Wednesday 23 September 2020

友人が亡くなった

今朝6時ぐらい。起きてFacebookをみると、イタリア語がたくさん目に飛び込んできた。同じ人物に対してたくさんの投稿がされていて、どうやら何か起きたらしいということはわかった。そして落ち着いて読んでみたら、なんと友人が亡くなっている。信じられない。こう書いている今でも信じられない。交通事故が原因のようだ。それを報じている地元の新聞のリンクもあった。

「エンポレーゼ通りで死亡事故 チェルバイアとサン・ヴィンチェンツォ間 57歳男性死亡」とある。事故現場の写真もあったけど痛ましくてみていられない。

友人の友人として知り合ったのが2004年のこと。とにかく優しくて穏和な、いわゆる典型的イタリア人のイメージとはだいぶかけ離れた、控えめで大人しい人だった。(もうひとりの友人はほんとにいわゆる「イタリア人」で、それとはかなり対照的な性格だった。)イタリアに行くたびに会っていた。最後に会ったのは2015年で、人生いろいろあって、という話を湖のほとりのレストランでした。いつも、アパートの下まで迎えにきてくれて、着いたらクラクションを鳴らして知らせてくれた。コロナが始まる前だったか「元気?イタリアになかなか来ないね」というメッセージがきて少しやりとりをした。それが最後だった。

こんなことってあるかよ…。とさっきから自問している。まだ信じられない。そして手の届かない、遠い地に、今自分がいることが悔しくもある。ワインのためのブドウの収穫に行ったらしくて、その写真が彼のFacebookに投稿されていたのはつい昨日のことだった。それを考えると、いかに、事故が「一瞬」の出来事なのかを思い知らされる。さっきまで元気だった人が一瞬で逝ってしまった。残された友人たちのことを考える。今もまだ信じられない。

Tuesday 22 September 2020

消防博物館へ

21日。きのう。朝起きて、曇り空をみる。寒くもないし暑くもない。チャンスだな、と思った。よし、消防博物館に行こう。

子どもが8時まで起きてこなかったので起こしに行った。それから消防博物館の話をすると「行こう!」と張り切ってすぐ玄関に向かっていった。おいおい、ちょっと待って。

結局9時すぎには出かけた。

夏休みからずっと行きたかったのだ。暑すぎるゆえに先延ばしになっていた予定の一つである。4連休は家の周辺でのんびり過ごすことも考えたが、このくらいのイベントはあってもいいんではないかと思った。そして、こんなに消防消防言っているのもいつまで続くかわからないのだ。この消防熱のあるうちに行けるところには連れていってあげようと思った。

四谷三丁目駅には30分くらいで着いた。ベビーカーなしで、お出かけができるようになるといろいろと身軽になる。しかも新宿で地下鉄に乗り換えるなんていうことができるようになったんだからなあ。大きくなったなあ。子供と手を繋いで歩きながらしみじみ思った。

消防博物館はとても面白かった。大人が行ってもだいぶ楽しめる。というのは私が子どものおかげで消防関連に身近になっているからかもしれないが。コロナウイルスのせいで、様々なコーナーが中止になっていたのは残念だったがそれでも十分に楽しめた。

博物館の来館者は、というと、我が子とまさに同じような子たちを連れた家族ばかり。『じぷた』という古い消防車の本があるのだが、地下一階のクラシックカーをみながら「ほら、じぷたみたいだよ」とか「じぷたに出てきたねこれ」とか言っている人たちを何組も目にした。どこの家も同じなのだと思って苦笑した。

私にとっては、消防の歴史についてのフロアが面白かった。うちには『むかしのしょうぼう いまのしょうぼう』というかがくのともの本があって、まさにそれに出てきた消防の服が展示されていた。馬でひっぱられる消防車など。この時代はラッパを吹いて放水開始の合図を出していたのだ。そして「消防士」でなくて「消防手」だった。かっこよすぎる。

