Friday, 2 January 2026

私は後悔するだろうか

 あけましておめでとうございます。1日にも書けたんだけど書かなかった。

庭の見える縁側に座って毎朝読書をしている。きょうはDear LifeのなかのCorrieを読み終えた。

ブラインドをあけて空の色が変わるのをみながら過ごすのだがきょうは山の輪郭がいっこうに見えてこない。めずらしいなと思っていたらなんと雪が降っている。これは驚いた。寒いとは思っていたけどこんなことになっていたとは。

郷里で雪が降るのを見るのはいつぶりだろうか、と考えたけどもう思い出せない。きれいに切り揃えられた庭の植木はたいそう美しく、カレンダーの写真のようだ。

元日は、家族が体調不良というのもあり、初詣にはいかなかった。こういう年もあるだろう。家でおめでとうを言って、めいめいにごろごろすごした。ネットフリックスを見たり、オセロをしたりして楽しんだ。これでいい。

新しい誓いがなにかあるだろうか?と考えるが、やはりとくにかわったことはなく、健康に過ごすことに尽きる。新年だからと言って何か新しいことが降ってくるわけでもない。たいてい思いついたそのときがきっかけなので気張ることはない。毎年同じことを言っているようだけど、やっぱりそう。どんなにがんばっても「今年の目標」は出てこない。そういうもんだろうと思う。

「後悔しないように生きる」ということばをよく聞く。先日も海外の俳優がインタビューで、英語でそう言っている動画をみて、なるほどそうかと思って、ときどき思い出して考えてみるけど、わたしは果たして後悔をするだろうか。

たとえば今までの人生での後悔はない。「あのときああしていれば」と思うことはあるけどその先は「あのときああしていればどうなっただろうか」であって「あのときああしていればよかった」ではない。選んだ道を悔いてはいない。つまり今が不幸ではないから。もし今、不幸を感じていたら「あのときああしていればよかった」になるのかもしれない。

たとえばピアノがひけたらよかった、とは、確かに思う。でもピアノにかけられたかもしれない時間は別のことを経験していたわけで、その時間が無駄だったとは思わない。弾けるに越したことはないが弾けなくても楽しく生きられる。

健康に生きるためには毎日決まった時間に行うことがたくさんある。つまり習慣。習慣によって1日が成り立つので、それ以外のことが入り込む隙間はあまりない。(よき)習慣を繰り返している間に時が過ぎていく。

それによって目指すところは、結局なんだろうか。究極のところ、人の役に立つことなのかもしれない。自分がまともに立っていられることで、倒れそうな誰かを支えられるかもしれない。いや、人の役に立つこと自体が目標ではなく、子でも親でも同僚でも友人でもなく自分の人生をしっかり生きることで、そういう、おまけとしての「人のための自分」も出てくるのかもしれない。中心は自分にある。主体的に生きること。

Wednesday, 31 December 2025

読書家ではない人の読書記録

25日に仕事おさめをするやいなや、帰省している。遅くなればなるほど航空券代は高くなり、空港は混むということは明らかだ。今回はなんと6月に予約していた。それもあって夏以降、そわそわすることはなく過ごせた。これで良いのだろう。

冬に郷里以外のどこかへでかけたいとはあまり(いや、ほとんど)思わない。この短い期間にいっせいに人が動くわけだから、どこへ行っても混むし高い。海外に行く人の話を聞くたびに「よく行こうと思うよなあ」と、むしろ感心してしまう。羨ましくはない。いってもたったの1週間程度だ。英国留学中を除いて一度も、お正月を海外で過ごしたことはない。

読書の記録。

カズオ・イシグロのThe Remains of the Dayの最後の一章を残して、図書館での返却期限が来てしまったためやむなく返却をしたのが数週間前。仕方がなかったので読みかけていたアリス・マンローのDear Lifeに戻った。読みかけといっても短編なのでスタートしやすい。こういうときに短編はいいなと思う。最初の一話しか読んでいなかったので二つめの話から順番に読んでいる。二話以降もとても面白い。女性の視点から語られるので共感しやすい。場面が想像できる。こんなに面白いものをよく今まで何年も本棚に放置していたものだ。

