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Wednesday, 11 June 2025

"I don’t just sit there and worry about it."

 先日見たトム・クルーズのインタビュー。言っていることがあまりにも響いたのでメモをしておいた。

You just have to write down your dream and the write down a list of how do you accomplish that.

 What I need to learn to be able to accomplish those goals?

And that’s what I do.

I don’t just sit there and worry about it.

I just start doing it.

And don’t be so worried if you’re afraid.

It’s like ‘okay I feel it’.

‘That’s fine’.

Just keep working through it.

Really the fear you feel is the unknown.

It’s what you don’t know and just kind of recognise that.

It’s okay not to know and work towards a knowingness of things.

And the only way to do it is not to be in your head on it but just start looking go out and start doing it one step at a time.

When I’m training people or I’m training myself, I’m always thinking I’m gonna learn how to crawl before I walk, walk before I jog, jog before I run, run before I sprint and then I sprint out of a plane or off a cliff, before I do that.


自分の夢を書き出して、それをどうやって実現するかのリストを作るだけでいいんだ。

「その目標を達成するには何を学ぶ必要があるのか?」

それを考える。そして、それを実行する。

ただ座って心配しているだけじゃなくて、

とにかく始めてみるんだ。

怖くても、あまり心配しすぎないで。

「怖いな」と感じたら、「ああ、そうだね、それでいいんだ」と受け止めて、

それでも前に進み続ける。

本当に感じている恐れって、「知らないこと」に対するものなんだ。

自分が知らないことへの不安。まずはそれを自覚すること。

知らなくても大丈夫。大切なのは、少しずつ「知ること」に向かって努力すること。

そのためには、頭の中で考えすぎないで、

とにかく一歩一歩、外に出てやってみること。

誰かをトレーニングしているときも、自分自身を鍛えているときも、

いつもこう考えている。

歩く前に這うことを学ぶ。ジョギングする前に歩くことを。走る前にジョギングすることを。全力疾走する前に走ることを。そして、飛行機から飛び降りたり、崖から飛ぶ前に全力で走れるようになる。

Sunday, 4 August 2024

イタリアに出発する

 きょうからイタリアに行く。遠足前の小学生(いや、それ以上)のように、落ち着かない。家のなかをうろうろしている。きょうになってはじまったことではなく、ここ数日そうだ。きのうは特にそうで、準備はもう前日に終わっているのにまだやることがあるような感じがして、落ち着かなかった。もはや家にいると余計なことをし始めそうだったので近くの、冷房のきいた施設に朝9時から11時半まで行き、仕事をした。だいぶはかどった。昼食を食べに家に戻ったが、それでもやはりここにいるとそわそわし続けるので、午前中の場所に戻って仕事の続きをした。3時ごろどうしようもなかったので家に帰った。どこをどうみてもこれ以上準備することはない。詰めた服をあけてみてもう一度ながめたが、まあ、問題はない。そりゃそうなのだ。パスポートとクレジットカードがあれば大きな問題はないのだ。

なにせ5年ぶりの海外なのである。最後に行ったのがコロナ前の2019年。そのあいだに人生はどんどん先へ進んでいた。「コロナがあけたら」「円安が終わったら」「飛行機がロシアの上を飛べるようになったら」などと言っているうちに自分は40歳になった。コロナはあけたが円安と戦争は終わらない。そしてわたしの30代後半はもう戻ってこないのである。その間に経験できたことがほかにもあったかもしれない。いや、何の後悔もないけど、時間はこうやってどんどん過ぎていくのだ。

練習がてら韓国や台湾にでも行っていればここまでそわそわすることはなかったかもしれない。でも、それでさえも億劫だったのだ。

おととい。荷づくりをしながら村上春樹の「村上radio」を聴いていた。聴き逃し配信である。便利な世の中になったものだ。そこでささったことばをひとつ:

人生にはだいたい必ず「どつぼ」のようなきつい時期があります。
僕にもちゃんとありました。20歳の頃だったかなあ。何をしてもうまくいかず、まわりから人が離れていって、長いあいだひとりぼっちでした。「今後も同じようなことが待っているのではないかと考えると、絶望しかありませんでした」ということですが、その気持ち、僕にもよくわかります。不安で、切ないですよね。

でも今にして思うと、そういう時期って、人生にとって必要なものだったんですね。そういう時期をくぐり抜け、その経験を滋養にして人は成長します。孤独の中で心は広がりを獲得します。「イケイケどんどん」だけでは人生がやがて痩せこけてしまいます。そう思ってがんばってください。そのうちに必ずいいことがあります。

小説やエッセイのなかで同じことは何度も語られているけど、あらためて、うなずいた。イケイケどんどんだけでは人生が痩せこける。うむ。

さて、ぼちぼち出発にむけて動くとしよう。

Tuesday, 28 March 2023

「さすがに」「それに対して」

 「えーそれっていつー 何時何分地球がまわったときー」

我が子の言葉。いつ頃からかこれを言うようになった。ちなみに、惜しい。

「地球が回ったとき」ではなく、

「地球が"何回"回ったとき」が正解である。

この前、「なんかい」だよ、と教えたらびっくりして「え?ママしってるの?」と聞いてきた。自分たちだけの共通語だと思っている。いやいや、そのフレーズは古代(?)からあるよ。少なくとも30年前にはあったよ。その年齢のこどもたちはみんな言うんだよ。

