Thursday 15 August 2013

しゃべる。全て、表に出す。

眠くないからいくつかメモがてら書いておく。

(分かっちゃいたけど)イタリア人はよくしゃべる。

私はイタリア語で意思疎通ができる。
しかしながら母語話者の集団の中に入ると途端に話についていけなくなる。
それは「リスニング力が足りない」とか「語彙が足りない」とかいうような問題ではない。

まず、母語話者どうしが共有している文化。
たとえ話されていることを文字に書き起こして辞書で意味を調べたとしても、その土地にのみ共有されている文化までには手が届かないことが多い。
例えば「すけさん、かくさん」と聞くとたいていの日本語母語話者なら一つのイメージを共有するだろう。しかし日本語検定一級の人でさえ「?」になる可能性は大きい。

そこから、母語話者の性格、気質は大きく影響する。
イタリアという土地で、イタリア人たちに育てられた人々がどういう話し方をするか、想像に難くないだろう。いや、想像を超えるだろう。
つまり我々日本人のような(ある意味レアなくらい)大人しい民族が集団の中で「ばしばし」意見を言うのはだいぶ困難を伴う。

イタリアでは空気を読む、などという概念がそもそも存在しない。
思ったこと、考えたことはその場で音声になって発せられる。
「何か言う前に一瞬止まって考えなさい」と家でも学校でもしつけられる私たち日本人とはだいぶ遠い。

そのため、みんな当たり前のように他人の発言をさえぎる。
常に"Mi fai finire, per favore! (最後まで話させてくれる?)"と、すごい勢いで叫んでいる。
それでも相手が黙らない場合は両方同時に話している。
当然ながら、声の音量が大きくなる。
とにかく大きい。
頭が痛くなる。

今回も1つの家族(5人)と同じテーブルにつく機会が何度もあった。

なんてことない話題(Facebookのありかたについてとか、食べ物について、とか)なのだが、それぞれの主張が激しいのでどこからどう見てもケンカだ。
感情が高まるとジェスチャーも激しくなる。
ワイングラスや皿にぶつからないか、そわそわする。
耳がキンキンする。
(もう少し落ち着いてくれよ…)
何かうらみでもあるのだろうか、というくらいの勢い。
このまま家族が崩壊するのではとさえ思える。
というのは、私の家族では「まず」無いことだから。
しかしながら、食事が終わる頃にはスパッとそれぞれのモードに切り替わっている。
話していた内容をひきずることはほぼ無い。

西洋絵画を見て、人間の動きがやや大げさに描かれているという印象を持った人もいるのではないだろうか。
身振り手振りが劇的過ぎる、というか。

例えばこれとか↓













他にいい例が思い浮かばないのだが、日本だと、漫画が分かりやすいかもしれない。
実際の生活ではそれほど大げさな動きはしないのに、漫画だとこうなる↓みたいに。
私は西洋絵画も、あまり意識はしていなかったが漫画と同じ原理だと思っていた。

しかし、今回、食事そっちのけで論議を繰り広げるイタリア人を目の前にして、ああ、この人たちは本当に「劇的」なのだ、と分かった。
だから、何百年も前の昔のイタリアで描かれた絵と、日本の漫画は同じ原理ではない。
絵のモデルになった人々は実際に「躍動感」があり、描いた画家もその躍動感を共有できる土地に生まれ育った人だった。

トマトをつつきながら私はある光景を思い出した。

それは、小津安二郎の映画。
多くを語らず、全てを察し、情を通じ合わせる美しき日本人の姿を。

あの、「さらさら」とした感じ、この人たちには絶対分からないだろうなあ。
パンをちぎりながら思った。

もはや国民性(という言葉でまとめちゃうのもなんだか抵抗はあるけど)としては水と油ほどに違うのである。

というように、以上のように考えている、ということをその場でポーンと言えたらいいのだが、私のなかの「場を読む」能力がそれを許さないのだった。

いっさいはんは最強

 1歳半。 めいは1歳半である。26日から帰省していて、弟の一家と一緒に過ごしている。姪が2人。ひとつ屋根のしたに8人がいる状態。たいへん賑やかでいつもどこかから泣き声やわめき声が聞こえている。こどもの声は高くていい。なかでも1歳半の姪は、もうどこを切り取っても、おもしろくて、た...