毎日7時間くらいは寝ていると思うのだが。なんだか「どーん」と疲れている。
今日は午前中だけ仕事。午後はずっと、何をするでもなくごろごろしていた。
眠いのだ。
だったら眠ればいいのだが、ほんとに寝る気にはならない。
結局今までずっと起きている。
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3月11日、教室のテレビを見上げながら、津波を見た。
見上げながら頭に浮かんだのが村上春樹の「レキシントンの幽霊」だった。
読んだことある方なら分かると思う。
その中で「七番目の男」という話がある。
私がその話を読んだのは高校1年生のとき。
村上春樹には特に興味も無かったのになぜ読んだのか。
それは、国語の教科書に載っていたからだった。
ひたすら「怖い」と思った。
好きな話ではなかった。
しかしとても印象的で、物語の光景を思い浮かべて身震いした。
今回の津波であの物語のことを思い出された方、きっといると思う。
そして地震発生から1ヶ月以上が過ぎたわけだが、この間しばしば思い起こしたのが、これまた村上春樹の「神の子どもたちはみな踊る」のことだった。
こんな日本語タイトルだが、これはおさめられている話のなかの一つのタイトル。
これが本自体のタイトルになっている。
英語だと、本のタイトルは"After the quake"である。「地震のあとで」という意味。
ちょうど地震の起きる1週間くらい前に「蜂蜜パイ」を読み返していたところだった。
阪神大震災のあと、村上春樹がどういうことを考えていたのか。
今になって考えてみると小説がまた違ったものに見えてくる。
彼も、「僕にできることは」と思ったのだろうか。
ちょうどこの東日本大震災で、人々がそう思ったように。
今もまた、それぞれの物語が生まれている。
あの日、本当に死ぬかと思った。
死ぬのかも、という考えが頭をよぎった。
食べ物をのどにつまらせて息ができなくなる時にも「死ぬかも」と思ったことはある。
ただし今回はもっと長かった。
そして本気で「死にたくない」と思った。
そして1時間も経たないうちにあの津波の映像。
その数時間後には「海岸に200人~300人の遺体」という文字がテレビに流れる。
非現実的なことが現実に起きている。
非現実的なことって、私が思っていたほど「非現実」ではないのかもしれない。
たとえばNew York Timesのウェブサイトを見れば遺体の写真だって出てきた。
今まで自分に遠いと思っていた「死」は、実はとても近いところにあった。
きれいに整えられた街に住んで、ありとあらゆるものを「ありえない」ものとして片付けていた。
怖いものや汚いもの、そして「死」は見えていなかった。
命に向き合う準備なんてまだまだできていなかったのだ。
「七番目の男」を初めて読んだとき、まさかこういう形でこの物語を思い出すことになろうとは知る由も無かった。
あの時、どの部分をどのように学んだかは覚えていない。
しかしながら10年以上を経た今、「10メートル以上の津波が」とテレビから聞こえてくるたびに、あの日、現代文の授業で思い描いた光景がよみがえるのである。