Sunday 23 March 2014

2つの不調

あっという間に休みが終わってしまった。
火曜には休みを取ったのだがそれでも今週は疲れた。
木曜は職場を出たのが8時過ぎた。
こういうの本当に、やめにしたいのだが、まあ仕方ない。

今週、目に見えて表れた不調が2つある。
①右肩の(激)痛
②下唇にできもの

まず、①について。

そもそも身体全体がゆがんでいて、右半身を酷使しがちである。
首の、右側が痛くなり首が回らなくなって整骨院に駆け込んだのは1年前の冬だった。
火曜の午前中はたくさん掃除をしたのだが、それが終わってから外に出かけたときに、何かがおかしいことに気づいた。
痛いのは首ではないし、いつも凝るのは「肩もみ」をするときに手があたる部分なのだが、今回はなんと肩の前のほうだ。腕と肩とをつないでいる部分。
そしてまたしても右側。
5日経ったらだいぶマシになった。
休みのうちに整骨院に行こうと思っていたのだがこれまた時間が無かった。
自分でも分かっているのだが、右手で荷物を持つのをやめなければいけない。

そして②。
これは久々に来たなと思った。
ヘルペスだろうか。とても小さいのでパッと見るとあまり分からない程度だ。
でも痛い。
疲れが極限に来ていた木曜にできたと思う。
一つできて、かさぶたになったかと思ったらもう一つ昨日できた。
抵抗力が無くなった隙にできるのだ。

当たり前だが、家でろくなものを食べていない。
自分で料理をする時間が無いのだ。
ビタミンCも、睡眠も足りていない。

タフなほうだとは思うが、わたしの身体は比較的素直に危険信号を出す。
だから今日はなるべくリラックスできるようにして、果物を食べて、自分できちんと料理をした。

あと2日働けば今年度の仕事は終わりだ。
長いなあ… 2日休んだけど、まだ休みきれていない。

Friday 14 March 2014

女子会を断るにあたり

年度末。
この季節はいつもお別れ会やお疲れ様会が開催される。日本全国。あちらこちらで。

わたしの身のまわりも、その例外ではなく、連日のように「○○部の納め会」や「○○さんの送別会」が開かれる。

誘われるものすべてに参加をしていると身が持たないので、選んで行くことにしている。
社会人になって2,3年目だったらかまわず毎日参加したかもしれない。
だが、毎回存分に楽しめるかというとそうでもないし、次の日のことも考えなければいけないし、何よりも、1人でゆっくりする時間が欲しい。
こう思うようになった自分を「年をとったなあ」ではなく「大人になったなあ」と思う。

それで、今週は3つあるうちの1つに参加した。
今日(金曜)は休む予定だったので、昨日、飲みに行った。
数日前まであまり気が向かなかったのだが、結果的に行ってよかった。
男女3人ずつ、定年が近い人から、社会人1年目の人まで、いろいろ。
立場や専門は違えど、楽しく飲んだ。

実は、その前に断ったうちの一つの会は、「女子会」と呼ばれるものだった。
名前を聞いただけで鳥肌が立つ。
それくらいの嫌悪感がある。
どうして性別だけでくくられなければいけないのか?

わたしは、女の集団というものが苦手だ。
特に同年代。
2,3人だったら問題ないのだが、これが集団となると難しい。
どうしても、入っていけないし、入っても何を話したらいいか、どう反応したら良いか分からない。
「ぇ~」とか「かわぃ~」とか、そういった「音」に耐えられない。
実は、昔からこうだ。
小学生低学年からずっと遊ぶ相手は男の子だった。
今になっても、なんだかんだ一番よく連絡をとる相手は男の友達だ。

そんなわたしが特に親しくも無い同僚たちとの「女子会」に参加できるわけがない。
どうしても、心の底から、耐え難いほどの反発と嫌悪感があったので、参加しなかった。
これで、後々悪口を言われるのかもしれないが別にかまわない。

こういうときに、周りに合わせられたら良いのだろうけど、どうしても私はそこがうまくいかない。
嫌だと思うことを我慢できない。
そんな自分を「子どもだなあ」とは、思わない。

周りに合わせるのが大人だという考え方は、「この社会」でのことだ。
わたしには信念がある。
それをへし折ってまで笑顔を作りはしない。
まあ、女子会は一例ですが。
私はわたしだから。

Thursday 6 March 2014

新しい人たちに会うこと

今日は午前中休みをとっている。
この一週間で2回も友人の誕生日会に招かれた。
これまた偶然なのだが、どちらも参加者のなかで日本人の割合は半分かそれ以下という会だった。

仕事をしていると平日に人に会うのはほとんど不可能に近く、早いところ帰宅してゆっくりしたいという思いのほうが強い。
だから昨日はあまり行く気がしなかった。

新しい人々に会って、ニコニコと笑顔を向けるのはとても疲れる。
いつごろからか、そう思うようになっている。
学生のときは全然そんなことなかったし、新しい人に会うことこそが楽しくて、社交の場には出かけていたというのに。
仕事を始めてからなのだろうか。
自分の知らない人に会うことを億劫に感じる。

こんなのではダメだ、と思ってなるべく平日であれ出かけるように自分には言い聞かせている。

どうしてこんなに「努力」が必要なのだろう?
楽しいことをするために出かけるだけなのに?

