Thursday 26 May 2016

さわやかな季節、新しい場所

最近、若い女性が犠牲になるニュースを立て続けに聞いた。いい季節なのに、気持ちが暗くなってしまう。ゆがんだ世の中だ、とつくづく思う。

それにしてもいい季節だ。昨日、近所にあるプールに初めて行ってみた。今まで、かれこれ10年くらい同じプールにずっと行っていたのだが、たまには別のプールで泳いでみようと思った。行ってみるとこれがなかなか清潔感があり、それほど人も多くなく、良いプールだった。いつも行っているプールが絶対的に良いという、もはや神話のようなものが自分のなかでできあがっていたことに気づいた。ときには「目を開いて」「道を変えて」みないといけないのだなとあらためて思った。

さわやかな季節は、さわやかなものを食べたくなる。
以前より野菜を多く食べるようになった気がする。
そして朝食のヨーグルトがとてもおいしい。
さて仕事行ってきます。

Saturday 21 May 2016

英語の本を読むこと

前回の投稿からまた一週間くらい空いた。忙しかったというよりは、ただひたすらに疲れた一週間だった。
おとといとその前は8時半と9時に就寝した。それでも朝まで寝続けた。
体力を回復させるためには食べるのも大事だがとにかく寝ること。それに尽きる。人間は寝ないとどんどん崩れていく。それにしても寝すぎだろうと思われるかもしれないが、これが体からのサインなのだから読み取ってあげないことにはどうしようもない。

まだ半分も読んでいないが、相変わらず面白い。
面白い本は読んでいるときにそれが日本語で書かれているか英語で書かれているかを忘れる。すらすら頭に入ってくる。(もちろん面白くないのはぜんぜん入ってこないので途中で読むのをやめる。)

英語の本を読むようになったのも本当にここ数年の話である。試験などの環境でないかぎり、わざわざ英語の本を手に取ることは以前までまず無かった。それが、読まざるを得ない環境に身をおいてからというもの、自分で本を選び、手に取るようになったのだ。いわゆる「読書家」でもないし、長期間まったく読まない、というときだってある。それでも英語力は格段に伸びたと思う。語彙と文法に関しては、伸びたことが自分でもはっきりとわかる。

学生時代は「文法なんて適当でいい」と思っていたので、当然ながら文法もわかっていなかった。その分、何かを読むとなると「なんとなく」読むしかなかったし、そのへんはごまかしながらやってきた。

それが、読むようになってからはその適当さ、あいまいさがだんだん消えてきて、さらに慣れるとスピードも加わってきた。英語の本を大量に読む人たちの英語力がずば抜けて高いのは、なんだ、こういうことだったのか、と思った。かなり重要な一面をこれまでないがしろにしていたのだとわかった。

Never too late to learn.

学ぶのに遅すぎることはない。「小さいころにやっておけば」とか「帰国子女はいいよな」とか簡単に言う人たちを見ると私はうんざりする。すべて、努力をしていない、いや、しようとしない自分への言い訳に過ぎないから。今何歳であっても関係ないです。すべては自分次第。

Saturday 14 May 2016

五月の清々しさ、友達から手紙

ひたすら疲れた一週間だった。
天気はだんだん良くなってきた。
5月の新緑は目に痛いくらいである。
残酷とも言える空気の爽やかさ、清々しさ。
これぞ5月だ。
昨年の今頃はいろいろと変化の大きい時期だったので、この爽やかさがむしろ身にしみて痛い。ありとあらゆる光景が、肌に触れる空気と、においとともに思い起こされる。
やはり記憶というものは、五感で呼び起こされるのだ、とこういうときにあらためて思う。日記など、文字で記されたものはもちろん正確で、間違いようの無い事実なのだがそれは「記録」であって「記憶」とはすこし違う。

それにしても1年なんてあっという間である。
合気道を始めたのも1年前だった。
いろんなことがぐるんぐるんと回転し始めた。
自分の人生はいくらでも変えられる。
ただし、自分で。
変えられるのは自分しかいない。

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静岡の友達から手紙と、すてきなプレゼントが届いた。
安倍川餅。
「あべかわもち」という名前はもちろん知っていたし、きな粉のもちというのも知っていた。だけどそれが「安倍川」のもちであったというのはこの漢字を見て初めて知ったし、その川は静岡にあって、静岡由来だったということも初めて知った。そうだったのか。

