Saturday 1 July 2017

ママとかパパとかねんねとか

湿度が高い。洗濯物が全然乾かないにも関わらず新たに洗濯をして干してしまった。まあいずれは乾くだろうし、汚れて湿ったものを積み重ねておくよりはマシかと。

朝からエネルギーが有り余った子どもを遊びに連れ出し、帰り道にみごと眠らせて帰ってきた。最近は横にしただけですーっと眠るようになったので楽になった。授乳やだっこの必要がないので、深い眠りに落ちるまでずっと腕に抱いたまま待つ必要もない。焦らなくても自然と成長していくものだ。

それにしても夜に起きる回数がすごい。昨日は蒸し暑くて寝苦しかった。私でもそうだったのだからいわんや赤ちゃんをや。

きのう、「赤ちゃんが朝までぐっすり眠る本」だったか何だったか、タイトルは忘れたけどそういうのが施設にあったので手にとってみた。本屋で平積みされていたのを見たこともある。

開いてしばらくして思った。
「アウトー。」

合わない。私には合わない。というのも「睡眠」のことを「ねんね」、読者として想定される女性のことを「ママ」、そのパートナーのことを「パパ」と書いてある。

なんだよたったそれだけかよ、と思うかもしれない。
むしろ子育て本なんてそんなのばっかりだろうに、と思うかもしれない。

しかし私はこういう文言を見ただけで拒否反応が出る。(実際のところ、書いてある内容も「うーん、そうかしら」と思えるようなものばかりだったのだが。)世間では受け入れられるかもしれないけど、私はお断りだ。

どうして世の中は「ママ」と呼びたがる、あるいは呼ばれたがるのだろう。(「ママ」と「おかあさん」の違いについてはまた別の話。)私は私であって「ママ」ではないし、パートナーはわたしの「パパ」ではない。その男性は、その女性の産んだこどもにとっての「パパ」であって、彼女のパパでは決してない。「パパはこどもの泣き声が聞こえてないことが多いのです。ママには本来から察知する能力が備わっています。」と平気で書いてある。

たったそれだけのことなのだが、言葉の持つ力はとても大きいし、出てくる言葉には全てその人の根底にある意識が表れていると私は思っている。自分のことを「ママ」とか「おかあさん」にカテゴライズしてしまう女性は、そうすることが心地よいからそうするのだろう。しかしその人からママとしての役割をとってしまったら何が残るのか。こどもが生まれる前、彼女は一体誰だったのか。こどもが生まれた途端に「ママ」になることが決定して、そのあとの人生もずっと「ママ」なのか?

ママである以前に女性であり人間なのだ。私は私であり、ほかの誰でも無い。私にある魅力は、私だからあるのであって、ママだからあるものではない。子どもがいる、という事実は私についての情報のひとつに過ぎない。だから私は、どうしたって自分のことを「ママ」とか「おかあさん」とか呼ぶことができない。自然と呼ぶようになるのかと思っていたが、どうしてもその言葉は口から出てこない。

さらにこどもは私の所有物でもなんでもない。ひとりの人間であり、私とは別の個性を持つ、別の人物。制御できる部分はすでに限られている。

私は第二者の前で自分のことを「わたし」と呼ぶ。その相手(第二者)が誰であろうと、変わらない。

「ねんね」についてはまた別の話だ。
相手がこどもだからといってこども専用のことばを使うのにも私は抵抗がある。立つことを「たっち」とか、靴のことを「くっく」とか、ごはんを「まんま」とか言わない。こどもは小さいけど一人の人間であって、一対一でコミュニケーションをとるのだから、普通に話して良いしむしろそうすべきだと思っている。

ただ、これは、わたしのこどもがまだ10ヶ月で、ことばを話さないからそう思っているだけかもしれない。実際に話すようになると「たっち」とか「くっく」のありがたみが分かるようになる…のかもしれない。

まあ今の時点では、ママとかパパとかねんねとか、そういう言葉を見るたびにうんざりしてしまうのであります。賛否両論あるだろうし、もしかしたら数ヵ月後の私がこれを読んだら何言ってんだい、と思うかもしれないんだけど、今のところの正直な気持ち。

ありがとうとカルボナーラ

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