Wednesday 31 October 2018

生活時間を少し変えた

こどものことばメモ。
語尾に「〜よ」と「〜ね」が付くようになった。
「ないよ」とか「ないね」とか。それが全て上がり調子なのでこれまたかわいい。

最後にきこえたことばをひたすらリピートする。私と一対一のときより、3人でいて子どもを挟んでイタリア人とイタリア語で会話をしているときのほうがよくそうしている。まるでからかわれているかのようだ。なのでこちらも落ち着いてしゃべれない。オウムかなにかが近くにいるような感じ。

生活時間が変わったことについて。といっても少しだけ。
こどもを寝せるのが以前ほど簡単にはいかなくなってきたのはここ数ヶ月のこと。

以前は横にして10分くらいで寝ていた。こどもが寝たら自分は起きて、自由時間を楽しんでいた。アイスクリーム食べたりツイッター見たり。

だが今は電気を消す、消さない、本をもっと読め、水くれ、など様々な要求に応える必要があり、寝かせようとしてから1時間くらいかかることがほとんどである。8時にそれは始まり、9時ごろようやく眠りにつく。それから起き出しても大したことができないと思った。というのも10時くらいには寝ないと疲れもとれないし翌日体力が続かない。そして、その1時間の寝かしつけの間に自分も寝てしまうことが最近多かった。

そこで、もはや強がる(?)ことはせずおとなしくこどもと一緒に寝てしまうことにした。9時前であっても、もう一度起きずに。アイスクリームも食べず、ツイッターも見ず。

そうしはじめたのがこの二週間くらいなのだが、体調がすこぶる良い。朝起きた時の気分が違う。5~6時ごろにスパッと目覚める。さらにひとりの自由時間はそこでとれるということがわかった。以前は6時過ぎにこどもが起きると同時に目を覚ましていたので、自分のタイミングで起きていなかったのだ。

そして朝のほうが効率よく時間を使おうと自然と心がける気がする。というのもこどもは1時間後くらいに起きてくるわけで、自由時間は限られているので。

「8時寝は人生を変える」なんてきいたことあったが、本当にそうかもしれない。9時に寝るか10時に寝るか、というたった1時間だけでこんなに差があるくらいなのだ。8時じゃなくても、とにかく早く寝るのは良い。

体調も良いので自然とその日のパフォーマンスも良くなる気がする。大した変化ではないのだ。たった1時間の自由時間を、夜から朝に動かしただけ。

今後どれくらいうまくいくかはわからないが、この調子でやっていこうと思う。

Monday 29 October 2018

「きのうはいなかった」

ついにこどものしゃべるイタリア語が動詞の活用を遂げた。
きのうかおとといの朝、私の両親とテレビ電話中にそのへんで遊んでいたこどもが

non c'era(のんちぇら)

と聞こえた気がしたので「たぶんいま、過去形になった」と言っていた。

c'e'(ちぇ)=「ある」
non c'e'(のんちぇ)=「ない」

これらは完全にマスターしていて毎日「あ〜 きゅうきゅうしゃ のんちぇ〜 ざんね〜ん」などと言っている。

non c'era というのはその過去形で「あった」という意味。
ま、聞こえた「気がした」だけで、身についているかどうかはわからんなと思いながらもすごいねえと言いながらその場は終わり。

昨日夕方のこと。さんまを買うべくスーパーに3人で出かけた。ベビーカーの上でいつものようにいろいろしゃべっている。スーパーと家の間には消防署がある。往復で1回ずつ通ることになる。買い物を終えてスーパーを出て、「きゅうきゅうしゃ ふぉるせ のんちぇ(たぶんいない)」とこどもがイタリア語で話していた。「さあどうだろうね」と答えた。ここまではいつもどおりだったのだが、そのあとのセリフに我々は仰天した。

「Ieri non c'era(いえり のん ちぇら)」=(きのうはいなかった)

思わず目を見合わせ、「きのう、って言ったね?」「過去形だね?すごくない?」とひたすら驚きあった。当の本人はけろっとして道をゆく車を一生懸命見ている。そのうち、サイレンを鳴らしながら救急車が走ってきて、「おおタイミングよかったね」と言ってながめたのだがしばらく私は驚きの余韻が残っていて、「いやまじすごいな」とつぶやきつづけていた。