3日かけて大事に食べた。いやはや美味しかった。

やっぱり手紙とかプレゼントとか、人の手間と時間とお金がかかって自分のもとに届くのは、嬉しい。ネット上のメッセージですぐにとばせるものだけど、こうやって届くと全然違った暖かみがある。まさに「はるばる」やってきたのだなと思える。

忘れたくない感覚である。

Monday 9 May 2016

最近の食生活

土曜はとにかくドタバタしていえ、昨日は比較的、落ち着いた日曜日を過ごした。
近くを散歩しながら5月は本当にいい季節だなあと思った。
すべてがキラキラしている。紫外線は多いけど…

昨日は疲れているせいかフラフラしていた。
食べるものは食べているし、基本的に健康体なのだが。
疲れやすいのもきっと鉄分が不足しているせいだろうと思った。
ほぼ無意識に「鉄分の多い食べ物」と検索していた。
肉が食べたいなあと思ったのだが、どうせ食べるならちゃんとしたやつが食べたい。

そういえばツナとかソーセージとかを除いて、いわゆる肉や魚を買ったのはいつだろう。家で調理をして食べることはほぼ無い。そしていつ頃からかあまり肉を食べたいと思わなくなった。

駅前のパン屋にふらっと入ったらベーコンポテトのパンがあったので買った。
ベーコン… 肉… とは言えないなあ。むしろ加工食品は避けた方が良いくらいなのに。
夜はほうれん草を食べた。

でも正直なところ、ほうれん草って鉄分ありますって感じしないんだよね!何にせよ、葉っぱって弱っちい感じする。

今朝はシリアルとバナナを入れたヨーグルトを食べた。
朝はたいていこれ。ヨーグルトはいい。どんなときでもヨーグルトだけはいくらでも食べられる。

今日はそれに加えてマンゴーを切ってみた。
どうやって切るんだっけ、とふと思ったけど、中心の種の大きさに気づいて「あ、3枚おろしか」と思い出した。切れ目を入れて裏返し、「パコっ」となるのが面白い。

マンゴーに鉄分はあるのか?

いや、無さそうだなあ…。アサリでも食べるかな、きょうは。

Saturday 7 May 2016

冷蔵庫ごはん

冷蔵庫を空っぽにする必要があり、しばらく前から計画的に食料を消費している。スーパーに行き、食料を手に取ったあと「買ってもどうせ食べれんし」と思うと、びっくりするほど何も買えなくなってしまう。1日に必要な食料なんてたかが知れているのだ。それを「いや、あれも要るかも、これも要るかも」と、どんどん貯めていくのが現代人である。

というわけでこの一週間は最低限のものを食べて過ごした。まあ外食はできるわけで。

夕飯は基本的に、玄米、卵、納豆。私は納豆には酢を入れる。ここ最近はずっとリンゴ酢を使っている。卵はいわゆる卵かけ御飯にするかというとそうではない。生卵はあまり好まないので、といた卵とごはんを合わせてレンジで加熱する。

先日適当に作った昼ご飯がとても美味しかったのでここで紹介。
玉ねぎと人参とツナをいためて、玄米と、切ったアボカドとざくざくと和える。
ごまと醤油をまぶしてできあがり。
学生時代によくこういうものを作っていた。シンプルでとても美味しい。
いろいろ入れすぎないほうがいいですね。本当はこの日に卵を食べたかったのだがここに入れてしまうとごちゃごちゃしすぎると思ってやめた。卵サンドイッチが落ちる夢を見たのはそのせいだったのかもしれない。


Friday 6 May 2016

久々仕事の日の変な夢

きょうは4月28日ぶりの仕事です。
こんなに長く休んでいたとは。毎日一応やることはあったのですが。

久しぶりすぎて身体が硬い。
6時半に起きてラジオ体操をした。あの音楽が流れると自然とベッドから出て動き出してしまう。良いことだ。そしてこんなに爽やかな季節はない。

売店でパン類を2つ買おうとしてどれがいいか迷い、後ろにいた女子高生に「どれが美味しいですか」と訊いたら「私たちはあのたまごサンドイッチがおすすめ」と言うのでどれどれと買ってみたら4つ入っていたうちの1つのサンドイッチが落ちてしまってガビーン

