「村上春樹 雑文集」を読んでいる。
今まで書いていたのに公開されたことのなかった、とにかく雑多な文章がまとめられた本だ。たしか出版されたのは去年だったと思う。あと少しで読み終わる。
「なんのために、どういう経緯で書いたのか覚えてないんだけど」という文章がいくつかある。それでももちろん面白い。
読んでいるとしみじみと、記録をとることって大事だなあと思う、。もう少し具体的に言うと、自分の考えていることを言葉に表し、そしてそれをさらに文字にして残しておくことって大事だなあ、と。しゃべるだけではなく、文字にすること。これは意識的にやろうとしないと、意外とやらないんですよね。
私は、昔自分が書いた文章を読み返すのはいまいち気が進まない。読めるのもある。数日前とか数時間前に書いたものなら読める。小学校の日記とかだったら読める。ただ、20歳前後の、若くて青くて、恐れというものを知らなかったころの文章は、もう、恥ずかしくて読めない。
なんでこんなえらそうなことが書けるのだろう、と半ばあきれてしまう。
しかし、それを書いたのは別の人間なのだ。
「昨日のオレとは違う」なんていう一見キザなせりふも馬鹿にしてはいけない。だって本当なんだもん。人間は細胞レベルで毎日変化するのだ。
私が苦手とするタイプのひとつが「これはこうだから絶対こう」という考え方をする人だ。ものごとが変わることを認めない人ですね。本人もつらいだろうなあ。その一元論的な考えの囲いというか枠のなかから、解き放ってあげられたらいいのに。
ただし、私の経験からいって、年をとるごとに解き放つのは難しくなってくる。25歳ぐらいまでなら修正可能ですね。50才とかになっちゃうともう大変である。
よく、「あの歳になるともう無理なのだろうね…」「うん、変わらないっすね」「もう遅いね」という会話を職場その他で耳にするが、これって本当に哀しいことだと思う。「無理」っていうことは、対応してもらえる希望すらなくなるわけだ。
このフレーズをきく(あるいは自分が言う)たびに、その人の人生のことまで考えてしまう。
母親がにぎったおにぎりを遠足のお弁当に持っていく幼少期の姿や、どこかの私立大学に入って初めて女の子(あるいは男の子)とデートしたときのこととなど。(もちろん私が知るわけは無いけど。)
そして朝、家族に行ってきますを告げて家を出て満員電車に乗ったであろう現在のことにたどり着き、ああそれでもこの人は「無理」なのだな、と思うとやっぱり哀しくなってくる。
どこかの誰かに、勝手に「手遅れ」の烙印を押されてしまったことを知ったら、この人の親はどんな顔をするだろうか、と。
哀しいと思いませんか。それでもライフ・ゴーズ・オン、なのだ。明日は来るし、陽はまた昇る。
私の提言は、そういう人を除外していくことではない。
どうにかして共存する生き方を見つけていくほうが、いずれ自分にめぐってくるハピネスも多いんじゃないかと思う。
勢いあまってこんなにたくさん書いてしまった。明日は早いのでこれで寝ます。おやすみなさい。
Tuesday, 31 January 2012
セールの思い出
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