Saturday 29 August 2020

コンロなし生活と安倍政権と夏の終わり

まだ、コンロが使えない。カセットコンロがあるのが幸いだ。火がなくても、決定的に生活で困ることはない。もし私が一人暮らしだったらたぶん二週間、いや、1ヶ月でも火なし生活で行けたと思う。朝は例の丸いパンとかあんことか食べる。いや、食べなくてもいける。ここで火を使うことはない。昼は職場か外。夜はサラダ。となると火が必要なのは茹で卵を作るときくらい。毎日サラダでもまったく問題ない。私だけだったら、いける。しかし子どももいるとなると毎日サラダというわけにもいかない。カセットコンロ のボンベは3本目を使っている。

昨日、ようやく修理がきた。が、すぐに「あの〜」と言われ、何かと思ったら、部品が足りないという。「たのしみにされてたと思うので気の毒なんですけど…すみません」と言われた。ということでもう一度きょうきてもらうことになっている。やれやれ、である。

土日は特に予定もない。子と楽しく過ごすというそれだけなので、一大イベントとしてはコンロの取り替え、ということになる。それにすべてを合わせても良い。なんとか今週末で修理が終わって欲しい。

終わるといえば安倍晋三が辞めるらしい。長かった。いろいろ散々だったがコロナのトドメは大きかった。問題だらけの安倍政権だったのに、きっとまた短期政権が繰り返される頃になると、よかった頃の記憶として残るのかもしれないなと思う。そんなもんだろう。ここからようやく令和が始まる感じがする。

いろいろ終わる。夏も終わる。「なーつのおーわーり〜 なーつのおーわーりーには〜」というあの歌が時々脳内を過ぎるここ最近。

Friday 28 August 2020

仕事はいつから楽に感じられるようになったか

 この二週間くらいずっと出勤している。夏休みなのに。しかも、今週は実際に「やること」がある。がっつり。疲れてはいるけど、楽しい。

休み中の静かな学校が好きだ。新聞を広げたりして同僚とどうでもいい話をするのが至福の時間。

いつごろから「労働が苦」みたいな感覚がなくなったかなあ、と考えるとそれはたぶん30代に入ってからだろう。いわゆる「20代女性」にかけられる期待というのはほかと違った、というのが30代のいまは分かる。いつもきちんして、ミスもなく、すべてにyesと答えることが当たり前だった気がする。勝手に背負いすぎていたかもしれない。それでも、今より断然生きづらかった。

それとも、子が生まれてからかもしれない。仕事よりも断然大変な、思い通りにいかないことに人生で初めて直面した結果、仕事がだいぶ簡単に、かつやりがいのあるものに見えてきた。なんてったって、たいていのことは予測できるのだ。あとは、妊娠出産を経て、怖いものが減った気がする。あんなに(文字通り)「重い」ものを身体が抱えたことはなかったし、命以上に大事なものは本当に、ない、ということが身をもってわかった。まわりからどう思われるか、とか、陰口とか、そういう小さなことについては、以前以上にどうでも良いと思うようになった。

twitterで「子どもが産まれてからが人生の本番」というのをみた。もちろん子どもを持たないケースもあるので、誰でも持つべきとかそういうわけではない。そして誰でも持てるわけではないのでこういう言い方は批判を浴びるのだろうとは思う。ただ、子のいる今となってこの言葉は身に染みる。ほんとにそうだと思う。子がいることで、あらゆることにおいて視点が一気に変わる。

子はもう少しで4歳になる。あれから4年。現時点ですでに、いろいろなことが思い通りには行っていない。生まれる前に思い描いていたことは見事に、ことごとく、打ち砕かれている。自分にはこんなに精神的なゆとりがなかったのか、と初めて知っている。この歳になって、初めて。そして周りには結構偉そうにしゃべってしまうのをメタ的に見て「どうしようもないな」と、自分自身について、思う。完璧な親なんていないのだ。そして時間が経ったからといって完璧になるわけでもない。ただ、与えられた条件、環境、時間のなかで、小さくてもいいから楽しみをみつけて過ごして行こうと思っている。

