孤独を、つらい時期を、どうやって乗り越えたらいいだろうか。分からない。
この不安はどこから来るのだろう。どうして自分に確信が持てないのだろう。
誰かに助けを求めたい気もするけど、それが解決策になるとは限らないし、話したことによって楽になるのは一時的なことだし、その人にとってもいい迷惑かもしれない。
村上春樹曰く、こういうときはじっとだまって耐えるのがいいらしい。それは本当につらい。
何か本当にきついことを、つらいことを体験したときには、あまり直接的な、即効的な解決策を求めない方がいいのではないかと、僕も考えています。少なくともしばらくのあいだは、誰かに相談したりもしない方がいいだろうと。それよりはその「きつさ」をじっと抱えていた方がいいのではないかと。それを一人でしっかり抱えているうちに、何かしら自然に見えてくるものがあるのではないかという気がします。それがおそらくは、河合先生の言う「灯を消す方がよく見えることがある」ということなのではないでしょうか。
あまりに早く解決策を見つけてしまうと(あるいは見つけたと思ってしまうと)、人にとって大事な「心の年輪」みたいなのが、そこでうまくつくられないままに終わってしまいます。「今は年輪をつくっているところなんだ」と思って、じっと我慢することが大事です。僕が「井戸の底に降りていく」というのも、たしかに同じような趣旨のことなのかもしれません。
ここ数年は生理前の不調がはっきり分かるようになってきた。身体的にも、精神的にも。年のせいだろうか?どうしたらいいのか分からない。感情の起伏が激しすぎて自分がそれに追いつけない。穏やかな日もあれば、まともにものが考えられないくらいに慌てまくっているような日もある。
自分は一体誰なんだろう?私がいなくなって困る人はどれくらいいるのだろうか?人は誰しも与えられた役割をまっとうすべく生きている。私の役割とは?
たぶんもう少し成長しなければいけないのだろう。
どうしても逃げたくなるし、現実から目を背けたくなる。自分を支えるものが欲しいし、無条件に自分を愛してくれる存在が欲しい。
私は小さい頃から、特に大きな失敗もしたことがなく、学業成績も悪くはなく、金銭的に困ったことも、飢えそうになったこともなかったし、家族の問題も、犯罪に巻き込まれたこともなかった。ずっと友達は少なかった。きれいとかかわいいとか言われたことは滅多に無く、容姿は普通だった。男の子にもてるわけでもなかった。失敗経験を話して下さい、と何かの面接で訊かれたときに、無いです、と答えたらその人が笑った。参ったな、と。でも本当に無かったのだから、それ以外に答え様が無い。
失敗談なんてなくて良いと思ったし、失敗ばかりして暗い人たちについては心のどこかで軽蔑していた。そういう人たちの気持ちがわからなかった。相談をされても、ふざけたような回答しかできなかった。家族からは人の痛みの分かる人間になれと言われていたが、ピンと来なかった。痛みを経験しないと分かるわけは無い。激しい屈辱や、喪失、孤独を味わった経験がない限り。今だったら、もしかしたらだけど、少し気持ちが分かるかもしれない。
たぶん今は「心の年輪」をつくっている途中なのだろう。だから直接的な解決を求めないことにしよう。身体を動かして、規則正しく生活を送ろう。乗り越えられる強さは、自分の中にしかないし、自分の中からしか出て来ない。これは遺伝とか環境とか人間関係に影響されるものではない。井戸を掘るのは自分だ。時間をかけて、ずっと掘って行けば、きっといつか光が見える。それまでは耐えるしかない。
こうやって書くことで少し気持ちが整理できる。楽になったかと言うと、分からない。書いて、言葉にするという作業によって自分と向き合う。文章というものはどうしてもキザに映るが、それでもなるべく自分に正直になるように心がける。そうでないと、言葉は出て来ないから。本当に「何と言って良いか分からない」ような場合を除いて。書くことで少し前向きになれる気がする。