Monday 30 November 2015

コスモポリタンで九州人

金、土、月と夕飯にピッツァを食べました。ビールと、ピッツァ。
それでも飽きないんだけど。

そもそも週に1回は食べているのだが、ここ数日はさすがに連続しすぎかなと思う。だけど特に太ったりはしていない。目に見えるところでは。

ところで最近、自分のことをコスモポリタンだと思うことにした。

日本人という意識がそもそも薄い。

ここ10年ぐらいの間に日本人の集団を見ると、一歩も二歩も引いたところから分析するようになった。日本人を見て、自分がその一部であると思いたくなくなる。まさに非国民的なのだが、日本人の集団の中にいるときはとてつもない違和感を感じる。かなり昔からそうなのだけど、それを意識して、さらに、それでも構わないと思えるようになったのはここ数年。初対面の人に「100%日本人ですか?」とまじめに尋ねられることがここ数年増えて来た。生まれだけ海外、とか、育ちが海外、とか、ハーフとか、そもそも完全に外国籍とか、思われることがある。見かけだけではなくて、何かそうさせているものがあるのだろう。

その一方で、海外にいると、自分が日本人であることが結構誇りに思えることがある。それに肌を露出しまくりでアメリカ英語をしゃべるだらしのないブロンドの女の子たちなどを見ると、本気でうんざりするし、自分がこんな感じでよかったとさえ思う。いつの間にか日本人スピリットが芽生える。ほかにも、海外で中国人韓国人と会うと、そこに決定的な差を見つけ出そうとするし、別の国で生まれ育ったことを意識する。「日本ってすばらしい」とまではいかずとも、日本に「粋」を感じる。奥ゆかしさとか、空気の察し方とか。まあ、結局、いいところしか見えないのだろう。

そんなわけで、どっちつかずの自分を、何年間も、「一体私の所属はどこなのだろう」と思って過ごして来た。日本では西洋かぶれ、西洋では国粋主義者…というのは極端な言い方だが、まあそんな感じでここまできた。

それでこの前、村上さんの本を読んでいたときに「僕はどちらかといえばコスモポリタン」と書いてあったのを見て「おお、コスモポリタン!」と思った。別にそれ以来、という訳でではないけど、自分はどこにも属さないと思うことにした。地球人であり、世界人である。そう思うようになってから、少し楽になった気がする。

どこにいても、何語をしゃべっても、私は私である。
その場の環境、文化を客観的に見る。一歩も二歩も下がって見るのは特に悪いことでもない。帰属意識は別に無くても良い。どこかの文化に合わせなければいけないこともないし、どこかの文化を「一番」だとして、賞賛しなければいけないわけでもない。そして自分がいずれかの属性にタイプファイされなければいけないこともない。

あえて言うなら、私の帰属意識は日本ではなく九州にある。「日本人です」という人に海外で会った時よりも、「九州出身です」という人に東京で会ったときのほうがだいぶ嬉しいのがその証拠。こればっかりは死ぬまで変わらないのではないか。

私はコスモポリタンであり、九州人である。


さーて、寝ますかね。
明日の朝ごはんは、さっき焼き上がったレーズンのパン!

ありがとうとカルボナーラ

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