Saturday 23 April 2011

After the Quake

眠い。

毎日7時間くらいは寝ていると思うのだが。なんだか「どーん」と疲れている。
今日は午前中だけ仕事。午後はずっと、何をするでもなくごろごろしていた。
眠いのだ。
だったら眠ればいいのだが、ほんとに寝る気にはならない。
結局今までずっと起きている。

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3月11日、教室のテレビを見上げながら、津波を見た。
見上げながら頭に浮かんだのが村上春樹の「レキシントンの幽霊」だった。
読んだことある方なら分かると思う。

その中で「七番目の男」という話がある。

私がその話を読んだのは高校1年生のとき。
村上春樹には特に興味も無かったのになぜ読んだのか。
それは、国語の教科書に載っていたからだった。

ひたすら「怖い」と思った。

好きな話ではなかった。
しかしとても印象的で、物語の光景を思い浮かべて身震いした。

今回の津波であの物語のことを思い出された方、きっといると思う。


そして地震発生から1ヶ月以上が過ぎたわけだが、この間しばしば思い起こしたのが、これまた村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」のことだった。

こんな日本語タイトルだが、これはおさめられている話のなかの一つのタイトル。
これが本自体のタイトルになっている。

英語だと、本のタイトルは"After the quake"である。「地震のあとで」という意味。
ちょうど地震の起きる1週間くらい前に「蜂蜜パイ」を読み返していたところだった。

阪神大震災のあと、村上春樹がどういうことを考えていたのか。
今になって考えてみると小説がまた違ったものに見えてくる。

彼も、「僕にできることは」と思ったのだろうか。
ちょうどこの東日本大震災で、人々がそう思ったように。


今もまた、それぞれの物語が生まれている。


あの日、本当に死ぬかと思った。
死ぬのかも、という考えが頭をよぎった。
食べ物をのどにつまらせて息ができなくなる時にも「死ぬかも」と思ったことはある。
ただし今回はもっと長かった。
そして本気で「死にたくない」と思った。

そして1時間も経たないうちにあの津波の映像。
その数時間後には「海岸に200人~300人の遺体」という文字がテレビに流れる。

非現実的なことが現実に起きている。


非現実的なことって、私が思っていたほど「非現実」ではないのかもしれない。
たとえばNew York Timesのウェブサイトを見れば遺体の写真だって出てきた。
今まで自分に遠いと思っていた「死」は、実はとても近いところにあった。

きれいに整えられた街に住んで、ありとあらゆるものを「ありえない」ものとして片付けていた。
怖いものや汚いもの、そして「死」は見えていなかった。


命に向き合う準備なんてまだまだできていなかったのだ。



「七番目の男」を初めて読んだとき、まさかこういう形でこの物語を思い出すことになろうとは知る由も無かった。
あの時、どの部分をどのように学んだかは覚えていない。
しかしながら10年以上を経た今、「10メートル以上の津波が」とテレビから聞こえてくるたびに、あの日、現代文の授業で思い描いた光景がよみがえるのである。

Thursday 14 April 2011

ドクさんのインタビュー

ベトちゃんドクちゃん、で知られたドクさんが今回の東日本大震災に対して寄付をしてくれた、というニュースをテレビで見た。
ちょうど先日ホーチミンの博物館で、彼らの人生を追った展示を見たばかりだったので「おお」と思った。

テレビを見て気になったことがひとつ。

インタビューに対して答えるドクさん。

いっぱいしゃべってるなー。ベトナム語結局なんも分からんのだよなこれがー。

そんなことを考えながら字幕を見ていた。一体何を語っているのだろう、と。
が、しかし。

いっこうに変わらない字幕。
詳細には覚えてないのだが「大した額は寄付できないが、力になればと思う」という内容のことだった。
その、たった2行ほどの字幕がいつまでたっても変わらない。

相当しゃべっているよ、彼は?!

15秒ぐらいはあったのではないか。
にもかかわらず、結局この2行で、このニュースは終った。

そんなぁ。

絶対もっといっぱいしゃべってたはずなのに。
視聴者のなかにはベトナム語を理解する人がほとんどいないというのは想像できる。だからツッコミも来ないと思ったのかもしれない。
だけど、あれは無いだろう。

しゃべった内容がたったの2行分だったなんて、ありえない。

きちんと訳してくれよ、と思った。
そしてベトナム語が分かれば、と思った。
ベトナム語分からなくても「おいおい」と思うよあれは。

Sunday 10 April 2011

pizzaが食べたい

pizzaが食べたい。
デリバリーでもなんでもいいからpizzaが食べたい。
昨夜食べようかと思っていたら気付いた時には10時になっていて、健康のためにもサラダを作って食べることにした。

日本で食べるピザの値段は異常に高い。
内容がそれだけ充実しているかといえばそうとも限らない。
不味くはないけど、デリバリーだと2000円が標準となっている。

これが1000円以下で食べられるところは無いのだろうか…

と考えていた。

ふと、2年前に行った東中野のピザやさんを思い出した。
安かったし美味しかった記憶がある。
名前が分からなかったので「東中野 ピザ」で検索。

あった。

「ピッツェリアGG」

なんと、移転したらしい。
…吉祥寺に!!