Thursday 27 August 2020

それでもカメラを好む

 今月の初め鎌倉に行った。1泊2日なので大した荷物はいらない。ただ、出発直前まで迷ったことがある。それはカメラを持っていくかどうか。私はいわゆる一眼レフを持っている。ミラーレスなので小さい。荷物にはならないと思うが、手持ちのi pod(i phoneは持っていない)に比べるとだいぶ大きく重く感じる。文字通り「直前」まで迷った結果、結局カメラを置いていくことにした。記録として撮れれば写真の質は少し悪くても良いだろうと思ったのだった。

そして結局、後悔した。持ってくればよかった、と。カメラで撮ったらよかっただろうに、という場面がたくさんあった。いわゆる「カメラ」で撮り慣れている人には分かるだろうけど、フォーカスの仕方、光の具合が全然違う。というか、i podで撮ると、それらは撮った後に編集すべきことに回されてしまう。何よりも困るのが、シャッターを押す瞬間が合わない、ということだ。画面上のボタンは軽すぎて、いまいち撮った感じがしないので連写することになってしまう。そして望んだのと違う瞬間を切り取ってしまう。一応撮れたことは撮れたが、こうじゃないんだよなあと思った。

「最新のi phoneで撮れば違う」と言われるかもしれない。でも、たぶん最新機種を使ったとしても、やっぱり私はカメラのほうを好むだろう。i phoneにシャッターボタンがない限り。

Wednesday 26 August 2020

パンを買わなくなった

朝の光景の一つ。 


パンは以前から焼いていたのだが、自粛期間中に出会った新しいレシピ(エル・グルメに載っていた)で、自分でこの丸いパンを自分で焼くようになってから少し生活が変わった。パンを買うことがほぼなくなった。少なくともこの1ヶ月は何も買っていない。こんなことは今までになかったのではないか。ホームベーカリーで焼くのもおいしいのだけど、ひとつひとつ丸めたほうが水分も抜けにくくてしっとりしている。そして食べやすいし持ち運びしやすい。焼いて次の日はとりあえず2つくらい職場に持っていく。お腹がすいたなというときに食べる。だいたい午前中。こうするとお菓子をつまむことはまずない。

なによりもこのレシピが最高なのだ。コンビニでパンを買うとなるといわゆる「白パン」を選ぶことが多いのだが、ちょうどああいうのができる。白くてふわふわしている。初めて作ったときはこんなのが家でできるのか、ととても驚いた。こうすると、市販のパンがいっきに美味しくなさそうに見えてくるのだ。

一回焼くと、手のひらサイズのパンが8つできる。いろいろ試してこれがいちばん作りやすいと思った。そのうちの半分はあんこを入れてあんぱんにする。それ以外は冷凍もできるようにと何も入れないで焼く。夏なので冷蔵庫に保存しつつ、2日間くらいで私と子が食べきる。冷凍庫にすぐ入れてしまう場合もある。

レシピは覚えてしまった。何度か試しているうちに元のレシピからは少し変わってきた。

小麦粉300g
砂糖15g
塩5g
バター30g
牛乳255g
イースト5g

1. 以上をホームベーカリーに20分くらいこねてもらう。
2. 等分して90分ねかせる。
3. 形をととのえて、180℃で20分焼く。あんこ入れるならここでいれる。

シンプルで満足度の高いパンがこんなに簡単にできます。

Sunday 23 August 2020

「ヤツだけ特別扱い」

 冷やし中華について。納得いかないことがある。

私は冷たい麺が好きだ。コシのある、よく水でしめられた麺が好きだ。うどんに至っては、真冬であっても冷たいものを食べるくらいである。

この季節、冷やし中華をお昼に食べたい、と思うことがよくある。ところが、意外なことに、そんなにどこにでもあるものではない。さらにここで取り上げたい問題は、ようやく見つけてもほかのメニューよりやけに高いということである。少なくとも100円は高いというところが多い。どうしてだろう。私の同僚曰く「ヤツだけ特別扱い」。原材料費はほかと対して変わらないはずなのにやけに高いのだ。これ、納得いかない。そして当然のように「ランチセット」というお得なメニューからは除外されている。夏だから、人々はどうせ冷やし中華を求めてやってくるということがわかっている、ということだろうか。普通のラーメンだと800円あれば食べられるところを、冷やし中華となると1000円を超える場合が多々ある。別に高級じゃなくていいのでせめて他のラーメンと同じくらいの値段で食べさせてほしい。私の切なる願い。その点、吉祥寺にある「吉祥菜館」の冷やし中華はずっと同じ値段で味も量も安定していて嬉しい。妊娠中はるばる食べに行ったなあ…。写真はこちら