しかし今朝読んだ"Pride"という話が今までと全然違った感じがしたので、気になっていろいろな書評や、読者の感想を読んでみた。まず語り手が男性だったという点。これに終盤まで気づかなかった。そして会話はほとんどなくて、語り手が淡々と語っていく形式。「いつものアリスマンローではない」というコメントがいくつか見つかった。発表?された雑誌も違う。the New Yorkerが多かったのにこれはHarper'sらしい。編集者とどういうやりとりがあったんだろう、と書かれたものもあった。わたしもそう思う。そしてタイトルとの関連性も考えさせられる。

さてきょうで2025年が終わる。2015年は自分にとっていろいろあった年だった、とよく記憶しているのだが、そうかあれからもう10年も経ったということか。振り返ってもどうしようもないのでいつもふりかえらない。一つ、よかったことを挙げるとすれば、読書の習慣が身についてきたことだろう。8月から、英語の本を、毎日少しずつ読んだ。

Never Let Me Go
The Buried Giant
How to Pronounce Knife
Klara and the Sun
Slaughterhouse-Five
Dear Life(途中)
The Remains of the Day(途中)

誰も知らない自分だけの深い世界を持っているようで楽しい。生きる楽しみが増えたようにさえ感じる。日本語の本もいくつも読んだけど、良質の洋書を読んでいると日本語はおまけ程度に感じる。そもそも、さほど重い内容のものを読んでいないためだが、英語に比べてあっという間に読んでしまうのもある。

先日、恩師から、読書家の私に、と図書カードをもらった。読書家と呼ばれるにはほど遠いと思っていたけど実際に本は読んでいる。わたしが想像する読書家というのはもっとずっとレベルが違うのだが、読書家について定義があるわけでもない。そう呼ばれたことは嬉しかった。もっと若いときから、もっとたくさん読んでいればよかっただろう。この年になってようやく楽しさに目覚めた感はある。遅くはない。「村上春樹以外読まない人」からは脱した感じがする。

Thursday, 25 December 2025

まえむきな病み上がり

きのうは私も子も遅刻した。わたしは10時ごろ出勤し、子は10時半ごろ登校した。無理だろうかと思いながらも起こしてみたら元気になっていて、すっかり学校に行きたい気分だったようだ。いつも休みたいといいながらも時間になるとスッと出かけていくし、1日休んだ翌日に至ってはもはや楽しみなようだった。少しも引き続き休みたい様子はなかった。大きくなったものだ。

子は4時間だったようで、1時過ぎには帰宅した。心配でもあったので私も4時ごろには帰った。どうだった、と聞くと、たくさん話をしてくれた。疲れてはいるだろうけど、前向きな表情だった。3、4時間目と給食だけなので、さほど負担もなく行けたのだろうと思う。

姿を現すと、先生も仲間も名前をよんで喜んでくれたらしい。元気にはなったものの、夜はやはり早めに寝たほうがいいだろうと思い、ゲームもYoutubeもいつもより少なく制限した。

「なんでー、ぼくもう熱ないのに」
「やみあがりだからだよ」
「やみあがりってなに」
「具合悪いのが治ったばかりってこと」

8時前に布団にごろごろし始めた。大の字になりながら「2学期お疲れ様会の"最後の言葉"はぼくがやるんだよ」という。ほお、そうなの?と聞き返すと「うん、もうだいたい覚えた」と。試しに言ってみてと言うと、すらすら言ってくれた。こういう情報が出てくることは珍しい。寝ころがりながらきょう1日を反芻しているんだろうなと思った。

さらに「2時間目から行きたかったな、だって道徳だったんだもん」とも言ってびっくりした。道徳は好きらしい。

やっぱり集団の力は大きいなと思う。集団の影響力にはかなわない。こんなに前向きになれる。

きょうは2学期最後の日。担任の先生にひとことお礼を書こうと思う。

Wednesday, 24 December 2025

子の生命力を信頼する

月曜。土日ともに夜遅くまでクリスマス会だったのが響いて、月曜は子の調子が悪かった。これは来るな…と思っていたら、火曜は熱が出た。月曜の夜にすでに出ていたのかもしれないが計る前に寝た。たぶん7時半ごろだったと思う。やっぱり寝不足は大敵だ。

火曜。合気道は年内最後の朝稽古で、これだけはいくことに決めていた。息子が熱あるのに隣にいないことに罪悪感はあったが、行かせてもらった。稽古が終わり、8時ごろ家と電話して、学校は休ませることにした。

