Friday 12 May 2017

おじいちゃんが死んだ

こどもは元気なのだがやはり時差ぼけと環境の変化による影響は出てきているように思う。眠い時にどうしても寝付けない。日本にいてもそういうことはあるのだが、ここにきてから、今日は特にきつそうに見える。疲れているだけならコトンと眠れるだろうが、そうはいかない。神経が逆立っているのだろう。機嫌のいい時との差が激しい。見慣れない場所なのでずっとキョロキョロしている。落ち着かないのかもしれない。

というわけできょうはあまり移動をせずに過ごしている。

祖父が亡くなったという連絡を受けた。きょうの午前だ。日本を出る前から、かなりあぶない状態であるということは聞いていた。イタリア行きを取りやめるべきだろうかとも思った。空港で、電話をつないでもらって、ようやく声が聞けたのが最後だった。かすれ声だったが、しっかり意識はあるようだった。いっしょに住んでいたわけではないが、やっぱり悲しいし寂しい。常に気持ちが若く、新しいことに興味を持つ、とても優しくて素敵な祖父だった。

いっしょに住んでいた父方の祖父母はわたしが中高生の頃に亡くなったが、その時と違うのは、親を亡くすってどんな気持ちだろうなと考えるということである。中高生の頃は、親を亡くした父の気持ちは想像もできなかったし、むしろ自分から見ての祖父母という存在を失ったという事実が大きかった。しかし今回は親を亡くした母は一体どんな気持ちだろうかと考える。今、自分も親になったからだろうし、自分の両親もだいぶ年老いて実際に死に近づいているのがわかるからだろう。そもそも20数年前は自分も親に守られた存在であったし、その親が死ぬなんてことはまったく現実味を持たなかった。

ともあれ。覚悟はできてはいたもののおじいちゃんが死んだということがどうしてもまだ人ごとのような気がする。こんなに遠くにいるからかもしれないし、最後の姿を見なかったからかもしれない。

しかし現実は現実なのだ。受け入れなければいけない。まるでエネルギーのかたまりのような、ピンピンした8か月のこどもを見て、90数年前はおじいちゃんもこんなだったんだよなと数日前考えていた。人の一生とは面白いものだ。こうやって、たんたんと時間は流れていく。戦争が起きようが、地震が来ようが、陽は暮れて、朝が来て、誰かが死んで、誰かが生まれる。その流れの中にふと自分は入り込んで、生を受けている。その生もいつかは終わるし、流れに抗うことはできない。おじいちゃんの命も、母の命も、わたしの命も、子どもの命も、そうなるべくしてなっている。

おじいちゃんのこといろいろ思い出す。おじいちゃんみんなのことをいつも気遣ってくれてありがとう。ゆっくり休んでください。

ありがとうとカルボナーラ

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