そう説明しても、子は冗談だと思っている。おもしろいなあ。

こどもの言葉は面白いのでこうやってメモしておかなければいけない。

しばらく前、「さすがに」を覚えたらしく、ことあるごとに「さすがに」が出てきてこちらは笑いをこらえていた。使い方がまったく合っていないときもある。

先日は「それに対して」と言っていて驚いた。これも使い方が合っていなかったが。

大人のいう言葉を真似しているのだがその「もと」はどこなのか考えてみた。親や先生の言葉しかない、と思うかもしれないが、それ以外にもYoutubeの影響がある。

Youtubeはかなり制限して見せている。見せていいことになっているのは、レゴの作り方を見せてくれる動画。作りながら日本人が解説している。ここからインプットを得ている場合が多いように思う。先日「がんじょうにできている」と言ったときに、私が驚いて「そんな言葉知ってるの?」ときいたら、動画で言ってた、と教えてくれた。ちなみにこれは、使いかたが合っている。

そういえば2歳ごろ、ひとりでトミカを持ってYoutuberさながら「はい、きょうは○○をしょうかいしまーす」とか言っていたが、あれと同じである。

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さて、きのうもきょうもだいぶ寒い。今週は、入学準備の追い込みである。あとは防災頭巾を作らなければいけない。買うと4000円もするらしい。おそろしや。

Saturday, 30 May 2020

3歳9ヶ月のバイリンガル日記

私の仕事が再開するのもあり、練習みたいな感じで今週は水曜と金曜、こどもを保育園に預けた。ただし午前中だけ。9時から12時までなのであっという間にすぎる。いつもと違うのは、お弁当を持っていく必要があるということ。あくまでも今週は「応急保育」という扱いになっている。医療従事者やライフラインに関わる職業の人のみが預けられる、というのが先週までだったが、今週は「在宅ではあるが保育困難な人」というのが加わった。ということで、仕事に行く日に合わせて、預けることにした。

ところがこれが一筋縄ではいかない。二ヶ月間、毎日両親とべったりだった3歳児がそんな簡単に保育園モードに切り替えられるわけがない。「呼び」となるのはお弁当だけである。ぶどうとかさくらんぼとか美味しいものを入れたお弁当を用意して「行ったら食べられるよ」と言うしかない。それでも「おうちでごろごろyoutube見る」には到底かなわない。朝から泣き叫ぶ子ども。「いやだよう、行きたくないよう」とイタリア語で叫ぶ。



この二ヶ月の間、ちょうど5月の中旬ごろから我が子は「日本語<イタリア語」になった。たとえば日本語でしゃべっている途中にこういうやりとりがよくある:

子「cocomeloって日本語でなんていうの?」私「すいか」

子「lontanoって日本語でなんていうの?」私「遠い」

という、今までだったら逆(つまり「イタリア語でなんていうの」)だったはずの質問が出てくる。「ついに逆転したかー、と興味深くみていた。それはそうだろう、親といる時間がこれだけ長いのだから。保育園に毎日通っていたときは、「パパ、日本語しゃべって」と言っていたのに、ついに最近は「マンマ、イタリア語しゃべって」になってしまった。親がそれぞれ違う言語をしゃべるわけだから、子はいちいち切り替えなければいけない。だけど、できることなら周りを自分のモード、つまり自分が困難なく表現できる言語に合わせたいわけだ。バイリンガルならではの悩みと苦しみがあるんだろうなと思ってみている。「二つ話せるっていうのはとてもいいことなんだよ」「とても特別なんだよ」と話をした。

私はイタリア語母語話者ではないので普段日本語で会話している。イタリア語で話しかけられても日本語で答える…はずだったが、どうしたことか最近はイタリア語に押されることが多くなってきた。さほど不自由はないものの、気づいたら「そっちモード」に取り込まれる。

話は戻って、そんなこんなで約二ヶ月ぶりの保育園に二回通った。来週からも自粛期間ではあるものの少しずつ友達は戻って来るはずだ。そうするとあっという間に日本語優勢になってくるのだろう。

この日伊間の迷いと戸惑いに直面する我が子をみて、私はとくに哀れがったり、焦ったりすることはない。自分は経験したことがないけど、たぶんそういうものだと思う。ただ、心がけていることもある。言葉が出てこなくてつっかえたり同じことばを何度も繰り返したりするときに、急かしたり問い詰めたりしない、ということだ。あまり訂正らしき訂正もしない。いずれ分かるから。



ここ半年くらいで我が子について気づいたことの一つとして、結構慎重派なのかも、というのがある。判断してから動くタイプかもしれない。それがいいとか悪いとかいうわけではない。ほかにも気づいたことはたくさんある。お絵かきとか、工作とか、パズルとか、机でやる類の遊びにはあまり興味を示さない。文字数字もいまのところあまり反応がない。すべての車に興味を示した2歳のころは車体に書いてある文字がすべて読めたのに今は「わからない」と言う。不思議なものだ。

その代わり驚異的なほど興味を示すのが消防関連である。そして、それにまつわるいくつかの外国語。youtubeで消防士をみながらいろいろな言語をリピートする姿をみて消防と外国語の組み合わせはこの人にとって最強なのだなとつくづく思う。

Thursday, 30 April 2020

バイリンガル日記

こどもメモ。

とにかく英語に興味があるらしい。最近「マンマ、英語しゃべって」と言われることがあまりにも多く、当然ながら何をしゃべれば良いかわからない状況でそれを言われるのでとりあえず
"What do you want me to say?"  (なんて言ってほしいの?)
と答えている。

我が家はイタリア語と日本語のバイリンガル環境なので、この2つに関して我が子はとにかく上手に使い分ける。住んでいるのが日本なので日本語のほうが強い。保育園で過ごす時間が長く、友達や先生とは当然日本語で意思疎通している。