おかげで私はアーレンス・フォックスとか、スタッツとかきいて、なんのことかわかる。わかってしまう。あの本を何十回と読んだからだ。

クラシックなポスター。かっこいい。


これがスタッツ。

子どもがいなかったらきっといかなかったであろう場所、知らなかったであろうことがたくさんある。勉強させられている。ありがとう。

午前中のうちに帰った。用事は午前中に済ませるに限る。おかげで充実した1日になった。

Monday 21 September 2020

イラスト帖にしたがって描いてみる

 朝起きて最初に飲むものを、冷たいコーヒーから紅茶に変えた。今日。暖かくなってくると冷たいコーヒーにして、夏の間はずっとそれで、涼しくなると紅茶にする。寒い時期に買っておいたヨークシャー・ティーがまだあった。助かった。

図書館によく行く。一人でもいくし、子どもと一緒にも行く。自粛期間に閉館していたときは本当に困ったけど、再開して以降、結構な頻度で行っている。子どもが以前よりもいろいろな本に興味を持つようになってきたのでこちらも選びがいがある。以前はすべて車や消防関連の本だったのに。昨日は試しにかこさとしの「たべもののたび」を借りて読んであげたら大人しくずっときいていた。以前同じことをしようとしたときにはまったく興味を示さなかったのだが。

さて、先日ふと、こういう本を手にした。『ボールペンで簡単 大人かわいい季節のイラスト帖』。ふーん、と思って借りてみた。そして家に帰って、本は数日そのままになっていたのだがきのうは余裕のある日だったのでふと開いて、ボールペンではないけど万年筆で真似して書いてみた。イラストの手順が示してある。たとえば、魚とか本とかの描き方。こういうのは、本当に絵を描くのが苦手な人向けなんだろうなと思っていたのだが、どうもそういう人のみに向けられたものでもないようだ。ちなみに私は(自称)絵が得意で、何かを写したりせずともなんとなく簡単なイラストくらいなら描ける。そんな私でも、ひたすら素直に従って描いてみると、ほほうなるほどという具合に結構それっぽいものが描ける。と言っても簡単なイラストばかりだけど。お花と葉っぱの描き方、というところを少し練習して描いたあと、いろいろくっつけてみたらこんな感じ。

飾りフレームみたいなのの描き方はなかなか面白かった。手書きの賞状なんてあってもいいだろうなと思った。万年筆で文字を書く楽しみを覚えたこの一年だが、イラストもいいかもしれない。趣味とは言えずとも、なんとなくペンを動かしたいとき(会議中とか)にいくつか「描けるもの」があると楽しいなと思った。

Friday 18 September 2020

有元葉子さんの本とテレビ不要について

有元葉子さんという料理研究家がいる。名前は知っていたが特に本を読んだりその料理を作ったりすることはなかった。それが、先月、図書館で「きょう返された本」のなかにあって、ふと手にとったのがきっかけで興味を持った。一冊だけ(確か最初は『使い切る。』か『ためない暮らし』だったと思う)読んでみたところ、考え方がとても私と合う、似ている人だと思った。料理研究家ではあるが、料理についてというよりは生き方、暮らし方について。片付けと掃除について書かれてあった。

持ち物が厳選されていて少ないけどそれを長年使う、というあたりは私もそうなので納得しながら読んだ。掃除については、読んでいると、掃除したくなってくる。料理しながらあっちこっちを拭いている、というのを読んで以来、私も拭き掃除の頻度が高くなった。ためなければいいのだ。日々、ちょこちょこあちこち拭いていれば、大変な掃除にはならない。

どの本だったか忘れたけど、参考になったのは「マニキュアは一本だけ」というページ。仕事柄、マニキュアをしょっちゅうしていられないけど、使いたいときもある、だけど時間が経つと硬くなるし薄め液を使ってもそんな綺麗には塗れなくなる、だからそのシーズンで一本しか持たない、ということ。なるほどと思った。どうしても欲しくなって持っている割には使わないものの代表例、マニキュア。値段も手頃なのでつい買ってしまうが同じ色ばかりを持っていて、結局見事に使い切るのは滅多にない。子どもが産まれてからの4年間はなおさら、である。ずっと買い足してはいないものの、何年も同じものを持っている。持ってるだけ。そんなもんなのである。マニキュアについては、小さな箱を持っていて、それに入る分以上は入れていない。それでも必要以上だ。一本と決めておけばいいのか。ちなみに今数えてみたら8本ありました。