その後、コピー機で隣になった同僚との会話。柔道をやっている同僚で、時々合気道の話をする。稽古にいったことを褒めてほしくて、きょう朝稽古行ったんですよ、と言った。

「子が熱出していて罪悪感はありましたけど」
「でも熱出すのも、こどもの仕事だから」
「そうですね、確かにそうかも」
「もう少ししたら、自分で歩いて病院行ってくる、ってことだってできるわけでしょ」
「はい」
「ある程度、こどもの生命力を信頼するっていうかね」
「なるほど」
この、セリフがわたしにはストレートに響いた。こどもの生命力を信頼する。

「見極めが難しいですね。これは大丈夫だろう、っていうことと、ちょっと待った注意しないと、っていうことと。こどもがもっと小さい時はそれがわからなくて自分の親によく相談したんですけど。親はなんだかそのへんがよくわかっていて。わたしはいまだにわからなくて困るときがあります」
「うんうん」
「心配しているのは私だけだったりもするし」

と話していたときにほかの要件で呼ばれてその場を去った。こどもの生命力。成長しているのだ。離れて見守る、そのバランスが大事になる。

さてその後、なんだか忙しい1日で5時ぐらいまで仕事は続き、家に帰った。ピッツァを焼くことになって、Fが買い物に出かける。こどもが小さくないとはいえ、看病には2人いるに越したことはないのだ。2人いれば買い物にも行ける。子の熱は下がっているが声がまだ枯れていて、調子よくはなさそうだった。7時前にピッツァを食べた。あっという間に3人で平らげてしまった。早めに寝よう、ということであったかくして8時前には横になった。「日本むかしばなし」を最近読んでいて、きのうは「かちかち山」と「さるのむこどん」を読んだ。どちらもたいそう酷い話だった。ちょうどきのうは同僚と、赤穂浪士の討ち入りから日本人の敵討ち思想について話していたところだった。

さてきょうは雨。冬の雨は最悪だ。出かける気がまったくしない。子は学校に行けるのかどうか。もう少ししたら様子をみる。

Sunday, 21 December 2025

心も体も冬休み

自分でもびっくりするほど体がおやすみモードに入っている。

16日午前に仕事が片付いたので、17日(水)と18日(木)は家でゆっくりすることにした。すると19日朝、驚くべきことが起きた。

寝坊したのだ。なんだそんなの大したことないじゃん、と思うかもしれない。が、これは私にとっては一大事である。毎日5時に起きているのにこの日は時計をみるともうすぐ7時だった。こんなことってあるのか、と思った。心とともに身体もゆるみはじめている証拠だと思う。わかりやすい。
7時前に起きても遅刻はせずに通勤できた。

金曜の夜に作ってもらったパスタ。カルボナーラではないけどこっちのほうが軽くて美味しかった。

きのう、土曜日は朝から合気道へ行った。楽しかった。汗だくになった。暗いなか外に出るので覚悟がいる。明るい時期との朝稽古とは全然違う。それでも稽古が終わったあとの爽快さは何にも替えがたい。

昼は鍋焼きうどんを食べた。

村上春樹がよく比喩に使ったり「鍋焼きうどんの季節ですね」と言ったりエッセイに出てきたりするので気になってはいたけど実際に店で注文して食べることはまずなかったと思う。先週試しに食べてみたらびっくりするほど美味しかったので今週も食べることにした。

夜はお隣さんのうちで忘年会。2歳から9歳まで、こどもが、あわせて5人。めちゃくちゃ楽しかった。大人どうしもまったくの異業種、かつ飾らない感じで居心地が良い。子どもたちはものすごい騒ぎようだった。勉強やばい息子たちはきっと大器晩成型だろう、と笑いあって11時まで楽しんだ。

というわけできょう起きたのも7時。もう普段のわたしだったら絶対にありえないんだけど、まあ冬休みだしいいか。いや、まだ休みに入っていないんだけど。気持ちはすでに冬休みである。きょうは合気道の掃除にいって、火曜日の朝に稽古おさめをすることが目標。

Sunday, 14 December 2025

チョコレートのパンドーロ

 イタリアから届いたパネットーネとパンドーロを少しずつ消費している。きのうはついにBaudiのチョコレートクリーム入りパンドーロを切った。付属の粉砂糖が、カカオパウダー入りで茶色かったのはびっくりした。