こども、すごい。本当にすごい。

Saturday 27 October 2018

若い女性は「◯◯長」になれない

とにかくよく働く20代女性を見て「あー 管理職になってくれないかな」なんて冗談で言うときがあるのですが本当にいいと思うんですよね。テキパキしてて要領を得ていて。

しかしどうしてならないかというと若くて女だから。おじさんたちより完全に能力高いはずなのだがどうしても上には行けない。

そしてもう一つは本人たちにその気がない場合が多いです。これは20代に限らず、女性は、ということ。人の上に立ったり仕切ったりすることにそれほど喜びは感じないというか。「長」のつく仕事するよりも、ある程度自分の時間が確保できて日々の生活を充実させるほうが優先、みたいな人が多い気が。

あとは、環境が「なりたい」と思えるような環境じゃない、というのもある。

いっぽうで男性は「長」がつくと(表には出さないけど)やたら喜ぶ人いますね。今まで何人も見てきました。給料が上がるっていうのもあるかもしれないけど単純に「えらくなった」感が嬉しいらしい。

管理職になりたい女性が増えるといいなと思うと同時に「長」にならなくても日々幸せを感じられる男性が増えてもいいのではないか、とも思う。仕事以外のところで満たされている状態。

うーん。男性もいろいろ大変なのだろう。想像だけで言っているけど。ただ、男と女も理解しあえないし、若者と年寄りが理解し合えない、と最初から決めつけてしまうと歩み寄りなくなってしまう。

思い切って20代女性に仕切らせてみる、みたいな組織があってもいいと思いますね。いや私は頼まれてもやりたくないけど。ま、20代じゃないけど。

特に理由はないけどなんとなくそういうことを考えた朝でした。

Thursday 25 October 2018

バイリンガル記録 2歳と25日

こどもの言葉がものすごい勢いで出てくる。「増えていく」というのにも少し抵抗がある。というのも今になって身についたわけではなくずっと前からこどもの「中」には入っていたものもたくさんあるはずだから。だからそれが外に出て来ているのだと考える。もちろん増えているのも事実なのだが。

バイリンガル環境なのだが、家で話すイタリア語の割合が増えてきた。ひとりごとは日伊混合のようだ。言葉の出始めは日本語だけだったことを思い出すと、イタリア語が後から追いついて来ているかんじかもしれない。先日は、朝、一人でブロックの前に座り、それぞれを指差しながら色の名前をイタリア語でつぶやいていた。ピンク色を指差し、「ろーさ」と言いかけて、私が見ていたのに気づき、「ぴんく」と言い換えていた。arancione(オレンジ色)だけは難しかったらしく、指差してピタッと止まって私を振り返り答えを求めていたので「あらんちょーね」と言ってあげるとつたないながらも繰り返していた。

9月ごろまでは毎日youtubeを見たがっていたのだがある時からぱたっとそれがなくなった。ひたすらミニカーたちで遊んでいる。まるで車庫にいるかのように壁にきれいに等間隔に並べて横から眺め、そして「しゅっぱつ」させて、そこからまた戻る(これはイタリア語でtornaと言いながら戻す)という遊びを延々と繰り返している。きのうは「きゅうきゅうしゃ しゅっぱつ する」と言っていた。しばらくしてそれがイタリア語になり「きゅうきゅうしゃ えっしぇ(esce=出る)」と言い始めた。面白い。そしてどうやら人によって使い分けている。

しかも相手によって使い分けている。先日友達(日本人)がきたのだが、救急車を探しながら「どーゔぇ(dove=どこ)」とイタリア語でしゃべっていた子供に友達が「どうしたの」と話しかけたらすぐに「どこ」と切り替えた。コードスイッチング、すげえ、という感じである。

日本語のイントネーションがやたらイタリア語っぽいのも面白い。ゼロの状態からネイティブに習うので発音も表現の仕方も「本物」が身についていく。そのうち私のイタリア語を超えるのではないだろうか。すでに私が知らない単語を知っている、という場合があって驚かされる。ちなみに「ひし形」が「ロンボ」だとは知らなかった。