話変わって本当はこの4連休で実家に帰るつもりでした。が、9月はまだコロナで厳しいので来るな、とのこと。そんなこと言ってたら一生動けない。マスクと手洗いはするもののもはや気にしなくなった最近。感染者数も参考にしていない。気をつけた上で活動するしかないだろう。必要な情報は、自分が信頼できるソースから選び取って判断している。

実家に帰ると様子はおそらくこっちとだいぶ違うのだろうと想像がつく。あっちに行ってはいけないとか、マスクがどうのとか親に色々言われて4日間を過ごすのは簡単に想像がつくので、疲れる日々を過ごすならこれは東京にいたほうが賢明だろうなと思う。親に入ってくる情報の大半はテレビである。テレビ・フリーな生活を送っている私に言わせればあのメディアはとにかくうるさすぎるし、洗脳の威力が異常に強い。科学的根拠をもって物事を判断する力を簡単に失わせる。テレビから離れて以降、同僚や知り合いが「…ってテレビで言ってたよ」と言うときは基本的に信頼しない。

Thursday 17 September 2020

『8 1/2』をようやく見た

「ああ、ようやく涼しくなった」

 暑さがおさまると嬉しいのだが同時に少し切なくもなる。夏の終わりはこんな感じ。気温も湿度も下がってだいぶ過ごしやすい。日々のストレスが軽減されたような感じがする。睡眠の質も上がった感じがする。エアコンの温度設定が気になって途中で起きる、ということがなくなった。

昨日は仕事が休みで、映画を観に行った。ちょうど一昨日の夜、さて翌日は何をしようかなと思いながらふと、フェリーニの映画特別上映が9月まで延長だったのを思い出し検索してみた。席がある。しかもずっとみたかった映画。しかもしかも、時間も問題ない。夏休みはすべて満席だったのに、空席があるんだなあ。迷わず予約したのだった。

見たかった映画というのは8 2/1。イタリア語だとotto e mezzo、日本語だと「はっかにぶんのいち」。古い分数の読み方らしいのだが、変なタイトルだ。ダニエル・デイ・ルイス主演のNINEという映画がある。この8 1/2を元にしたミュージカル版で、原作を見ないままこれを何度か見たことがあった。

マルチェッロ・マストロヤンニがかっこよすぎた。かっこいいというのは、顔がどうのこうのではなく、全体から醸し出されるオーラが。ほかの映画も見たことあるけど、ちょうど年齢的にもこのあたりが一番かっこよかったのではないだろうか、と思った。白髪の混じったぐらいの年齢。そして飾りっ気のないアヌーク・エメが美しかった。二人とも、あのメガネがね。もう、かっこよすぎね。

過去と、現実と、想像の世界が入り混じる作品だ。と聞くとそんなのはたくさんありそうだけど、この8 1/2がそれらにもたらした影響は大きい。なんだって、最初にやった人はすごいのだ。資源や手段の限られた時代に、フェリーニはこの作品を撮った。

クラシックなスタイルは最高だと思う。部屋のインテリアも、車も。服装もそう。帽子、大きすぎず小さすぎないジャケット、きちっとした靴、着こなしにはすべて決まりがある。古い映画を見ると逆にハッとさせられるのだ。タバコを加えて、外の椅子に脚を組んで座り、新聞を広げる。それだけの動作がこんなにかっこいい。(当然だけどデジタルなものはどこにも見当たらない。)こんなにかっこいいのはなぜか?きまりを守っているから。そのきまりはどこに書いてあるのか?書かれてない。書かれてないけど知ってる。イタリアの何がいいかって、クラシックなところ。「きまり」は自然と引き継がれていく。1950年に生まれようが、2020年に生まれようが、ズボンの丈はどのくらいであるべきか、ちゃんと知ってる。

子どもが生まれて4年間、家で落ち着いて映画を見ることがまったくと言っていいほどできなくなったし習慣として遠のいてしまった。たとえ一人で家にいたとしても、2時間もじっとしていられないのだ。それは貴重な2時間であるため、次々にやらなければいけないことを思い出し、動き出してしまう。掃除、洗濯、パンの仕込みなど。それもあって映画館に行ってきちんと時間をとろうと思うようになった。と言っても、見たい映画がいつも上映されているわけではない。今回のように古い名作が特別料金で特別上映されるのはとてもありがたい。面白いとあらかじめわかっているものだと「映画館で見なくてもよかったなあ」と思うこともない。