夏は「昼飯求めて三千里」みたいな無駄な動きをしたくないので、外出するときは「渋谷にいくなら昼はあそこ」みたいにある程度検討をつけてから動いた方が良い。どの季節だってそうなんだけど炎天下だと特にそう。

つい先日、まさに無駄に歩くことになってしまい、遅い時間に1100円の冷やし中華を食べた。おいしい。たしかに美味しいのだが、だいぶお得なほかのランチセットが同じ値段なのにどうしてこれは単品で1100円なのだろう。なぜこれには杏仁豆腐がついてこないのだろう。やっぱり納得がいかない。おいしいんだけど、あえてここを選んでもう一度食べるということはないだろう。

Saturday 22 August 2020

3歳の人間関係

今週一週間は、水曜以外毎日出勤した。在宅でもできることは多かったが、先週ほど暑くなかったのと、出勤したことが捗ることが多くて行くことにしたのだった。それに伴って子も毎日登園した。先週も、先々週も、夏休みだしねということで休ませつつの登園だったが今週は全部行った。その間、特定の子と仲良くなったらしい。楽しすぎて「迎えにこないで」と言う。保育園に行くのがより楽しみになったようだった。保育園の先生も「なんか気が合ったみたいですね」「きょうは手をつないでいましたよ」と言っていた。

3歳の子たちの人間関係というものが、実感できない。外から見たらもちろん「あら二人は仲良しなのねー」とわかるけど、本人たちの気持ちに近づくことはできない。つまり、友達というもの、そして特定の子と仲良くすることについてどう思っているのか。他のこと、たとえば、いたずらすると怒られると分かっているのにあえてする、とか、そういうときの気持ちだったら想像がつく。だけど急に気の合う仲間ができて手をつなぐ、というその気持ち。まあもちろん嬉しいんだろうけど。

実はここに至るまでには紆余曲折があった。自分は仲間だと思っていた数人の集団がいるのだが、どうしても一緒に消防士ごっこをしてくれないという。仮面ライダーごっこをしているけど、自分は仮面ライダーに興味がない。だから仲間に入れない。家でも毎日「○○くんも、消防士したらいいのにねえ」と言っていた。時々、あっちへ行けと言われるらしい。これは聞いていると親としても切なくなる。「みんなが消防士やりたいわけじゃないんだよ〜」と言って理解させようとした。

そのうちに消防士ごっこしてくれる友達が数人現れた。「ぼくはAくんとBくんの友達になってみようと思うの」と言っていた。そして登園するなりいきなりAくんに直接「ぼくね、Aくんの友達になりたいんだー」と言うとAくんが「やーだよ」とピシャリ。これはまいった!戸惑いながらも「なんで?」と会話が続く。そんなこんなで本人としても疑問が残り、納得のいかない日々はまだ続く。

つぎはBくんと仲良くなり始めた。消防士ごっこをしてくれることがきっかけのようだが、それだけではなくどうも気が合うらしい。追いかけたりあえてコケたりしながら仲良く遊んでいる。

いわゆる「親友」というものを持った経験がない私としては同性の友達とこんなにくっつくという感覚がわからない。急に仲良くなってお互いに遠慮なんてないのだろうか。それは3歳だからだろうか。これで気が合わなくなる時がきたらお互い気まずかったりしないのだろうか。そんなことまで考えてしまう。いやもちろん余計なお世話だろうけど…。

環境も、興味も変わるうちに人間関係も変わっていくのは当然だけど、おそらくこれが初めて、本人が意識している「一番仲の良い友達」なのだろうと思う。ここまで楽しそうなのは初めて見た。

