そろそろ東京に戻りたいと思うのだが、たぶん戻ったら戻ったで、また郷里に帰りたくなってくるに違いない。
実家の周りにはコスモスがたくさん咲いている。幼い頃からコスモスは野生でたくさん見るものだったので、上京してから高額で売られているコスモスを花屋で見かけたときには驚いた覚えがある。
植物としての生命力は結構強く、手で握ると強烈なにおいが残る。それほど繊細な花ではなく、放っておいても、わーっと咲く。(田舎育ちはこういうのが感覚として分かるんです。)
だから特に、花としての価値(たとえばバラのような)は、コスモスにはあまり見いだしていなかった。漢字で「秋桜」と書きはするものの、桜の華やかさと繊細さには到底及ばない、という印象がある。もっとずっと土臭い感じがする。
いかにも「野生」だった実家のコスモスだが、ここ最近切りそろえられたらしく、見かけがとても上品になっていた。いわゆる「コスモス畑」と呼べる様であった。私が家に着いたころには満開を迎えていた。
この時期に郷里に帰るのは稀であるため、ふだん見ることの無いコスモス畑はことさら美しく目に映った。
満開だね、きれいだね、と言いながら写真に撮ったその翌日、台風がやってきた。
まさにcosmos(宇宙)の星々ようにふわふわと、緑のなかに浮かんでいた花々はもののみごとになぎ倒されてしまった。
はいこの通り↓
台風前に写真を撮っておいてよかったよね、と言いながら2,3日が経過した。
ふと見ると、なぎ倒されたコスモスがぐいっと頭を持ち上げているではないか。
やっぱり、すさまじい生命力だ。
畑全体に、もう一度色が戻ってきた。
花のピークは過ぎたものの、まだまだ楽しめる。家の周りだけではなく、近所を歩くとあちこちに咲いている。
先日は近所の子どもたち(保育園児ぐらい)が駆け寄ってきて「ほら、これ、やる」と、摘んだピンク色のコスモスの花をいくつか手のひらに乗せてくれた。
「明日もやるけん来てね」
と言う。
手に残ったコスモスのにおいと、その生命力の強さはきっと、ずっと覚えているだろう。
もし、いつの日か、郷里をあとにしてもこの花のことは感覚として残っているだろう。
「じゃあね、バイバーイ」
と言いながら走り去る子どもたちに、二十数年前の自分の姿を重ね合わせたのだった。