Tuesday, 5 August 2025

イタリアに縁を持つようになるまでの人生

 日本は相当暑いようで、ここにいてよかったと本当に思う。ここは涼しい。今も長袖を着ている。昨日なんかはもう寒いくらいだった。雨が降ったり止んだりしていた。ここにきてまだ汗をかいていない。このあと、たとえ気温があがったとしても湿気がないので汗だくになることはないだろう。イタリアの夏はこう。

当然のようにこうやってイタリアに来ている今。夏が近づくとイタリア行きの航空券を買うわけだがほかの行き先を考えることもない。自分がどうしてこれほどにイタリアと「縁」を持つことになったのか、と人生をふりかえってみることがここ数日あった。

イタリアに初めて行ったのは2005年のことで、英国に留学中だった。3月にイタリアに行ったらおもしろかったので6月にも行くことになった。そして7月をまるごと過ごした。英国で生活していた身としてはイタリアはたいそう魅力的だった。天気、食べ物、人。すべてが魅力的だった。イタリアに限らず他の国もたくさん訪れたのだが、そうさせたのは英国の「冴えない感じ」だったのかもしれないと思う。

メイフラワー号がアメリカ大陸に渡ったのも、英国が雨と曇りばっかりだったからじゃないのかと思う。ビートルズやoasisの音楽はイギリスからしか生まれないと思う。わたしがイタリアに行くきっかけを得たのは滞在先が英国だったから。すべては、食べ物も天気もパッとしない環境だからこその、産物。英国を否定するわけではないです。

さかのぼって、なぜ英国に留学したかというと、朝鮮語専攻だったから。当時、朝鮮語には、私を惹きつけるほどの魅力がなかった。言語の壁を突破したいと思うほどの強い「おもい」が自分にはなかった。朝鮮語に責任はない。どこまでいっても「西洋かぶれ」で、まだ見ぬ欧州への強い憧れがあった。実際、選考試験で選ばれたときに「あなたは語科間のバランスをとるために選ばれた」と教授に明かされたくらいで、私以外の2人は英語専攻の学生だった。つまりもし私が英語専攻だったら留学の試験には選ばれなかった。

さらにさかのぼって、なぜ朝鮮語専攻にしたかというと、センター試験でB判定の専攻語を選んだから。C判定の中国語を選ぶ勇気はなかった。「中国がダメなら朝鮮にしろ」という、父親の、一見適当極まりない一言が人生を決定づけることになった。これは私の人生の歴史に残る。This  goes down the history. 朝鮮語になんのこだわりもなかった。

人生は不思議で、おもしろい。2005年以降に起きた数々の出来事はさらにイタリアとの縁を強めることになるがそれはまた別の話。
人生が、こうやって振り返ることができるほどの長さになってきた。精一杯生きてきたなと思う。まだ人生終わってないけど。興味のあることに突き進めるのは、打たれ強さ、柔軟性、明るさが育つ家庭環境だったから。なにかと運が良いわたしの人生。

肌について不思議に思うこと

肌の話。 昨夜、レストランでの夕食にはいわゆる子育て世代の人たちが集まっていて、私以外に女性が3人いた。その中の1人はスイス在住。夏休みでイタリアに帰ってきているらしい。その人に向かってほかの2人が"bella abbronzata”(よく日に焼けている)と言っていた。...