は、創作意欲につながる場合が多い)。新しい何かを始めようとするにはちょうど良い勢いがつく。

いや、こんなことを書いているからと言って別に失恋したわけでも失職したわけでも無いです。悶々とするのは、案外、悪いことではない、ということ。以上。

情熱大陸の立川談春が面白いのでちょっとこの辺できります。

ありがとうとカルボナーラ

 新学期スタート。 子が帰ってくる時間に家に人がいる、というこの幸せ。保育園は4時とか5時まで預けていたのでこんなことはなかったけど小学校は本当に「帰ってくる」ので誰かいないといけない。自分が仕事していてその時間に家でFが子を迎えてくれているというこの安心感は、あらためて、ほかの...