が、保育園休園以来、イタリア語の流暢さが増してきたことに気づいた。それはそうだろう、日中の日本語インプット量がだいぶ減ったのだから。

これは細かい話だが、「ジェルンディオ」と言う動詞の形がある。「〜しながら」とか「〜しつつ」とか言いたいときに使える動詞の形。(英語にもある。分詞構文と呼ばれる。)ふと気づくとこどもがこの形を使うようになっていた。"Mangiando, vediamo il video." (食べながらビデオ観よう)とか。私のイタリア語学習歴を考えてみると、この形を使えるようになったのはだいぶ後だったのではないかと思う。

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で、英語に興味がある。上に書いたとおりイタリア語と日本語の環境なので特に英語を使う機会はないのだが、聞いている音楽やYoutubeの動画に使われている言葉には英語がたくさんある。意識的に聞かせているわけではなくてももはや避けられないのだなと思う。

「〜〜て、なんて言うの」と聞かれることも多く、簡単なフレーズなら英訳できるがこれが結構長かったりするので「えーと、ちょっとまって」と戸惑うこともしばしば。適当にごまかしてはいけないと思いながらも勝手に短縮して訳することもある。

そうやって、ほぼ放っておいた状態だったが、これが結構できるようになってきた、というか文法が組み立てられはじめたので驚きだ。"Mom, bus is coming!"と言う。語彙も結構増えてきた。きのう二人で散歩していると、"Look, mommy, bicycle!"と言う。「おお、すげーな」と思いながら"Yes, it's a bicycle."と答えると次はTruck, motoecycleも出てきた。モーターサイクル言えるのか…。

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"No"の言い方、発音の仕方については本人のなかできちんと区別ができているらしい。イタリア語だと「ノ」だが英語だと「ノゥ」だ、と。確かにその通りだがそこまで意識しているとは、こどもの耳はなんと素直に聞き取れるのだろうと関心した。

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きのう、遠山顕の英会話楽習を聞いていたときのこと:
こども「このひと、日本語もしゃべるの?」
私「そうなんだよね、どっちも同じくらい上手にしゃべるんだよ。」
こども「なんでイタリア語はしゃべらないの?」
私「うーん、ふたつ言葉をしゃべる人がみんなイタリア語をしゃべるとは限らないんだよねえ。●●はしゃべれるけどね」

こう答えながら、あらためて、この子はバイリンガルなんだよなと実感した。

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今のところ、他の子に比べると確かにこの点は劣っているとか優れているとか、思うことはある。保育園に行ってそういう様子を見ると比べざるをえない。「え、この子はこんなことができるのにうちの子はまだなのか」と。でもその点についてはとりあえず放っておくことにして、我が子のもつ特別なところを大事にしてあげようと思う。これまた強制するわけではなく。本人の興味関心はもはや親がどうにかできる部分ではない。個人として、その個性はとっくの昔にスタートを切っている。その関心の進む方向へ、見守りながらもいいタイミングで関わっていけると良い。

そういえばきょうで3歳8ヶ月。この、可愛くて仕方ない3歳もだんだん終わろうとしている。

Friday, 14 December 2018

2歳と14日のきろく

こどものイタリア語が「すんげぇ」進化している。「どちらもしゃべるの?」と他人に聞かれると「まあ日本語が中心ですけどイタリア語もわかってるみたいです」と言っていたのがしばらく前。しかしこの1ヶ月くらいで確実に言えるのは「イタリア語が中心ですけど日本語もしゃべれます」ということ。変わってきた。家では9割くらいイタリア語をしゃべっていると思う。実家の父母と私が(もちろん日本語で)話しているとわかる言葉があればそれを横からいちいち全部イタリア語に訳してくる。たとえば

私「…で、誰もいなくてさ」
子「non c'era nessuno」
私「そう、ノンチェラネッスーノ、ね。そう、誰もいなかった」

ずっとこの調子。あと、ひとりごとはすべてイタリア語。すごいね、と声をかけながら私は本当に心から「すごいな」と思っている。

最近工事現場の用語が増え始めた。イタリア語で。ただし私も一度も使ったことない単語ばかりなので「え?なにそれ?」と尋ねることがとにかく多い。日本語でもなんと言うかわからないものがたくさんある。とにかく、おかげで私の語彙も増える。

つるはしのことをpicconeというのは知らなかった。あとはbetonieraがミキサー車。cingoloというのはなんと説明すべきか。車のキャタピラ部分?こんなの知るわけない。が、最近確実に私の語彙として加わった。furgoneというのはバスとワゴンの中間くらいの車。バン?と呼ぶのかな。

単語だけではなく文になってきたし、女性名詞と男性名詞もなんとなく使い分け始めている気がする。冠詞がつくようになる日も遠くないのだろう。すげえよ、ネイティブ。

せきどめのシロップを飲ませて、そのあと粉状の「ドライシロップ」を取り出したら「tipo...」という。tipo ~ というのは「〜みたい」というい意味で、英語だとlikeとほぼ同じ。

「tipo.. なに?」と聞くと
「tipo sale(塩みたい)」と答えた。おっとこりゃ驚いた。たしかに粉薬、塩みたいなのだけどそんなイタリア語が出てくるとは。同じことを日本語で言えるのだろうかと考えたが、たぶん「〜みたい」とはまだ言えない気がする。