これは行きやすくなった。
しかも今日は井の頭公園の桜が満開なはず。
ちょっと足を伸ばしてみようか。
あまりいい天気ではないけど。

はて。
目的はpizzaか?桜か?

旅せよ乙女

(以下、mixiからのコピペです。4月5日に書いたやつ。)

カンボジアとベトナムの旅から帰ってきました。
ちょうど1週間。

イタリア以外の外国に行くのは、実に6年ぶり。
行く前は、
「そんな旅行に使えるお金があるのか」とか
「本当に必要な旅なのか」とか
「それなら将来のためにとっておくべきでは」とか、

絶対に学生時代なら考えなかったような懸念がありました。
ですが、行ってみて実際、問題はそこではないということが分かりました。

この航空券代を将来のためにとっておいたら、この6日間で得た経験が無いまま「将来」を迎えることになったはずです。

時間とお金があるんだったらどんどん旅をすべきだと確信しました。

この6年間も1年に1回、2回ほど海外に行ってたことは行ってたんだけど、イタリアだけでした。
新しい土地と人を知ることもなく6年間も過ごしていたのです。


出会う人々は皆、「津波大丈夫でしたか」と聞いてきました。
「日本はカンボジアをいっぱい支援してくれた国だから心配」とか。

テレビをつけても新聞をみても日本のことが触れられていました。
帰国した今日、ボランティアをする高校生の姿とか見て涙しています。


カンボジアでは、毎日同じ服を着て、物売りをする子供たちがたくさんいました。
流暢な日本語で「おねえさん、10枚3ドル やすいよ」と言って話しかけてきます。
英語も、フランス語もしゃべります。
生きるために。

靴を履いている子はいませんでした。
お母さんも、物売りです。
おそらく学校どころではないでしょう。
生まれて、歩けるようになったらすぐに物を売り始めるのでしょう。
飴をちょうだいと訴えてくるその腕は細かった。
瞳は純朴そのもので、きらきらしていました。


この子たちは、本当に365日、毎日、遺跡の前で、太陽の光を浴びながらスカーフを売るのか、と想像しました。
いったい、一日どれくらい、食べ物を食べられているのだろう。


教育を受けさせてあげたいと思いました。

身につけるべき知識も、
学ぶべきことも、
見るべき世界も、

たくさんあるのに、それに触れずこのまま大人になるのはあまりにも惜しい。


私が勤務している学校のことを考えました。
授業を聞かない生徒や、不登校になる生徒のこと。
学ぶ意欲というか目的が見つけられない生徒のこと。

鉛筆とノートをもって、学校に行けるのがどれだけ幸せなことか。

「恵まれない子どもたちに愛の手を」

というフレーズ、よく聞きますね。
でも、それを今まで、人ごととして聞いていたのだ、ということを、実際にカンボジアに行って分かりました。
本で読むのと、実際に見るのでは何倍も違いました。

でもね、悲惨な顔なんてしてないんですよ。
なんとなく、こういう話になると悲惨な状況を想像する場合が多いようだけど、そうじゃなかった。


年間3万人が自殺するという国に住む私には何かやるべきことがある、と思いました。


ゲストハウスに帰ってテレビをつけると、日々増えている震災での死者の数。

ベトナムでは、ベトナム戦争の悲惨さを博物館で目の当たりにして言葉を失う。
いとも簡単に、生きた人間を撃ったり刺したりした時代がほんの最近まで、ここにあった。

生きるって何だろうな、と、1週間ぼんやり考えていました。



やっぱり旅をすべきです。
自分の目で見て、感じて、考えることが必要です。

「中」にいてごちゃごちゃ言っていても、やっぱり、実際に動かないと。
2tトラックを運転して被災地に支援物資を届けた江頭2:50のように(!あれは本当に感動した!!)

まだまだ自分、狭いなあ。
まだまだ見るべき世界はある。


旅で出会う人々や、見るものは、悩みや恨みや嫉妬心や心配事を、ちーっちゃくしてくれます。

ありがとうとカルボナーラ

 新学期スタート。 子が帰ってくる時間に家に人がいる、というこの幸せ。保育園は4時とか5時まで預けていたのでこんなことはなかったけど小学校は本当に「帰ってくる」ので誰かいないといけない。自分が仕事していてその時間に家でFが子を迎えてくれているというこの安心感は、あらためて、ほかの...