出かけて、人に会って話すと、やっぱり出かけてよかったと思う。
それは出かける前から分かっていることなのだ。
行って後悔することなんてほとんど無いのだ。
なのに、ハードルが高くなっている。「よし、行こう」と思うまでのハードルが高い。

無理にでも外に出るのは、パートナーのおかげもある。
彼のおかげで、いろいろな人たちに会える。
1人だったら家にとじこもる可能性はより高い。
誰かから一押しされると、じゃあ行こうかな、と思える。

またそういう時が来るだろうから、昨日思ったことをこうやってメモしている。
本当に行きたくないときは、そりゃあ行かないけど。

Sunday 2 March 2014

君は僕の「もの」ではない

小雨が降っている。
3月になった。
寒い。

土曜も出勤だったので今日はようやく休みだ。
だがこの天気ではあまり出かける気もしない。
久しぶりに洗濯をしたことはしたのだが、干すに相応しい天気では無い。
この一週間は忙しかった上に天気も良くなかったので、洗濯がずっとできなかった。

でも春が近づいている感じは、する。
おととい、目がかゆいと思った。
薬は飲んでいるので花粉症の症状がそこまでひどく出ることは無いことを願っているのだが。

美容院に行きたいのだがなかなか時間が無い。
まずはゆっくり休みたいから、2日間くらい休みが欲しい。

先日、精神科医の話を聞く機会があった。
人間が不調を起こす場合、周りの環境や人間にはどのような条件がそろっているのか、検証と想像をしてみるというワークショップ形式の会だった。

家族と言ってもいろいろな家族の形がある。
私は、1人で暮らし始めるまでには自分の家族は完璧に正しいものだと思っていたし、当たり前だが、私にとって家族というものの「基準」でもあった。

だが離れてみて、自分も兄弟もこういう年になって振り返ってみると、私の家族も歪んでいるし、偏っていることに気づく。
おかしいところはたくさんあったし、決して「理想」ではない。
そもそも何が基準で何が理想なのかは分からない。

それでも私たちきょうだいがどうしてまともに育ったかというと、そのときの時代背景であったり、家をとりまく自然環境であったり、親を除いた、ほかの大人たちの存在であったりというものが大きく影響を及ぼしていると思う。

そんなものなのだ。

家族なんて脆いもので、考えてみれば結局はいわゆる「人間関係」の延長または一部に過ぎないのである。
いつ、どのタイミングで、誰が、あるいは何が関係に作用するか分からない。
どこで糸がほつれてもおかしくない。

一人ひとりは別々の人間なのである。
一人ひとりは別の脳と、性格と、容姿を持つのである。
だから、誰か1人が、別の誰かをコントロールするなんていうことはできない。

家族内に不調が起きる原因は何かと考えてみると、その一つに、誰かが誰かを自分の思い通りに動かそうとするときがあると思う。
例えば父は、母が自分の言うことを全て聞くと信じる。
母は、娘が、自分の考えを理解してくれるものと信じる。

人は自分の隣の人が、自分と同じ考えを持つことを期待する。
親子ともなれば、血がつながっているのだからなおさらそうである。

自分と隣の人は違うということを前提としなければいけないのに、受け入れられないと悔しい。
恋人同士の関係がうまく行かないのもこれが原因であることがほとんどではないだろうか。
あなたはわたしの「もの」ではないし、わたしはあなたの「もの」でもない。
恋人どうし、あるいは夫婦であるということは、どちらかがどちらかを所有するという契約を結ぶものではないはずだ。

人が人を制御することはできない。
あなたが私を支配することはできないし、私もあなたを支配できない。
私たちは一人ひとりが自立した個人であり、遺伝子は自由を叫ぶ。
くり返す。
あなたと私は違う人間であり、私たちはそれぞれ自由だ。

ありがとうとカルボナーラ

 新学期スタート。 子が帰ってくる時間に家に人がいる、というこの幸せ。保育園は4時とか5時まで預けていたのでこんなことはなかったけど小学校は本当に「帰ってくる」ので誰かいないといけない。自分が仕事していてその時間に家でFが子を迎えてくれているというこの安心感は、あらためて、ほかの...