イタリア語のネイティブと一緒にいる時間が長いので、こうなるのは自然と言えば自然なのだが思った以上の入っていきかたなので毎日本当に驚いている次第。

ここ数日は私も仕事に少し余裕ができて、保育園の送り迎えを父母一緒にやっているのだが、別れるときは「パパ」と涙を流して叫び、離れようとしない。「あのー マンマもいるんですけど」と言うと子供は「ちがう」と良い先生たちは笑う。二人で迎えに行っても私のことはほぼ素通り。そしてたまに私ひとりで迎えに行こうものなら「パパー!!」と言って泣き叫ぶ。「マンマが来たんですけど」と言っても「ちがう」らしい。どんどんパパっ子になっていく。

Tuesday, 27 November 2018

こどものことばメモ(2歳3ヶ月)

この週末、こどもと過ごして分かったことメモ。

7割くらいはイタリア語をしゃべっている。日本語中心だと思っていたのだがそうではないらしい。丸一日一緒にいて初めてわかった。

こちらが日本語で話しかけるとイタリア語で返ってきたり、日本語で発話したあとにイタリア語で言い直したりする。混同させないために私は日本語で通す、というのがこどもが生まれる前に思ったことだが、その後、いややっぱり3人でいるときはイタリア語だよなと思った。それでも母子の二者間では日本語のつもりだったのだがここまでイタリア語が出てくると正直、どっちで答えるべきかわからなくなる時がある。だからイタリア語で何か言われたらイタリア語で返してしまうことが多い。

独り言はたいていイタリア語のようだ。といっても救急車と消防車関連のことばかりやっているのでセリフとしてはだいぶ限られているが。

ただし、ときどき「ん?何て言ったのだろう」と思うこともある。そういうときあらためて、結局のところ、この子は「ネイティヴ」なんだよなと思わざるを得ない。「イタリア語学習中」ではなく、生まれたときから自然な環境でイタリア語(と日本語)を聞いてきたのだから、ネイティヴ・スピーカーなのである。聞き取れないときは「私がわかるわけないのだ」と思う。これから勉強させてもらうことのほうがきっと多くなるし私が知らない単語をすでにたくさん知っている。(「タンクローリー」とか、「ひし形」とか。)

イタリア語はアクセントというかイントネーションが日本語のそれよりもだいぶ強い(というか強烈)なのだがそれも自然にかつ見事に身についている。それが日本語に影響しないわけはないので、ときどきどこにアクセントを置くべきか困っている姿が見受けられる。(お〜ろ、なのかおふ、なのか、とか。)日本語はもっと平坦でいいんだよ、と言いたくなるがまあそのうちどちらも身につくだろう。

保育園でもイタリア語をしゃべって先生を混乱させることがあるらしいがこれも仕方ない。そのうち使い分けるようになる。日本語中心と思っていたはずがイタリア語中心と知ると途端に「日本語の習得は大丈夫だろうか」と不安がよぎるのも事実である。が、しかし、逆もまたそうなのだろう。つまり日本語を7割ぐらい話すようになると「イタリア語も身につけさせないと」と思うに違いない。とりあえず家で混乱させないようにだけはしてあげないといけないのだがネイティブの勢いに私が負けつつあるのでこのままいくとイタリア語の割合が増えていく気がする。それはまたそれでいいのだろう。

Thursday, 25 October 2018

バイリンガル記録 2歳と25日

こどもの言葉がものすごい勢いで出てくる。「増えていく」というのにも少し抵抗がある。というのも今になって身についたわけではなくずっと前からこどもの「中」には入っていたものもたくさんあるはずだから。だからそれが外に出て来ているのだと考える。もちろん増えているのも事実なのだが。

バイリンガル環境なのだが、家で話すイタリア語の割合が増えてきた。ひとりごとは日伊混合のようだ。言葉の出始めは日本語だけだったことを思い出すと、イタリア語が後から追いついて来ているかんじかもしれない。先日は、朝、一人でブロックの前に座り、それぞれを指差しながら色の名前をイタリア語でつぶやいていた。ピンク色を指差し、「ろーさ」と言いかけて、私が見ていたのに気づき、「ぴんく」と言い換えていた。arancione(オレンジ色)だけは難しかったらしく、指差してピタッと止まって私を振り返り答えを求めていたので「あらんちょーね」と言ってあげるとつたないながらも繰り返していた。

9月ごろまでは毎日youtubeを見たがっていたのだがある時からぱたっとそれがなくなった。ひたすらミニカーたちで遊んでいる。まるで車庫にいるかのように壁にきれいに等間隔に並べて横から眺め、そして「しゅっぱつ」させて、そこからまた戻る(これはイタリア語でtornaと言いながら戻す)という遊びを延々と繰り返している。きのうは「きゅうきゅうしゃ しゅっぱつ する」と言っていた。しばらくしてそれがイタリア語になり「きゅうきゅうしゃ えっしぇ(esce=出る)」と言い始めた。面白い。そしてどうやら人によって使い分けている。

しかも相手によって使い分けている。先日友達(日本人)がきたのだが、救急車を探しながら「どーゔぇ(dove=どこ)」とイタリア語でしゃべっていた子供に友達が「どうしたの」と話しかけたらすぐに「どこ」と切り替えた。コードスイッチング、すげえ、という感じである。

日本語のイントネーションがやたらイタリア語っぽいのも面白い。ゼロの状態からネイティブに習うので発音も表現の仕方も「本物」が身についていく。そのうち私のイタリア語を超えるのではないだろうか。すでに私が知らない単語を知っている、という場合があって驚かされる。ちなみに「ひし形」が「ロンボ」だとは知らなかった。

