Saturday 12 January 2019

「先生これやってみました」ー自由に泳がせる効果

メモとして。普段仕事のことは書かないのだがこれは記録しておくべきと思ったから。

「冬休みの宿題」というものがあるのだが私はこの宿題以外に"Winter Challenge"と題して「やるかどうかは自由で、やってみたらできたよと報告しに来てください。3学期の成績に加算します」という形式の、課題というほどでもないものをで生徒に提示してみた。

こんな感じ:

・英語の本を読んでみる
・字幕なしで映画を見る
・英語で日記をつけてみる
・英語以外の外国語に挑戦してみる(これは私がDuolingoを紹介した)

これ以外でもいいけど、例えばこういうものはどうでしょう、冬休みという時間を有効に使ってみましょう、という感じにした。ほかの言語をやってみるというのは、世界には英語以外の言語もあって、ちょっととっついてみるとやれないことはないし視野はぐんと広がるよという話をよくしているから、冬休みをひとつの機会ととらえてはどうだろう、ということ。

まあ一人くらい報告に来るかもな、ぐらいの構えでいたのだが昨日の始業式で早速二人やってきた。「インドネシア語やってみました」と「日記をつけました」という子。とても嬉しかったのでかなり感動しながら、やっぱり提示してみてよかったなと思っていた。それをきっかけに色々話ができた。

もうそれだけでも十分に嬉しかったのだが、翌日つまり昨日、なんと、最初の授業がおわった後に10人を超える生徒たちがどんどんやってきて、自分のやったことを見せてくれた。種類としてはこんな感じ:

・スマホのアプリで、英語で日記を書いた
・スペイン語を勉強してみたので書いてまとめた
・Duolingoでフランス語を始めてレベルだいぶ上がってきた
・旅日記を英語で書いてスケッチブックにまとめた
・Duolingoで韓国語やってみてるけど難しい
・ハリーポッターを2回目だけど字幕なしで見た
・翻訳に挑戦してみてるけどまだ途中です

嬉しさと驚きと感動でちょっと涙出そうになった。そうか、ちょっと言ってみただけなのに、自由に泳がせただけでこんなにやる気を引き出せたのか、と。教師としての私の役割はこれほどまでに大きいのである。宿題を強いるよりこちらのほうが断然効果が大きいしお互いにストレスが少ない。たとえば、地道にフランス語をゼロからやってみたんだなとその子の冬休みを想像すると、きっとそれは驚きと喜びに満ちていただろう。その体験を16歳の今できたということは、その子の今後の人生に、楽しいこととして残るはずである。やらされたわけではないから。「学習」のあるべき姿。

やれと言われてやったことはたいてい身につかないのだ。きっかけになることはあったとしても本人のやる気と情熱がともなうことはまずない。

かつて無理やりピアノを習わされた経験があるがまったくと言っていいほどあの時期にならったことは今残っていない。苦痛以外の何でもなかったので無意識のうちに記憶から消し去ろうとしている。教師から叩かれたこともあった。毎日五分でいいからピアノの前に座れと言われて、5分間ピアノを蹴り続けた。私はこどもだったけど、あの理不尽さというか無益さはよくわかっていた。こどもだったけど。

というのはつまり、こどもだからという扱いで何かを強いても、こどもはなんでもわかっているということ。これ意味ないんじゃないのか、とかこの人おかしいんじゃないのか、とか。上下関係からくる支配欲は機能しないどころかマイナスに働くことが多い。「先生のいうことをきく」のはなぜか?その理由が「先生だから」だとしたら、彼らはどれだけ思考を停止させれば良いのか?その「先生」は一体何者なのだ?どれだけ偉いのか?

話は戻って、その次から次にやってくる子たちを全部まとめて抱きしめたいくらい嬉しい気持ちでいっぱいでした。本当に教師やっててよかったと(しょっちゅう思うけど)あらためて思ったし、心がじんわり暖かくなった状態で研究室に戻ったのでした。その、例のフランス語の画面をみて「私もがんばるから、みんなもがんばろうね!」と、少女漫画みたいなキラキラしたセリフが自分から出て来たことにちょっと驚きつつもそれが自然に発生した気持ちなのだと今考えて思う。3学期も幸先良い!楽しい毎日が過ごせる気がしている。

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