それにしても最後まで印象にのこったのはメガネでした。かっこいいよなあ。

Saturday 12 September 2020

ピッツァと子の成長

仕事が通常通り再開すると忙しくなる。やることがいっきに増えるので物理的に時間が足りなくなる。睡眠だけは欠くことのないようにしている。

いつ頃からか、そしてどういうきっかけだったか、忘れてしまったけど我が家は毎週日曜日にピッツァを食べる。これがもう半年以上続いている。半年以上も続けばもはや習慣と呼んでいいのではないだろうか。ちなみに私が作るわけではない。食べるだけ。今週末は日曜日に忙しくて作れないだろうということがわかっていたのだが、こどものリクエストもあり、きのう作ることになったらしい。保育園にお迎えにいくとすでにメニューがきまっていた。

4歳の我が子は、ごっこ遊びをすることが多い。3、4歳らしい。遊びというほどでもないかもしれないが「はい、ピザ屋さんですよ〜」とか「はいジュース屋さんですよ〜」とか。きのうも、赤い帽子をかぶって、ソファをバイクに見立てて運転して、一生懸命「ピザのデリバリー」をしてくれた。

わたしも子もすっかりお腹がすいていて、よく食べた。子の食べたあとの、てのひらサイズのピザ一切れ↓

なんて小さな一口だろう!!ねずみさんがかじったのかな、とでも言いたくなる。

子は、身長は105cm、体重は16kgになった。100cmを超えたお祝いと言って寿司を食べたのは3月ではなかったか。どんどん、腕におさまらなくなってくる。腕におさまってもじっとしていることがほぼなくなってくる。成長は喜ばしいがやはり少し寂しい。

最近のひとこと:

朝起きて、太陽がまぶしかったのか目を押さえながら歩いてきた。おはよー、と言うと、

「おてんきバンして」

と言う。まぶしいから太陽をやっつけてということらしい。かわいすぎる。

Wednesday 2 September 2020

9月になった。4歳になった。

 9月になった。ようやく涼しくなった。耐え抜いた夏だった、と思う。郷里にも、イタリアにも行かずに東京で過ごした夏。「この暑さももう少しの辛抱」と、毎日自分に言い聞かせていた気がする。実際のところ、耐えがたい暑さというのは1ヶ月も続かない。花粉症の時期みたいなもので、二週間ちょっと我慢をしていればあっという間(でもないか…)に通り過ぎていく。

そんな夏の終わりにやってくるのが我が子の誕生日である。我が子の誕生日というのは母である私が頑張った日、ということでもある。1歳の誕生日のとき、保育園に送りながら一人で「うるうる」していたのを覚えているが、今となってはそういうことはない。思い出しはするものの、それほど泣けたりすることはない。記憶が遠くなったということだろうか?

ついに4歳になった。いつの間にか服の着脱が自分でできるようになっていた。箸はまだ握らない。読み書きも数字も興味がない。いいことはYes/Noの返事が速いこと。「〜したい?」と聞くと、はい・いいえの返事が即座に返ってくるのは、私はいいと思っている。好き嫌いもはっきり言う。「あなたと友達になりたいな」とか「ぼくマンマ大好きだよ」とか意思表示がはっきりできる。朝は自分で起きる。他人に起こされて不機嫌ということはない。2つの言語を使える。そのおかげか、その場で話されている言語や用語、話題がわからない人がそこにいる場合はわかるように説明をしてあげなければいけない、と思っているらしい。つまり外国語であるということに限らず、同じ言語でも、その話題を知らない人がいたら「それおじいちゃんわからないから」と言う。

ここからは覚悟を持って「しつけ」なければいけないことが増えてくるような気がしている。かわいい、かわいいでは済まなくなってくるなあ、と4歳という数字を見て思う。ま、めちゃくちゃかわいいんだけどね。

ありがとうとカルボナーラ

 新学期スタート。 子が帰ってくる時間に家に人がいる、というこの幸せ。保育園は4時とか5時まで預けていたのでこんなことはなかったけど小学校は本当に「帰ってくる」ので誰かいないといけない。自分が仕事していてその時間に家でFが子を迎えてくれているというこの安心感は、あらためて、ほかの...