確実に言えてるイタリア語はこんな感じ:
C'e' (ある)
Non c'e'(ない)
grande(おおきい)
rosso(赤い)
bianco(白い)
nero(黒い)
giallo(黄色)
verde(緑)
uova(たまご)
pesce(魚)
cane(犬)
bici(自転車)
esce(出る)
torna(戻る)
eccolo/la(ほら、ほら来た、等)
aperto(開いてる)
chiuso(しまっている)
bagnato(濡れている)
nonno(祖父)
nonna(祖母)
libro(本)
marmellata(ジャム)
pane(パン)
treno(電車)
macchina(車)
crema(クリーム)
torta(ケーキ)
pantaloni(ズボン)
dove(どこ)
frittata(たまごやき)
mela(りんご)
acqua(水)
pista(線路)
occhio(目)
そしてもちろんciaoとciao ciao

ほかにもたくさんあるけど今思いつくのがこんな感じ。すくなくとも毎日「えっ、今なんていったの?」「この単語も知ってたの?」という驚きがあるのでメモが追いつかない。

そして恐るべきことに、もしかしたら女性名詞と男性名詞も使い分けているかもしれない。きのう、車で遊びながらeccolaと言っていたから。その物が男性名詞ならeccoloというのだがこれを使い分けているかどうかは今後観察してみよう。

まだ言葉を喋り始める前に私の父が「バイリンガル環境はきっと混乱するだろう」と言っていたのを覚えている。私もそう思ったのでなるべく混乱のないよう、と思いながら2年がたったわけだが、こどもの柔軟さはわたしたち大人の想像の域を軽く超えているのである。「おじいちゃん、マンマ、心配はいらんよ」とこどもに言われているような気がする。

Saturday, 13 October 2018

長めの本を選ぶ、ことばの記録

金曜夜。夕飯後食器を洗っているといつものように床でこどもが遊んでいる。「きょうの夜読む本を選んだら」とすすめてみるとトコトコと本棚に行き、真剣に選びはじめた。何を選ぶかと思ったらHarry By the Seaという本。しばらく前に買っていたのだが思いのほか長かったので読んであげたことはなかった。(自分の小さい頃に「うみべのハリー」として日本語で読んだのがお気に入りだった記憶もあって買った。)本当にこんなの読むのかと思いながら食器を洗っていたら父親に読んでもらいはじめた。そして全部黙って聞いていた。しかも2回目を読んだ。そうか、こんなに長い本を読むのか。自分で選ぶということはやはり読みたい意志があるからに違いないのだがそれにしても成長を感じた。

ここ1ヶ月ぐらいだろうか、こどもがようやくビートルズ以外の歌をきくようになってきた。ずっと前にローマで買ったCafe Romaというイタリア語の古い曲がたくさん入った2枚組のCDだがその1枚目をよく聞いている。そしてよく真似して歌っている。Come PrimaとかOh mamamama...とか Mambo ItalianoとかArrivederci Romaとか。めちゃくちゃかわいい。きのうはギターをかき鳴らしながら「いぇいぇいぇい〜」と歌っていた。

こどものしゃべる日本語の動詞が活用するようになってきた。「あける」「あけて」「あいた」「あいちゃった」など。動詞の原型よりも実は「〜ちゃった」のほうが早い場合いくつかもあるような気がする。「ちゃった」はよく聞いているのだろう。そして「〜ちゃったった」と「った」が一個多い時があってかわいい。なるほどよく聞くこどもの言葉はこういう感じなのかと思う。

我が家に英語の環境はないが、いくつかこどもがよくしゃべる英語のフレーズが以下:
Oh No! (絵本の影響)
Come on come on (ビートルズの影響)
Hello, everybody (ラジオの影響。そのうち続けて「杉田敏です」と言うようになる日も近いのかもしれない)
Good bye!
Here we go! (これらすべてラジオだと思われる)

Sunday, 3 June 2018

週末旅と1.9歳のことばの記録

「泳ぎに行きたいのに行けない」という内容でブログを書きかけたのが一週間前のこと。それから結局書けずにいた。いろんなことがあり、泳ぎに行くことも合気道に行くこともできた。あっという間に一週間が終わった。そして5月も終わった。

合気道で汗をかいている間はすべてのことを忘れていられる。それだけに集中できる。まさに「無心」という感じ。いっぽう、泳いでいる間はいろいろと考え事をする。どちらも、終わったあとは「はぁ〜」とスッキリする。詰まっていたものがスポンと取れたような感覚を味わうことができる。これらは私にとって生涯スポーツになるだろうなと思っている。

***************

この週末、子どもを連れて親戚のうちに遊びに行った。片道一時間半ほどかかるのでそんな簡単な旅ではない。乗り換えも多い。子どもの食事や睡眠や疲労の調子を見ながら絶妙なタイミングで到着しないといけない。たった1泊だが、一人での移動の何倍も神経を使う。

それでも、たいそう意味のある旅なのである。まずなかなか会えないおじちゃんとおばちゃんに顔を見せ、成長を見せる。面と向かって会うのは手紙や電話の何倍も意味がある。
そして子どもにとっての通常にない刺激はいい効果をもたらす。わずか一晩を別の空間で過ごすと、
「あれ?こんなことできたんだっけ」
「そうか、こんなことが好きなのか」
「へえ、こういう反応をしめすのか」
と親であるこちらも気づかされることがある。そして別の視点から見て思うことを、普段会わない人から聞くと、なるほどと思うことが多々ある。
さらに、急に発話が増える気がする。実家に帰るとき然り。

というわけで最近(1歳9ヶ月)の言葉メモ:

ぱぱ(父)
まんま(母)
じちゃん(祖父)
ばちゃん(祖母)
ぶぶ(車)
ぱった(パスタ/パトカー)
ぱん/ばん/まね(パン)
ばっちゃ(消防車/かぼちゃ/バス)
たっち(タクシー)
びち(自転車)
ばい(バイク)
まな(バナナ)
まと(トマト)
にんな(リンゴ)
みじゅ(水)
ぬぬ/にゅにゅ(牛乳)
ぶるべり(ブルーベリー)
わんわん(犬/馬)
おむちゅ(おむつ)
じゅちゅ(ジュース)
えも(エルモ)
のーーー(No)
はい/あい(はい)
ばいばい(バイバイ)
ちゃお(Ciao)
ぴっち(ハトをはじめとした鳥類)
ねんね(ねる)
をふぉ(アンディ・ウォーホル)
びた/びと(ビートルズ)
ない(ない)
あった(あった)
あっち(あっち)

以上、今思いつく限りの言葉。

ウォーホルのハガキを見て「をふぉ」というのだが先日ためしに「アンディ・ウォーホルだよ」と教えたら「あんで をふぉ」と言ったのでびっくりした。

そのほか、言葉としては出ていなくてもこちらの言っていること(特に日常の指示等)は通じている。「はみがきするよ」と言えば逃げ出すし、「外に出るよ」と言えば玄関まで走って行き私の靴を取ってきて「まんま」と言いながら差し出す。意思疎通ができるようになってきている。

さて、長いようで短い週末が終わろうとしている。先日ハンズで買ってきた「万能透明テープ ピッチン」を使って「かいじゅうたちのいるところ」の修繕をします。(ところでハンズの店員さんはやっぱりプロです。「本の修理」と言ったらとても丁寧な口調で「はい、こういうものがございます」とすぐに案内してくれた。「少々お待ちください」でほかの店員に聞きに行く店とは違う。当たり前だろうけど対応がきちんとしていたことがとても嬉しかった。)

Thursday, 13 August 2015

語学の教室というものは

書きたいことはたくさんあるのにまったく追いつかない。見たり聴いたりすること、つまりインプットがあるとアウトプットも自然とあるんですね。これだけ毎日色々なものを吸収していると、時間さえあれば文章なんていくらでも書ける。提供できる話題も山ほどある。
[通常の朝食]

ここに来て約10日が経った。一番の目的はイタリア語の上達なのだが、学校ではかなり細かい文法まで教えてもらっているのでとても助かっている。これまでいかに曖昧にしたまま話してきたか、痛いほど分かる。

前置詞、冠詞、定冠詞だけでもかなり重い。これについては、イタリア語の場合は英語ほど規則正しくない。先生曰く、「どう考えても理屈に合わない、ばかみたいなルールがあるし、イタリア人だって何故だか分からないのもある」。常にしょっちゅう首をかしげてばかりだ。

で、先生が言ってたことのなかで納得したのが「passivoになってみる」ということ。つまりある程度は受身でいることが大事。何でもかんでも「なんでなんで?」と疑問を持つよりも「ふ〜ん、そういうもんなのね」ぐらいの姿勢でいたほうが言語は身に付きやすい、と。なるほどそうかもしれない。その証拠に赤ちゃんなんて何も疑問を抱かず、あらゆるものをすいすい身につけていく。

ただ、私ぐらいの年齢の場合は、時制と、名詞と動詞の一致に関してはきちんとした説明があって頭を使って理解をすることが必要だと思う。英語ならまだしも、イタリア語はもっと細かい。過去から見た未来の言い方とか、半過去の正しい使い方とか、結構細かいところまで教えてもらって、毎日本当に有り難いと思っている。

[授業について]

私がとっているコースは:
9:00~10:50 授業①
11:10~13:00 授業②
×5日間×2週間。

生徒は12人以下ということになっているが、たいてい5〜10人におさまる。
コースの終わりと始まりが人に寄って異なる上に途中で数日間休暇に出たりする人もいる(お金もったいなくないのかなあ?)。

国籍は様々で、同じクラスにいたことのある人たちを思い浮かべてみると:
ベルギー、アメリカ、スペイン、ポーランド、ロシア、中国、シリア、クロアチア。
各国から1人ずつなので、本当に国際色豊かだ。
今日はそのうち5人だった。
[瓶ビールが€1で手に入る。イタリアだからと言ってワインばかり飲む訳ではない。]

授業①では文法。これはもう徹底的に。先生がとことん説明をして、練習問題を解く、というたったそれだけ。こんなにシンプルなのに、時間はあっという間にすぎていく。ひとつには、少人数だからというのがあるだろう。生徒がとにかくよく質問をする。

授業②では、読解と会話。先生が実に色々な話題の文章を持って来る。たいていの場合、エッセイ。読む前に先生がその話題についての質問を投げかけるので、自分の国ではこうです、とか、自分の経験ではこうです、とかしゃべりたいだけしゃべる。全員。そのあと、文章を順番に声に出して読み、分からない単語、箇所があれば聞く。1人が読むたびにまた先生がその話題についての質問をする。それに1人ずつまた答えていく。

これであっという間に110分x2が過ぎて行く。先生の話題の豊富さもすごいし、なにより、気持ちが楽なのだ。「これやったら怒られるかも」みたいなのはまったくない。私たちが大人だからなのかと言えばそういうわけでもなく、生徒の中には10代の子もいる。厳しさって何でしょうね。

当然だけど、先生も椅子に座ってます。途中でコーヒー買いに行ったりもする。買い物に行って遅れて来たりもする。「スマホのマナー」について読んでいる間に先生のスマホが鳴ったりもする。