確実に言えてるイタリア語はこんな感じ:
C'e' (ある)
Non c'e'(ない)
grande(おおきい)
rosso(赤い)
bianco(白い)
nero(黒い)
giallo(黄色)
verde(緑)
uova(たまご)
pesce(魚)
cane(犬)
bici(自転車)
esce(出る)
torna(戻る)
eccolo/la(ほら、ほら来た、等)
aperto(開いてる)
chiuso(しまっている)
bagnato(濡れている)
nonno(祖父)
nonna(祖母)
libro(本)
marmellata(ジャム)
pane(パン)
treno(電車)
macchina(車)
crema(クリーム)
torta(ケーキ)
pantaloni(ズボン)
dove(どこ)
frittata(たまごやき)
mela(りんご)
acqua(水)
pista(線路)
occhio(目)
そしてもちろんciaoとciao ciao

ほかにもたくさんあるけど今思いつくのがこんな感じ。すくなくとも毎日「えっ、今なんていったの?」「この単語も知ってたの?」という驚きがあるのでメモが追いつかない。

そして恐るべきことに、もしかしたら女性名詞と男性名詞も使い分けているかもしれない。きのう、車で遊びながらeccolaと言っていたから。その物が男性名詞ならeccoloというのだがこれを使い分けているかどうかは今後観察してみよう。

まだ言葉を喋り始める前に私の父が「バイリンガル環境はきっと混乱するだろう」と言っていたのを覚えている。私もそう思ったのでなるべく混乱のないよう、と思いながら2年がたったわけだが、こどもの柔軟さはわたしたち大人の想像の域を軽く超えているのである。「おじいちゃん、マンマ、心配はいらんよ」とこどもに言われているような気がする。

Wednesday 24 October 2018

ひとつ歳をとっての感想

一つ歳をとったのだが「老いたな」という感じがますますなくなってきた。5年くらい前のほうがそういうこと、というか数字を気にしていた気がする。というのも当時は子供がいなかったから。子供が産めるかどうかというのは冗談じゃなく重要な問題で、30代を過ぎて歳をとるたびにどんどん妊娠しにくくなっていると考えると誕生日なんて喜ぶべきものでもなく、その可能性が狭まった日みたいな感じがしたものだった。肌のツヤとか体力の衰えとかそういう理由で「若い方がいい」とは思わなかった。ひたすら気にしていたのは妊娠のことのみ。

だから、子供が生まれてからは(当然だが)その考えがなくなったので、誕生日と言われてもなんとも思わなくなった。一気に楽になった。その代わり日々の大変さはその当時と比べられないほど大変である。自由はほぼない。時々、32歳頃を思い出す。ものすごい自由だったな、自分、と。何にも縛られず、行きたいところにいつでも行けた。仕事も結構自由がきいていて、大変なところもあったかもしれないけど自分の裁量でどうにでもなり、苦痛でもなんでもなかったしむしろ楽しかった。こどものことは気になっていたけど。

それでもこどもが生まれた2年前に比べると自分の自由は格段に増えた。あのとき24時間文字通り付きっ切りだったなんて今となっては信じられない。そして意思疎通ができるようになってきたのでますます楽になってきたし楽しくなってきた。そう、子どものおかげで人生が楽しい。

私の人生が2年前から「こどものいる人生」になった。それは事実。しかし私が2人になったわけではないし私に特別な何かが加わったわけではない。あくまでも私は私であり、こどもはこどもである。我々はくっついているわけではない。

日々、「おっかさん」を前面に出すのはやめたいと思っている。こどもの話をするのはいいがあくまでもクールに。化粧まったくしなくなった、とか服も買わなくなった、とか美容院にも行けないとかそういう時期もあったけど自分のことは第一に自分が気遣わないといけないし、産後の体型が戻らないことはこどものせいにはできない。(だって自分の身体!)

