特にスーパーマーケットで、試飲担当のお姉ちゃんに「ちょっと辛口だね」とか言って知ったようなしゃべり方をしているおっさんとか見ると「本当に区別できているのかこの人は」と思っていた。
所詮、米と味噌と醤油で育った我々日本人、たいていの人はどれを飲んでも
「あ、ぉぃし~ぃ」
と言うのである。
いわゆる「女子」が集って「おしゃれ」に、ワインでかんぱーい、とかやっている姿。
やっぱり何を飲んでも
「あ、ぉぃし~ぃ」
なのだ。
あれがもしバローロであろうが、500円のテーブルワインであろうが、同じ感想を言ったはずである。
そういうのを見てうんざりしていた。
分かる訳無かろうが、と。
欧米人が新鮮じゃない魚をつかったぼろぼろの寿司を食べてファンタスティックとか言っているのとたいして変わらん、と。
というのも、私も実際のところ、美味しいワインとそうじゃないワインを区別できている自信はなかったためである。
料理用のワインを飲んで
「ひどくまずい」
と隣のイタリア人が言ったとしても、うんうんとうなずきながらも心の中では「別にそんなにまずくないんだけど」と思っていた。
が、しかし。
今日。
暑かった。
どうしても、冷えた白いワインが飲みたくなって帰り道、スーパーに寄った。
今まで飲んだことない銘柄にしよう、と思って、安めのワインを一本手に取った。
家に帰って、シャワーで汗を流して、ポン、とコルクをあける。
おいしくないのだ、これが。
明らかに、これまで飲んでいた銘柄とは違う。びっくりする。
苦いというか、味が無い、というか。
これが分かるようになったということは、喜ばしいことなのだろう。
スーパーのおっさんたちとは一線を画している。
しかし、「なんでも受けつける」ような舌では無くなってしまったということなのだ。
ということはつまり、幸せを感じられる度が高くなってしまった。
簡単に幸せを感じられなくなってしまったということだ。
こだわりが無いこと、そして鈍感であることは幸せなことだ、と常日頃から思っていたというのに。
これって本当に喜ばしいことなのだろうか。
人間に対して、好き嫌いと注文の多い人というのは、いつになっても結婚できない。
食べ物に対して、好き嫌いと注文の多い人というのは、仲間と一緒に外食ができず、付き合いの幅が狭まってしまう。
これまでどのワインでも結構受け入れられたのに、だんだんと味が分かるようになってきて、舌が受け入れるワインの種類が限られるようになったわけだ。
うーん、おいしくない、これ。
ちなみにシチリア産のcatarratto(カタラット)という白ワインです。
ただ、私の口に合わないだけなのかもしれない。
だから、カタラットさんにしてみれば、はっきり言って「いい迷惑」に違いない。
ごめんね、カタラットさん。