先生のことを下の名前で呼ぶのが普通で、生徒と教師の関係に水平さを感じる。文法を少し間違うと先生が「ちがーう!」みたいな感じで言う。これを生徒も特に気にしないあたり、日本との違いを感じずにはいられない。つまり「ちがーう」と言われても特にショックを受けている様子はない。

そして練習問題を解くときも、日本だったら「はい次」とか名前を呼ばれてからじゃないと答えを言わないのが普通なのだが、この場だと生徒が次々に自発的にしゃべる。日本人の繊細さと丁重さと慎重さと、(言葉に表すのが難しいんだけど)あの独特の空気は、この人たちには分からないだろう。逆に、日本人が普段、無意識のうちに気にしているようなことはあくまで日本特有であり、世の中(地球上)の人たちにとっては実に些細で瑣末なのだ。

…ということも、いったん外に出てみないと一生気づくこともないわけですが。

[ダンテ先生。動き出しそう。]

この学校の授業には少なくとも3回は参加している。短くて1週間、長くて1ヶ月。何が良いかというと、このシンプルさだと思っている。ローマでほかの学校にも行ったことがあるが、やたらとアクティビティやゲームが多かった。それはそれで楽しかったし、多くのことが身に付いたと思う。

だが、個人的には、アクティビティ系のもの無しで落ち着いて座って説明を聴くのはとても居心地が良い。少人数で、質問したいだけして、ホワイトボードにきちんと整理して書かれた説明を、ノートに写す。ただし説明は本当にきちんとしてなければいけない。ネイティブ・スピーカーで、しかもプロだからこそできる説明は、本当に分かりやすいし、隅から隅まで疑問が解決される。

外国語学習に関してはよく○○メソッドとか○○法とか騒がれているけど、うーん、あんまり凝ったことしなくてもいいのかもしれない。インプットと、アウトプットのバランスさえ取れていれば、あとは本人の努力次第ですかね。

…なんて偉そうに言ってみたりして。

あと、先生が楽そうだと、こっちも楽です。ある程度の距離を保った状態でさえあれば。恐怖とか緊張感無く学べるかどうかは先生にかかっている。合気道やってても同じことを思う。先生はめちゃくちゃ穏やかで優しいんだけど、みんな、大事なことはきちんと学ぶ。厳しさって何でしょうね。

Tuesday, 18 November 2014

NHKのラジオ講座について

聞くつもりは無くても基礎英語を聞いてしまう。
毎日。

というのも、ラジオ英会話を毎日聞いているから。
ラジオ英会話は朝6:45に始まるのだがそれに合わせて起きて身支度をしているとちょうど基礎英語2、それから3を聞くことになる。

そして夜、家に帰ってからラジオをつけると基礎英語の再放送にあたる場合が多い。

いろいろとツッコミどころは多いのだが、昔とは変わったなあと思う。
気づきをいくつか箇条書きにする。

・Can Do だらけだ。1も2も3も。毎日「今週のCan Do は…」と言っている。基礎1に至っては「できるよ♪できるよ♪きゃーんどぅー!!」みたいな歌まである。教えている側が意識しているのは分かるが、リスナーとしてはそんなに連発されてもどうしようもないのではと思うのではないだろうか。

・主人公も場面も、「アメリカ人inアメリカ」ではない。基礎英語3にはイギリス人とアメリカ人が出てくる。しかも冒頭に"Let's enjoy American English!" "And, British English, too!"と言う。毎日。

・さらにイタリア人が出てきたりもするのでもはや何がなんだか分からない。私はそもそもこんなに英語のうまい生粋のイタリア人には会ったことがない。ダイアログに"Ciao!"が出てくる。なんということだ。そしてその場面はときどきローマだったりするから、もうほんとに意味が分からない。

・きょうの、基礎英語3の最初の一言は"Hello friends, I like Tuesday better than Monday."だった。ダイアログの内容ではない。講師の挨拶だ。「こんにちはみなさん。私は月曜より火曜が好きよ」と。
なんという唐突さ。

・でも、中3の時点で使える単語は限られているので仕方ないのかもしれない。

・でもでも、出てくる単語は結構難しいものが多い。先日は X is antonym for Y とか X is synonym for Y とか言っていた。これは高校3年間に文科省の言うとおり勉強していたところで出てこない単語ではないだろうか、と思った。

・基礎英語2のテンションが高すぎる。困るくらいに高い。冒頭で "LET'S ROCK TOGETHER!!!" と言っていた。こりゃ参った。「ロックしようぜ」とは。最初も最後も、挨拶がとにかくうるさい。テンション高いだけなら分かるけど。学習者にとってはこれが良いのだろうか?基礎英語2に関しては、流れた瞬間に思わずラジオを消してしまう。

・だから私はラジオ英会話のシンプルさが好きだ。形式が同じなので安心感がある。

・とかなんとか、いろいろあるんだけど、ラジオ英会話に限らず、これらのラジオ講座を聴いていて毎日思うのだが、毎日何かしら知らない表現がある。必ず。ほんとうに勉強になるなあと思う。中1の時からお世話になっているけど、たぶんこれは死ぬまで続くだろうなと思う。

Monday, 20 October 2014

TOEICの結果届く

仕事中にgmailからメール着信の合図があった。
「TOEIC 9月28日受験結果」

きたーーーー


そろそろだよなー、と心待ちにしていたのだが、ついに、来た。
ネットで申し込んだのでネットで結果を閲覧できるようになっている。
おそるおそる(というほど恐れてはいないが)ログインして確認した。