ところで最近誕生日を迎えた同じ歳の友人にメッセージを送るとみんな同じようなことを書いて返事がきた。それは「これからが自由なことができる時期という気がする」ということ。やっぱりみんなそう思うのだな。ひとつ、吹っ切れたというか、そういう年齢なのかもしれない。

Saturday 20 October 2018

18から互いを知る友人

久しぶりに夜外出した。大学時の友人たちに会うため。平日の夜となるとたいてい疲れ切っていて5時ごろになると既に身体は緩むモードに入る。子供の世話をして8時ぐらいに寝せると自分もあとは寝るだけ、きょうもお疲れ様、という具合で1日を終えるのが通常であるため夕方以降にさらにまた着替えてとなるとやはり疲れるし何よりも移動が面倒である。それでも会う価値のある友人たちであることはわかっていたし、こどもを預かってもらって外出できるのはまたとないチャンスである。しかも翌日の仕事はない。ということで出かけたらやっぱり行ってよかった。これでもかというくらいに笑った。大学時代にこれらの人々と特別に仲が良かったわけでもないが卒業してからも結局10年以上の付き合いがある。16年くらい?知り合っていることになる。18歳の時からお互いを知る仲間というのは、なんというか、色々許しあえるというかもう隠すものも何もないような感じがする。一緒にいて無条件に楽しい。小学校ぐらいからの友達などがいる人たちはまさにそういう感じなのかもしれない。みんなそれぞれの人生を歩んでいる。34歳とか35歳とか36歳とか。ますますおもしろくなってきた。

25歳のときの自分を羨むか?いや、今のほうが断然楽しい。若さとか体力とかそういう面では断然20代のほうがいいけど今は文句なしに楽しい。「あのころは楽しかったな戻りたいな」とは思わない。たぶん昨日会った友人も今を楽しんでいる。

さてきょうは子どもの運動会です。どうやら晴れそうで、よかったよかった。

Saturday 13 October 2018

長めの本を選ぶ、ことばの記録

金曜夜。夕飯後食器を洗っているといつものように床でこどもが遊んでいる。「きょうの夜読む本を選んだら」とすすめてみるとトコトコと本棚に行き、真剣に選びはじめた。何を選ぶかと思ったらHarry By the Seaという本。しばらく前に買っていたのだが思いのほか長かったので読んであげたことはなかった。(自分の小さい頃に「うみべのハリー」として日本語で読んだのがお気に入りだった記憶もあって買った。)本当にこんなの読むのかと思いながら食器を洗っていたら父親に読んでもらいはじめた。そして全部黙って聞いていた。しかも2回目を読んだ。そうか、こんなに長い本を読むのか。自分で選ぶということはやはり読みたい意志があるからに違いないのだがそれにしても成長を感じた。

ここ1ヶ月ぐらいだろうか、こどもがようやくビートルズ以外の歌をきくようになってきた。ずっと前にローマで買ったCafe Romaというイタリア語の古い曲がたくさん入った2枚組のCDだがその1枚目をよく聞いている。そしてよく真似して歌っている。Come PrimaとかOh mamamama...とか Mambo ItalianoとかArrivederci Romaとか。めちゃくちゃかわいい。きのうはギターをかき鳴らしながら「いぇいぇいぇい〜」と歌っていた。

こどものしゃべる日本語の動詞が活用するようになってきた。「あける」「あけて」「あいた」「あいちゃった」など。動詞の原型よりも実は「〜ちゃった」のほうが早い場合いくつかもあるような気がする。「ちゃった」はよく聞いているのだろう。そして「〜ちゃったった」と「った」が一個多い時があってかわいい。なるほどよく聞くこどもの言葉はこういう感じなのかと思う。

我が家に英語の環境はないが、いくつかこどもがよくしゃべる英語のフレーズが以下:
Oh No! (絵本の影響)
Come on come on (ビートルズの影響)
Hello, everybody (ラジオの影響。そのうち続けて「杉田敏です」と言うようになる日も近いのかもしれない)
Good bye!
Here we go! (これらすべてラジオだと思われる)

Tuesday 9 October 2018

言い訳しないこと、スペースをもつこと

合気道に行ってきた。先週の金曜日も行った。9月いっぱい行けなかったのは言い訳をしていたに過ぎないと気づいた。「行くな」と言われたことは、誰からも、一度もないのに「こどもの世話で忙しくて行けない」と言い続けていた。いいよ、行っておいでと言われたら行けばいいのだ。行った結果やはりとても気持ちよかった。そんなことは最初からわかっているのに色々と理由をつけて行かない。雨が降ったからとか寝不足だからとか。