もうすぐ3歳が終わろうとしている。

Friday 21 August 2020

カセットコンロを買った

 コンロが使えなくなっておそらく二週間ぐらい経つ。ある日突然使えなくなった。リンナイに対応してもらったところ、修理不可能なためまるごと交換、と。経年劣化によるものらしい。キッチンに組み込まれているタイプのコンロなので、簡単にこちらが買い換えるわけにもいかない。それからお盆に入り、業者の休みを経ているので本当に長い時間がかかっている。冷凍食品とかオーブンでなんとかなるからね、と言いながらもさすがにちくわや豆腐ばっかり食べる生活には飽きてきた。メニューを考えるのも一苦労である。私はちなみに毎日サラダで済む人間なのでいいのだが、ほかの二人が困る。そして、冷蔵庫にたくさんあった卵の賞味期限、8月20日が迫ってきた。どうしようかなと思った。とりあえずいっきに3つ卵を消費できる、シフォンケーキを作った。それでも6つ余っている。そこでカセットコンロ を買うことにした。防災の観点からも便利かもよ、と友人にも言われていた。そしてなによりも「ゆでたまご作りたい」。この卵をなんとかしなければ。ゆでれば賞味期限をストップさせられる。

ということで19日朝、ヨドバシでポチッと注文したら、なんと同日午後3時ごろには届いた。速い!エクストリーム便とは言うものの、こんなに便利なのか?早速茹で卵を作った。荷物が増えるような感じはしていたが、おかげで家でパスタが茹でられるようになった。二週間ぶりのパスタに家人はたいそう感動し写真まで撮っていた。おそらく生まれてこの方二週間もパスタを食べずに過ごしたことはなかったのではないだろうか。

いつコンロが届くのかはわからないが、とりあえずのところ、たった数日であれ、カセットコンロは大きな役目を果たしている。良い買い物だった。

Thursday 20 August 2020

『スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む』から、メディアについて

 そろそろ夏の終わりがやってくる。切ないけど、あの暑さが過ぎ去ったのは喜ばしい。私の幼いころはきっとこのくらいの気温が「夏」だったのだろう。これ以上の猛暑を受け止められる余裕が、地球にはあるのだろうか。

ガスコンロが壊れて料理のできない日々が続いている。火を使わずに食べられるものを考えて調理するのにいよいよ疲れてきたので昨晩は馴染みのレストランに行った。

読みかけの本がたくさんある。きのうは「一冊でわかる イタリア史」を読んだ。読んだと言っても読みはじめは1ヶ月くらい前で、図書館で貸し出し延長手続きまでしてそろそろ返却日が迫っていたから。

ムッソリーニが処刑されるところまで読んだが、なんだろう、なんかこう読みにくいというか入ってこない。それは自分のせいなのかもしれない。18歳で、世界史選択者だったころは入ってきた情報が、不思議なことに今となってはなかなか入ってこない。それとも、本のせいかもしれない。深みが足りないというか。事実がひたすら書いてあるだけなのだが、少し感想みたいなのが入ったり考えさせたりしても良いんじゃないかと思った。そこが池上彰の本(賛否両論あるけど)とはだいぶ違う点。この手の本に関しては、やっぱり流れにのせる工夫みたいなのがあると良いなと思う。自分の勉強する姿勢さえあれば違うのかもしれないけど。

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で、本当に書きたかったのはこっち:

『スウェーデンの小学校社会科の教科書を読む』

これも読みかけだけど、面白い。10歳に向けて書かれた教科書の翻訳と、それを読んだ日本の大学生の感想が交互に書いてある。おそらく子供むけかもしれない。読むと考え方がよりクリアに、シンプルになる。そうか、そう生きていいんだよね、と思う。基本的に「スウェーデン>日本」の姿勢で書かれてあるけど、まあ事実なので仕方ない。こんな国になれたらいいな、素晴らしいなと思わずにはいられない。

その中で私がいい影響を受けられたのがSNSに関する部分。以下第2章『メディア』より。

あなたも影響を与えることができる

メディアが、あなたやあなたの価値観、そしてあなたの意見に影響を与えるのと同じように、あなたも自分のためにメディアを利用することができます。たとえば、学校のカフェや自由時間の遊び場が閉鎖されないように、あなたが誰かに影響を与え