切り分けて食べる。
「わああ」とか「おおお」とか歓声があがる。
幸せだよなあ12月は。
とても美味しかった。チョコレート好きにはたまらない製品。

いっぽうで子がつくったレゴ。
1年生のときにハマっていたskibidi toiletによく似ている。


後ろ姿。

いつもながら設計図なしによくできるよなあと感心する。

いつも日曜朝は水泳に行っているが、きょうは雨が降っているのでまあ休んでもいいかと思っている。

そういえばきのうは合気道に行ったのだが起きたのが5時45分であやうく遅刻するところだった。5時の目覚ましが聞こえなかったらしい。珍しいこともあるものだ。飛び起きて、顔を洗って、家を出た。めちゃくちゃ寒かったけど合気道にいくとすぐに汗をかく。

Wednesday, 10 December 2025

強さとは

火曜。休みをとったのだが、同僚に回さなければいけないメールが一件あったのでメールをチェックしたら、それ以外に腹の立つメールがきていた。みなければよかった、とつくづく後悔した。見なければ済む話なのに、メールボックスを開けてしまったがためにいやな気持ちになる。遅れてもいいし迷惑をかけてもいいので、メールは勤務時間中に見るべきなのだ。たとえいやなメールを受け取ったときでも、周りに同僚がいる職場という環境であれば共感してくれる人もたくさんいるのでダメージが少なくて済む。(そういう面において同僚にはおおいに助けてもらっている。)

メールがなかった時代はどうだったのかなと考えてみるに、それはそれで不都合なこともたくさんあったのだろうと思う。いいとこ取りはできない、というのが結論だろうか。それにしても、メールはろくなことがない。コミュニケーションは面と向かってやるのが一番なのである。最初から「メールを見ない、返さない人」になってしまったほうが楽だと思う。

仕事、仕事、と言ってももう40過ぎたということは、仕事人生の半分は終わっているわけだ。働き方というか自分の在り方を強く持っていないと簡単にブレるし、まわりまわって大変なことになると思う。わがままを突き通すわけでも我慢し続けるわけでもない、ちょうどいい「在り方」がどこかにあるはずで、こういう場合はロールモデル、お手本があると良い。そうなると自動的に女性には女性のお手本が必要となる。男女関係ないだろう、と思うかもしれない。男性から学べるところは、ある。働き方を見ていて「ああ、指示はこういうふうに出すのか」とか感心することがある。しかしそれはあくまでも「部分的に」なのだ。女には女のモデルが必要だ、というのは、出産と育児を経るというのはもう並大抵のことではないので、これをこなしながら働いているかどうかは大きい。

すごいなこの人、と思える先輩がいても「はて、この人のご飯は誰が作ってるんだろうな。洗濯は誰がしているんだろうな。子の宿題は誰がみているんだろうな」ということが気になる。必ず誰かが裏でその人の分の働きをしている。歴史上の偉大な人物でも、きっとその背景にはご飯作ったり洗濯したりしている人がいた。自分でやってる可能性ももちろんあるけど。

だから、これらを家族に依頼するにしてもそのこと、つまり「そういう仕事が家に存在すること」をじゅうぶん把握していて、うまく回せるだけの人間関係を家族と築けている人なのかどうか、が見習いたいと思うかどうかを決める。

「結局、どこに行っても人間関係」なのである。周りが見えていたとしても気にし過ぎてすべてが遠慮に変わってしまって遠ざかる人もいる。この辺は、最初の話に戻って、やっぱり自分の軸がないといけない。強さとは周りを押し退ける力や自分を押し通す力ではない。合気道の先生がよく言う話で、かつて高倉健氏と話したときに「強さとは、なんでしょうか」と高倉氏はたずねたという。強さとは。なんだろうか。ときどき考える。先生は「自分に勝つこと」とおっしゃっていた。言われてなるほどと思うが、その答えは与えてもらうものではなく自分で日々を生きながら見つけていくものだと思う。

私は後悔するだろうか

 あけましておめでとうございます。1日にも書けたんだけど書かなかった。 庭の見える縁側に座って毎朝読書をしている。きょうはDear LifeのなかのCorrieを読み終えた。 ブラインドをあけて空の色が変わるのをみながら過ごすのだがきょうは山の輪郭がいっこうに見えてこない。めずら...