…という夢を見ました。

あと国籍は分からないけど英語ネイティブの先生がいて、生徒に授業でディクテーションさせようとしているんだけどそれが猛烈に下手だった。一カ所だけ何度も繰り返したりあからさまにゆっくり言ったりするので、それはディクテーションじゃないから、もう少し自然な感じにするんです、と注意を受けたら、なんと廊下に出てぶつぶつ読み始める。話にならない…という夢もみました。

いい夢でも悪い夢でも無い。
けど、示唆するものがあるとすれば、卵サンドは買うなってことですかね。
チョコレートなどの入った甘いパンを食べたいなとは思っていたので、これは朝、行くときに買ってみよう。

では行く準備します。

Thursday 5 May 2016

読書、ハンカチとティッシュ

今さらなんだけど、本っておもしろいな、と。立ち読みというか座り読みのできる本屋さんが近くにあって、時間があるものだから雑誌でも読もうと行き始めたら結局やっぱり雑誌だけじゃなくて本にも手を出した。

電車通勤だった頃は、必ずカバンの中に「今読んでいる本」があった。しかしこれが自転車通勤になってからというもの、めっきりぱったり本を読まなくなってしまった。かれこれ5年になる。

おかげで色々なものが欠けてきている気がする。1番大きいのは文章を読むことに対して慣れなくなってきたこと。じっと座って文章と向き合うことが苦手になってしまった。電車通勤で減った分の時間に読めば良いわけだが、家で何をしているかといえばひたすらネットである。ネットサーフィン。ソファに寝転がってネットサーフィンしてる間に1日が終わる。

今年の連休のようにこれだけ時間が有り余ると、ちょっと手に取るようになる。だんだんハマってくる感じがなんともいえない。川上未映子の本は昨日いっきに読み終えた。最後あたりになると涙が止まらなくなって、1人でぐっしゅんぐっしゅんハンカチを手にし泣いた。

ところで、仕事に行くとき以外でハンカチを持ち歩くのは珍しい。何がきっかけがあったか?あった。先日、少し面白いことがあった。

公衆トイレから出てきた6、7歳の女の子が、入り口で待っていた父親と話し始めた。私はその前を歩いていたので会話が全部聞こえてきた。

「ねえパパ」
「んー?」
「実をいうとねえ、あれがなかったのよ、あれが」
「なに」
「かみ。トイレットペーパー」
「あら、そうなの」
「うん」
「で、どうしたの?」
「えへへ〜 ほんとうに仕方が無かったからあ」
「うん」
「下にちょこっとだけ落ちてるじゃん、床に、あれ使っちゃった。えへへ」
「えええええ きたないよおおおお」
「でもさ、じゃあさ、どうすればいいの」


さて、ここであなたなら何と答えますか?
一瞬私も考えた。
1. トイレットペーパーの芯を使う
2. 何も使わない
3.... ほかに何かあるかなあ?
数秒の間に少し考えたが思いつかなかった。

ここで父親が何と答えるか、たいへん興味があったので耳をすませた。
すると、その若い男は、こう言ったのだ:




「ハンカチとティッシュはちゃんと持ち歩いて下さい」


…!!!


この基本例題の答えが思い浮かばなかった私はたいそう衝撃を受けた。
ああ、そうだよな、うん、当たり前やんね、ハンカチとティッシュ。小学校のとき机の上に置いてチェックしたやんね。持ってきてますかーて。忘れたらおこられたね。基本やん、そんなん基本やん…。

時が経って、基本がこんなに簡単に忘れ去ってしまうとは。
自分にあきれてしまった。

そして昨日は出かける前にふと、思い立って、お気に入りの自転車柄のハンカチをかばんに入れた。(ティッシュは入れなかったけど。)
まさか涙をふくために使うことになるとは思っていなかったけど、結局大活躍したのだった。

Wednesday 4 May 2016

書いて泣く

最近、川上未映子の本を読んでみたらとても面白かった。考えてみたら村上春樹以外で日本人の作家の書いた日本語の文章をここまで集中して読むことがしばらく無かった。ま、同時に村上さんのも再読してるんですが。ここ数日は「職業としての小説家」をもう一度読み直しています。