るためには「サポート」が必要です。そのような決定にうまく影響を与えるためには、なるべく多くの人々から賛同を得なくてはいけません。

通例、このことを「世論を形成する」と言います。もし、あなたがオピニオンリーダーとなれば、より多くの人々があなたの考えを支持するようになるでしょう。

以下に、あなたが世論を形成し、それによって決定に影響を与えるためのコツを示しておきます。

・あなたの友人や親類から、署名による支援を集めましょう。

・地方の新聞に投書しましょう。

・フェイスブックでグループを作りましょう。

・人々を集めてデモを行いましょう。

・責任者の政治家に、直接連絡を取りましょう。

この若者たちは、社会の犯罪に対する世論を形成したいと考えています。


いやはや、グレタ・トゥンベリのようなリーダーが生まれる国はこういう教育をしているのだ。納得がいく。日本はおそらくあと30年たってもこうはならないだろう。「人を集めてデモを行いましょう」って。ほかの章を読むとわかるが、スウェーデンでは老若男女、すべての国民が世界に影響を与えることができ、より良い場所にできる、ということを一貫して教えている。そして「規則やきまりごとは変わるものである」という常識。目から鱗である。外に目を向けないと、頭は凝り固まっていくばかりだなあ。

ちなみにスウェーデンについては「日本よりだいぶ進んだ北欧の国」ぐらいにしか思っていなかったのだが、スウェーデンの友達ができてからやっぱりこれは「だいぶ進んだ」どころではないんではないか、と思うようになり、興味がわいた。話をきくと何もかもが、次元の違う「良さ」で、驚くことばかりである。医療や福祉に関しては「あ、それは日本も同じ」と思うこともあるのだが、その他は呆れるくらいに違う。システムだけなら日本も作れるが、そもそも人の心というか、考え方、価値観が違う。これが教育の違いなのだなと思う。そして国民が政府を信用している、というのは今までに出会ったスウェーデン人たち(10人ぐらい)を思い出しても、理解できる。だから今回のコロナウイルスに関しても、スウエーデンの人々がどう考えてどう動いているかが、遠いながらもなんとなく想像がつく。

で、話は戻って、この章を読んで「メディアは受信するもの」というより「発信するもの」ということに気づいた。どちらの役割も果たしているのだが、日本ではあまりにも前者に偏っているのではないだろうか。総務省の行った2015年の調査の結果がこの本には載っている。

「自ら情報発信することよりも他人の書き込み等を閲覧することの方が多い」が43%、

「自らはほとんど情報発信せず、他人の書き込み等の閲覧しか行わない」が41%、

「自ら情報発信を積極的に行っている」が15%

らしい。

以下訳者によって書かれた部分引用:

日本のメディアの教育といえば「どうやって有害な情報から身を守るか」が重視されているように思われます。これに対して、スウェーデンの教科書では「どうやって有益な情報を発信できるか」が重視されています。そして、その先にあるのは、メディアが「民主制の道具」であるという発想です。

このあたりを読んで「そっか、発信か」と思った。フェイスブックやInstagramをたくさんの友人知人がやるようになったこの10年間で気づいたことがある。意見や感想、写真一枚でもそこに発信すると、SNSを始めた当初よりも友人の反応が気になるようになった。理由は二つある。読む相手が多いから。そして、当時と違ってそれぞれに家庭や仕事を持っていて置かれている立場がだいぶ異なってきたことで考え方も異なり「これは誰かを傷つけないだろうか」とか「傲慢とか自慢しているとか思われないだろうか」と気を遣うようになってきたから。個人情報を出しすぎていないだろうか、という懸念もあるかもしれない。そうしているうちに私にとってSNSは受信するためのメディアになってきていた。

内容に気を使うのは当たり前だが、発信していいのだ。何に怯えて「閲覧者」になろうとしていたのだろう。意見を表明する自由は、この国にはまだ残されているのだから。これで国民全体が「閲覧者」になってしまうと、極端な例だけど独裁国家を作るのもより簡単になる。メディアは「民主制の道具」。なるほど。

私は長年このブログというものを続けているのだが、これは発信している例の一つ。どこまで個人的にするか、など、悩んだ時期を経て、バランスも取れてきて今に至る。もう少し読者を確保する方向に行ってもいいかもしれないとは思うが、読んでください、というよりは勝手に書いているゆるい感じがまた長く続く理由の一つかもしれない。

ところで、こういう海外についての本を読んで「こんな国のあり方すばらしいな、こんなふうになれたらいいな」と思うのは年をとったせいかもしれない。10年前だったらきっと「日本を出てこんな国に住みたいな」とリアルに可能性を探っていただろうから。

