Sunday 2 March 2014

君は僕の「もの」ではない

小雨が降っている。
3月になった。
寒い。

土曜も出勤だったので今日はようやく休みだ。
だがこの天気ではあまり出かける気もしない。
久しぶりに洗濯をしたことはしたのだが、干すに相応しい天気では無い。
この一週間は忙しかった上に天気も良くなかったので、洗濯がずっとできなかった。

でも春が近づいている感じは、する。
おととい、目がかゆいと思った。
薬は飲んでいるので花粉症の症状がそこまでひどく出ることは無いことを願っているのだが。

美容院に行きたいのだがなかなか時間が無い。
まずはゆっくり休みたいから、2日間くらい休みが欲しい。

先日、精神科医の話を聞く機会があった。
人間が不調を起こす場合、周りの環境や人間にはどのような条件がそろっているのか、検証と想像をしてみるというワークショップ形式の会だった。

家族と言ってもいろいろな家族の形がある。
私は、1人で暮らし始めるまでには自分の家族は完璧に正しいものだと思っていたし、当たり前だが、私にとって家族というものの「基準」でもあった。

だが離れてみて、自分も兄弟もこういう年になって振り返ってみると、私の家族も歪んでいるし、偏っていることに気づく。
おかしいところはたくさんあったし、決して「理想」ではない。
そもそも何が基準で何が理想なのかは分からない。

それでも私たちきょうだいがどうしてまともに育ったかというと、そのときの時代背景であったり、家をとりまく自然環境であったり、親を除いた、ほかの大人たちの存在であったりというものが大きく影響を及ぼしていると思う。

そんなものなのだ。

家族なんて脆いもので、考えてみれば結局はいわゆる「人間関係」の延長または一部に過ぎないのである。
いつ、どのタイミングで、誰が、あるいは何が関係に作用するか分からない。
どこで糸がほつれてもおかしくない。

一人ひとりは別々の人間なのである。
一人ひとりは別の脳と、性格と、容姿を持つのである。
だから、誰か1人が、別の誰かをコントロールするなんていうことはできない。

家族内に不調が起きる原因は何かと考えてみると、その一つに、誰かが誰かを自分の思い通りに動かそうとするときがあると思う。
例えば父は、母が自分の言うことを全て聞くと信じる。
母は、娘が、自分の考えを理解してくれるものと信じる。

人は自分の隣の人が、自分と同じ考えを持つことを期待する。
親子ともなれば、血がつながっているのだからなおさらそうである。

自分と隣の人は違うということを前提としなければいけないのに、受け入れられないと悔しい。
恋人同士の関係がうまく行かないのもこれが原因であることがほとんどではないだろうか。
あなたはわたしの「もの」ではないし、わたしはあなたの「もの」でもない。
恋人どうし、あるいは夫婦であるということは、どちらかがどちらかを所有するという契約を結ぶものではないはずだ。

人が人を制御することはできない。
あなたが私を支配することはできないし、私もあなたを支配できない。
私たちは一人ひとりが自立した個人であり、遺伝子は自由を叫ぶ。
くり返す。
あなたと私は違う人間であり、私たちはそれぞれ自由だ。

ありがとうとカルボナーラ

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