川上未映子を読んであらためて村上さんすごいよなと思うのは、村上春樹はほんとに誰にでもなれちゃうということです。例えばカフカを書けば15歳の少年だし。何歳にでも、どの性別にでもなれてしまう。そしてそれが不自然ではない。ほかの作家を考えてみても、なかなかそんな人はいない。と言っても読んだ本の種類がとても少ないんですが。江國香織も常に女性目線。まあ、子どもの視点に立って書くときはあるかな。川上未映子だってやっぱりどこまで行っても「女」だろうと思う。一冊しか読んでなくてこんなことは言えないだろうけど。

で、その「女」として「女」である川上未映子の本を読んだらめちゃくちゃ面白かったということ。これ女じゃないと面白いと思えないかもしれない。

読んでいるうちに、私も書きたいと思った。昨日、プールの中でゆっくり歩きながら文章を少し考えていたらいくらでも出てきた。

今朝起きたら、雨風が去ってとってもいい天気だった。気分も良かったので、体操をしてヨーグルトを食べて、少し書き始めた。もういくらでも文章が出てくる。そのうちバカみたいに1人で泣き始めた。まあ幸せなやつですよね。自分について書いて自分で泣くんだから。ある意味では自己陶酔である。

だけどこの世界に、いや、宇宙に感謝したくなってきた。自分の生きている意味とか、周りの人へのありがたい気持ちとか、宇宙の神秘への感動みたいなものまでもがこみ上げてきてもはや自分がステージに立っているかのような顔をして「うう、ありがとう」と泣きじゃくった。

小さい頃からこういう傾向はある。1人で感極まって泣く。想像力が豊かなのだ。自分で言うのも何だが。

仕事が無いとこんなにも色々と、深くものごとを考えてしまうのだ。それはきっと良いことなんだろう。暇にならないとなかなか自分には向き合えない。

そしてその手段としてはやはりものを書くというのは良い。インプットも大事だが、同じくらいアウトプットも必要である。話すのも良いけど、書くとより整理される。自分の抱えているものを言語化する作業は、一見面倒だが、そうすると本当に自分自身に問いかけるものだ。

さて、お天気が良いので出かけてきます。

Tuesday 3 May 2016

田舎に帰りたい

引き続き雑誌の話。
また別の本屋で『TURNS』という雑誌を手に取った。
初めて見る雑誌だった。そのタイトルが表すとおり、「地方に戻ろう、地方で暮らそう」というもの。
表紙を見たとき、常々頭のなかにあったのに意識化されてなかったことが、外から小突かれたような感覚だった。ハッとした。

九州が気になるのは熊本の地震のこともあるかもしれない。
いずれにせよよく思っていることだ、「東京に未来は無い」と。
特に23区。

ここでの生活は持続可能とは決して言いがたい。
そして家族を持つのにはまったく適さない。
どうしてそれが分かるかというと、私は九州の田舎でのびのびと育ったから。
今の私があるのは、裸足で走り回って自然の中で毎日を過ごしたからだ。
東京に来て初めて、足腰が強いとか、運動神経が良いとか言われるようになったが、意識して自分の身体をそう育てたわけでもない。部活もやらなかったし、体操教室みたいなものに通ったわけでもない。そういう環境で18年を過ごしたからだ。
コンクリート・ジャングルの中で育った人たちには到底分からないだろうが、これによる影響はものすごく大きい。

私には緑のにおいが分かる。空の色と、湿度と。
説明のしようがないけど、それはひとつひとつの細胞に染み付いていて、たぶん死ぬまで分かる。

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東京に出てきたのが2002年。今のところ14年をこっちで過ごしている。
最初の5年間は府中市に暮らしていた。お店はたくさんある一方、緑がいっぱいの街だった。あまり人でごった返しているという印象は無かった。
仕事を始めたら、職場まで1時間半はゆうにかかるようになってしまった。
朝8時〜夕方6時まで勤務をして、さらに通勤往復3時間がかかるとなると、家で過ごす時間がほとんど無かった。
そして通勤はというと、控え目に言っても地獄だった。

何かきっかけになったことがあったのかどうか覚えてないが、引っ越すことにした。
2007年の冬だった。
それから今までずっと23区内に住んでいる。

生活ははるかに便利になり、フットワークが軽くなった。
都心に出るのに覚悟がいらない。欲しいものは何でも手に入る。おいしい店はいつでも試せる。
今も、とても便利なところに住んでいる。