それにしても、言い訳というものはいとも簡単に出てくるものである。人の口から。たらたらと、だらだらと。水のように。とめどなく。今自分は言い訳をしていないか?と意識するようになったのは実際のところ合気道を始めてからだと思う。とは言えもちろんそれでも十分に言い訳しているのだが。

稽古に行かないことに理由などほとんどの場合ない。師は自分に恩赦してくれるか?言い訳は通用するのか?絶対しない。どんなにきれいな言葉を並べて挨拶をしても、手紙を書いても、贈り物をしても、姿を現さない者に「それ以上」は無い。その場に顔を出すかどうか、実物として存在を見せるかどうか、これが全てである。特別なこと、扱いは何もない。

稽古に行くとこれを身につまされる。絶対やめてはいけない。がんばれ自分。やめるのは一瞬。続けるにはたいそうな忍耐力が要る。その効果は絶対ある。続けていれば絶対いいことがある。だから続けようと思うことよりもやめようと思わないことが大事かもしれない。少しくらい行けなくても自分を責めないこと。上に書いたことと矛盾しそうだが、それくらいの余裕がないと続けられない。たとえば10年ものごとを継続するには少しのすき間とを残しておいたほうが良い。パンパンに服の入った引き出しは壊れるか変形するけどすきまのある引き出しは長くもつ。物理的にも、精神的にも、スペースが大事。

Monday 8 October 2018

良品週間と物欲について

このバウムクーヘンそもそも一人で食べる用にはできていないのかもしれない。結構でかいしお腹にたまる。こどもにとっておこうかとも思ったけど結局ひとりで食べちゃっている。ヨークシャー・ティーとともに。そんな祝日の朝です。おはようございます。

ただいま無印良品週間。きょうまで10パーセント引きである。特に何かを買わなければいけないわけでもないが割引と聞くとそれではなにかを新調しようかしらと思う。無印だからと言ってすべてがいい製品とは限らないがこれまで使っているもので信頼できるものであれば二度三度買うこともある。で、今回は;

バスマット
コートスタンド
バウムクーヘン3つ(マロン、かぼちゃ、バナナ)
ステンレス製カゴ
ポリプロピレン衣装ケース

を買いました。

コートスタンドは大きな買い物なのでどうせ買うなら良品週間中にと思った。まだ手元にはない。

バスマットなんてものは古くてもどうにかなるし、もっと言うとなくてもどうにかなるのだがやっぱりいいものを使っていると気持ちがいい。足に触れるタオル生地の感覚がなんとも言えない。

ステンレスのカゴは何に使うかと言えば、シャンプー類を入れるため。「こんまり」に倣って私は浴室にシャンプー類は置かないようにしている。(自分のものに限る)それでいちいち取り出していたのだが百均で以前買ったプラスチックの入れ物にまとめて出し入れすることにした。それがおとといパキっと割れたのだ。水切りの加減からいってもステンレスのカゴはぴったりだったのでこれを買うことにした。ちなみに浴室にボトルを置かないのはとても良いです。掃除しなくていいし。ボトル自体汚れることもないし。手間かと言われれば、ぜんぜん手間には感じない。

そんなこんなで秋になり涼しくなったら物欲でてきたなあなんて思いながら夜な夜なアマゾンとか楽天とか見ている。

物欲といえば最近はやたら服とか靴とか化粧品とかほしいなと思うようになった。こどもが生まれてからしばらくの間は、それらにまったくきょうみがなかった。去年のいまごろもまったく魅かれなかったという記憶がある。買い物にいっても何も買わないし、ピンとくるものがないという状態だった。かわりに子供服ばかり見ていた。それが最近では服をほしいと思うようになったのだ。これは大きな変化だと思う。

ということを記しておこう。

ありがとうとカルボナーラ

 新学期スタート。 子が帰ってくる時間に家に人がいる、というこの幸せ。保育園は4時とか5時まで預けていたのでこんなことはなかったけど小学校は本当に「帰ってくる」ので誰かいないといけない。自分が仕事していてその時間に家でFが子を迎えてくれているというこの安心感は、あらためて、ほかの...