村上春樹の「一人称単数」を読んだ。と言ってもそのなかの3話はThe New Yorkerに掲載されていたのですでに英語で読んでいた。なのできょうはそれ以外の話をいっきに読んでしまった。一番気に入ったのは最後の書き下ろし作品「一人称単数」ですかね。「らしさ」満載であるうえにクラシックで、スピード感があり、情景がありありと目に浮かんで楽しかった。これぞ村上さんと思った。
読み直したい部分は以下:
私のこれまでの人生には–たいていの人生がおそらくそうであるように–いくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりした(一方を選ぶ明白な理由が存在した時もあるが、そんなものは見当たらなかったことの方がむしろ多かったかもしれない。そしてまた常に私自身がその選択を行なってきたわけでもない。向こうが私を選択することだって何度かあった)。そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?
あとは「ヤクルトスワローズ詩集」。ここから気に入ってメモした部分が以下:
そう、人生は勝つことより負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」とりはむしろ、「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。
こういうのを例えば10代、いや20代で読んでもピンとこなかったかもしれないなあ。あと気に入ったのは、ビールの売り子とのやりとり:
「すみません。あの、これ黒ビールなんですが。」
「謝ることはないよ、ぜんぜん。だって黒ビールが来るのをずっと待っていたんだから。」
ああ、素敵だ。死ぬまで新作を読み続けていたいなあと思うのだが村上さんは私よりだいぶ先に生まれているから先になくなるに違いないんだよなあ。なんてことを、読むたびに考えてしまう。
村上作品が出るたびにたくさん分析して批評して、たくさん対談とか執筆とかする人たちがいるんだけど、私はそういうのはどうでも良いと思っている。私が読んでいるときに私が楽しければそれでいい。「作者の言いたいこと」みたいなのが昔から好きではない。その比喩や表現に裏も面もない。なぜ分析しなければいけないのか。面白ければそれでいいではないか。読むことに対して自由になれた、あるいは本当に読みたいものを読めるようになってきたのは、いわゆる「現代文」とか「国語」とかを終えてからかもしれない。感想文も親や先生に言われて書いてはいたものの、周りからの評価を受けるために、あるいは宿題だから書いていただけだ。好きだったかというとちっとも好きではなかった。
そう考えると学校教育ってなんだろうな。