しかしながらここ数年、そういう生活に飽き始めた。
正確に言うと、飽きがきているということに気づき始めた。

なんだろう、このつまらなさは、この満たされなさは、と。
歩いていて、見えてくる景色が同じである。
どれだけモノを買っても、いつまでも満たされない。
心が休まらない。

休みのたびに故郷に帰るようになったのは、たぶんそういうことだろう。もう少し一人分の広いスペースが欲しい。
自分で野菜を育てたいし、自然の変化に敏感でありたい。

具体的に移住する考えは今のところない。
だけど想いとしては常にある。「このままでいいのか」と自分に問いかけている。

Sunday 1 May 2016

周りに流されるくらいなら

ヨークシャー・ティーを飲んでいます。
ミルク無し。仕方ない。
ミルクがあるか無いかで別の飲み物かというくらいに違うんですけどね…。
そして昨日焼いたマフィンを食べている。ああ美味しい。

爽やかな5月1日。4月29日から5月5日までずっと休みなので、一体今日が何日で何曜日なのか分からなくなってくる。あまりダラダラしないように、やるべきことをリストに書き出して効率よく過ごそうとしている。

去年と一昨年は、連休に里帰りした。今年もと思っていたが訳あってそうはいかない。
人の減った東京をゆっくり楽しもうと思う。

SWITCHのマツコ・デラックスについて。
電車内の広告で見かけてとても気になっていた一冊。
プールに行った帰りに見かけて手に取ったら、結構本気で「立ち読み」をしてしまった。

言うことを文字に起こすよりは、動いているマツコを見たほうが断然面白いと思っていた。が、文字でも十分に面白かった。


ガツンと意見を言える人が極端に少ないこの国において、マツコはスケープゴートとも言える。(自分でそう言っている。)媚びないところが本当に気持ち良い。テレビに出る人々なんてほとんど媚びる人ばかりだから。


以前、厚切りジェイソンが「日本では突飛な意見でも通っちゃうよ、外国人だから!」と言っていたけど、それすごく分かる。突飛であれなんであれ、周りを気にせず言いたいことが言える人って本当に少ない。

幼稚園から大学まで、いや、社会人になってからも、周りに合わせることばかり教え込まれてくるから、自分の頭で考えられない幼稚な人間ばかりが育つ。たしかに公共のマナーを守るとか、迷惑をかけないとか、協力し合ってがんばるとか、そういったことは海外に比べて日本の優れているところで教育の成果である。ただ、周りに流されずに自分の意見を堂々と述べるということは、両立できないことではないはずだ。

海外旅行ではガイドブックに書いてある店にしか足を運ぼうとしなかったり、雑誌が30日分のコーディネートを載せたりするのも、日本人の特徴。

自分の目で見て、自分の感覚を信じて動くことが、どうしてもできない。そしてそうなっちゃっていることに気づいていない。

私は、周りに流されるくらいなら嫌われた方がマシと思って生きています。これは小さい頃からずっとそうだった。学校という環境が苦手だった。授業は、周りと同じ動きをしなければいけない体育の授業が苦手で、周りに合わせなくていい美術・工芸が好きだった。私がアートを好むのはそういうところから来ている。個性を没させたら終わり。

就職したばかりのころは「ん?」と思いながらもとりあえず周りに合わせてきたつもり。それでも、前職を去るときにトップに言われた言葉は:
「これからは、周りに合わせることも覚えなさい。そうすると生きやすくなるから。」
というものだった。なるほどそうか、と思い、ハイ、と答えて次の職場に移った。

そうするとやっぱり「ん?」と思うことがたくさんあった。
一年間は大人しく過ごしたが、そのあとは自由に振る舞うようになった。ただし、バランスを取りながら。
成果を出したから。
その言動が人に迷惑をかけているのか?
いやむしろ私の言動が勇気を与えている場合がある。
嫌われているとすれば?
嫌われて上等。


「生きやすい」のは一体どっちなのか?

万年筆、外出

なくなったと思っていた万年筆が職場の引き出しから出てきた。一本千円のものなので、なくなってもあきらめはつくのだが少し気になっていたのは事実だった。中のインクは空っぽだが一体何色を入れていたのかさえ判然としない状況だった。家に連れて帰って洗うことにした。  翌朝の万年筆カートリッジ...