Wednesday 18 February 2009

Back to Classic

語学を学習する人の気持ちが分かるようでなければ、と常日頃思っている。だから、自分の語学力を伸ばそうと考える。TOEICを受けるとか、ラジオ英会話を聞くとか。しかし、英語に関して言えば、ある程度のレベルまで達している。自惚れて言っているわけではない。「初級」につきものの悩みを、既に忘れつつあるのだ。

例えば:読みたい記事があるのに、なかなかスムーズに進まない。それどころか、どこで切って読むべきかが分からない。誰かに教えてもらわないと、分からない。そもそも単語が分からない。とても基礎的に見えるイディオムを知らないから、単語ごとに訳をしてしまう。そして単語力をどうやって伸ばしていけばいいのか、分からない。

そういう悩みだ。


時々、イタリア語の記事を読むのだが、つい最近、目を通すだけではなくて、本文を全部、日本語訳してみるという作業をやってみた。中学・高校でよくやっていた、あの方法である。これが、とても難しい。上に書いた例がとにかく当てはまっているのだ。どこで切るべきか分からない。そして、関係詞が、どの節にかかっているのか、分からない。

「なるべく自然な日本語に訳せ」

といわれるし、私も実際そうするべきだと思うが、その一方で

「でも、文法は正しくおさえてない違う意味になることもあるからなるべく忠実に」

とも言われる。そして、忠実に訳をすると、なんとも不自然な日本語ができあがる。

これはいわゆるジレンマってやつだろう、と思った。「なんとなく、意味はつかめる。しかし、文法をよく分かっていない今の状態では、なんとなく進んではいけない気がしている。自然な訳と、正しい文法理解の、ちょうど中間地点というのがどこか分からない」というジレンマ。

面倒だが、こういう、ノートに訳して…という作業をしてみると、学習者の気持ちが痛いほどわかってくる。一文まるごと指差して「ここが分からないんです」と言う学習者を、責めてはいけない。だって、分からないものは分からない。本気で、助けを必要としている。考えても考えても分からないときに、誰か助けてくれたら、と思うその瞬間の想いは結構強くて、結構必死だ。

私はイタリア語の読み書きに関して言えば、圧倒的に弱い。なんとなくしゃべったとしても、綴りをすぐに間違える。聞こえたままに書くので、単語が長くなると、間違えている可能性が高い。語彙も相当小さい。

ただ、自分に鞭打つことって、語学学習では不可欠ですよね。単語を覚えるなんてそれはもう、ある種、闘いみたいなものだと思う。しかも、成果がすぐに現れないと、じれったい。風邪薬とは違う。

大学の時、先生が、「いくら古いといわれようが、かたい文法書を自分で読んだり、分厚い辞書をひいたり、鉛筆持って果てしなく単語の練習したり、書きまくったり、逐一、訳を書き取ったり、そういう地道な作業は、絶対必要。最近は、コミュニケーション中心の語学習得が流行で、旅行会話みたいな、楽しいステップ50~とか言って始めても、質問に対する答え方を知らないと意味が無い。バリエーションがきかない。地味かもしれないけど、古典的な作業は、語学学習には避けて通れない」と言っていた。そして私は未だにそれを信じていて、「古典に帰る」ことが必要なのかもしれない、と、時々思う。すぐには成果の現れない、地道な作業。

ありがとうとカルボナーラ

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