手ごたえがあったのでむしろ意気揚々としていたかもしれない。


結果を見た。


よっしゃー前回より上がった!
これでいつでも転職できる。
ってまあ転職するつもりは今のところ無いが、スコアを持っておくに越したことは無い。
ちなみにリスニング満点だった。

これってまた近いうちに受験したらまた上がるんだろうか。
前回より30点上がっただけなのだが、これがまた結構気分がいい。
受けている間は全然楽しくないけど、結果を待つ間の1ヶ月間は結構楽しかった。
そして結果を見ると嬉しい。

初めて900点を越えたときは、「900越えたらおなじこと」とさえ思っていたのだが、920と950ではやはりだいぶ差があるように感じられる。
今になるとはっきり分かる。
だから950と990の間には、たかが40点と言えどとてつもなく厚い壁があるというのが、ここまできてやっと、感覚として分かる。

うーむ。
990目指せるかもなあ、という気がしてきた。


日本人ははっきり言ってTOEIC病とも言っていいくらいみんな本当にTOEICを受ける。
中学校とか高校にまで導入されて「○○点取れば就職に有利」みたいな話を大学に入る前からしている様子を見るとやはり何かが間違っているとしか思えない。
はっきり言ってみんな受けすぎだろと私は思う。

だけどこうやって時々、点検みたいな感じで受けるのはアリかもなあと思う。
自己満足に過ぎないけど。

Monday, 3 January 2011

franponais- ことばへのリスペクト

フランス人学生が書いたブログを読みながら少し怒りのようなものがこみあげる。
といっても、怒りの対象は書いた学生ではない。



ブログの内容は、日本にあふれる意味不明なフランス語について。

日本では、英語の場合と同じように、フランス語を使えばカッコいいと思われる場合が多くある。
けれどフランスの文化や言語に疎い人たちがほとんどなので、意味不明なフランス語(=franponais)ができあがってしまう。

「皮膚の博物館」という名の化粧品屋や、下の写真のようなメニューなど。
フランス語に限ったことではない。
イタリア語、ドイツ語、スペイン語…
英語だともはや慣れて(親しんで)いて、響きはカッコ良いんだけど意味が分かっちゃう。
だから代わりに、多くの人が知らないであろう、日本語でも英語でもない(ヨーロッパの)言語を使う。

ポイントは、多くの人が知らないということ。
その結果生み出される効果が

「何となくカッコいい」である。
「意味は分からないけどなんとなく」だ。

アジア系の言語はあまり見ない。アフリカ、インド、アラブあたりも、あまり見ない。
いや、あるのかもしれない。自分が詳しくないので気付いていないだけかもしれない。
私にとって目に付く(そして気になる)のは圧倒的にドイツ語、イタリア語、フランス語だと思う。

家の名前が良い例だ。

「ドルミール中野」とか
「ハイム武蔵」とか
「カーサ青葉台」とか
「クレール光が丘」とか。
「メゾン富丘町」とか。

ぜんぶ「ああ、あるある」と思う日本人がほとんどだろう。
そして意味は知らないという日本人がほとんどだろう。



上の写真にあるメニューを書いた人(とそのレストランのオーナー)に聞きたいのは、辞書を引いたのかどうか、ということだ。
本気で興味がある。
相手を目の前にして「辞書引きましたか」と聞いてみたい。

ひいたという人がいたら
「英語の辞書には載ってなかった」って答えるのかなあ。または
「なに語か分からない」って答えるのかなあ。

まあ、家の名前については「誤用」にはあたらないかもしれない。
とりあえず、ハイムもカーサもメゾンも、全部「家」という意味である。
意味を考えると変だと思いませんか、と、命名した(であろう)建物の所有者に言いたい。


言葉に対して極端に敏感になる必要は無い。
けれど、その言語に対して少しなりともrespectをすべきではなかろうか。
言語をリスペクトするということはその文化と歴史と人々をリスペクトするということだから。

単に「だって、なんとなくカッコいいじゃん」という理由で意味もよく分かっていない外国語を乱用するのは、「微笑ましい」を通り越して、「恥ずかしい」。

ただし、海外で「おっ」と思わせるような日本語の使われ方に遭遇したこともある。
ロンドンにある有名な日本料理店は「wagamama」である。
ありえんやろー、と言う人もいるが、私は、これはこれで受け入れられる。
なかなかおもしろいと思うし、キャッチーだ。

そこで食事をしている人には店名である「わがまま」が日本語で何を意味するかは知って帰って欲しいと思うのだが。日本語母語話者としては。

でも、まあ、そういう言語が時としてまるごとその国の言葉として取り入れられちゃったりすることもある。
しかも、意味がねじれた状態で、その土地に浸透し、人々に使われちゃったりもする。
そして使用人口が多いと、もはや、もともとどこの言語だったかも分からなくなってしまう。

だからやっぱり言語は面白いと思います。
言語コンシャスな人がもっと増えると良いなあ。
そしたら世界はもうちょっと平和で幸せになると思うよ。

自分と異なる者、もの、ことを理解することは簡単じゃないけど面白い。
私は、その、少しなりとも理解しようと努める姿勢を崩さずにいたいと思うのであーる。


さて、おなかすいたし何か作ろう。
明日も晴れますように~。

8連勤とアルファルファ

もういい加減にこの暑さに疲れてきたなあ。雨が降る前よりだいぶマシになったと思うけど、それでもこの季節はもっとこう、スーッと風が吹いてほしい。もう体力がもたない。今週は土日勤務で、9月第1週は長い。8連勤。毎年のことだ。きょうは7日目。 なるべく元気に過ごしたいけどまだ身体は夏休み...