Sunday 16 August 2020

創作好きの問題点

小さい頃から何かを製作、創作するのが好きだった。製作とはいかずとも絵を描くのも好きだったし、料理や、裁縫なども好きだった。

そして今もやはりそう。布屋さんのある街を歩いていると必ず立ち寄ってしまう。ただし、あたらしい製作物のためにミシンを出したり台所に立ったりするのは相当時間に余裕のあるときに限られる。毎日出勤していない今月は特に「さてやるか」と思うことが多い。

そんなこんなで、一昨日は、作りかけたモナリザのトートバッグにようやく持ち手をつけた。これでようやく使える状態になった。

それからきのうは、裏地のあるバッグを作ってみた。これはまだ持ち手がついていない。こんな感じ:

丈夫な生地を二枚使うとずっしり重くなった。

裏地付きのバッグってどうやってるんだろうなとずっと思っていたところ、ミシンを買ったときの附属本のなかにレシピがあったので、練習だと思って作ってみた。うちにある生地を使った。布は、こうやって使わないとどんどんたまっていく。布についてはもはや収集癖があるので遠慮なく使わなければ箱から溢れてしまう。

それから、さらに、先日買ったリバティ生地を使ってもう一つマスクを作った。最近リバティの貴重さがようやくわかり始めた(普通の記事の3倍の値段がする!)ので、表地だけをリバティにして、裏地はこどものズボンを作ったときに余った綿麻を使った。ローン生地が涼しいとは思うが、リバティは貴重なので、ちょうど正方形に残ったそれをハンカチにでもしようと思っている。

製作好きの問題点としては、こうやって「たくさん持ってるのにさらに作る」という点だ。トートバッグも、マスクも、ハンカチも、たくさんあるのに作ってしまう。食べ物も同じく。パンは食べ切れていないのに新しくパンを作って余ってしまう。ミニマリスト的な生活を送りたい自分とは相反している。

というのも喜びはむしろ、使うことや食べることではなく、作る過程自体にあるのだ。作り終わったら情熱はだいぶ冷めてしまっていることが多い。

そんな私はまた布屋さんに行きたくて仕方ない。生地をみはじめると簡単に1時間が経過している。行きたいなあ。でも暑いからなあ…。

Tuesday 11 August 2020

好きなように泳げばいい

 暑い。朝起きて、夜の間も温度が下がっていないのがわかる。これが都会の夏か。自然さえあれば、朝晩、少しは「すーっ」とする風が通るのだがここはそうもいかないのだ。通常、真夏を東京で過ごすことのない私には分かる。逆に東京にいつもいる人たちはこれが普通だと思うのだろう。

こどもは水曜午後から保育園を休ませたのでとても長い週末(?)となった。5日間も保育園に行っていない。この休みの間は3日連続で近所のプールへ行った。とても混んでいるのではと思っていたがそうでもなかった。子はまだ泳げないけど、この3日で頭を「ざぶん」とつけられるようになった。そして最初は私にしがみついていたのに今となっては片手だけ出してあげるとそれに捕まって自分でふわふわと浮かぶ(もがく?)ようになった。

やっぱり指示を出すべきではないのだ。頭を無理につけさせなくても、つけるようになる。体も水面に平行になってくる。なにごとも、好きになることよりも嫌いにならないことが大事だとおもっている。ああしろこうしろと指図する必要は、無い。ほとんどの場合。

小学校2年生ごろだったか、スイミングスクールに通ってみたことがある。周りの子も通っていて、自分もやりたいと言い出したのだと思う。結果から言うと、自分には合っていなかった。指図されたタイミングで泳ぎ出すのが苦しかった。やけに「せわしい」そしてつめたい時間だったという記憶がある。暗い屋内と、ライト。そして思い出すと息がつきにくくなる。

一方で、夏休みの間通い続けた近所のプールはとても楽しかった。屋外なので黒こげになった。当然のように毎日通った。雨の日でも行っていた。こちらは対照的にキラキラした思い出だ。青と、光の反射と、プールをあがったあとのふわーっとした心地よさがいまだに残っている。

好きにやればいいのだ。楽しいと思うことをやればいい。

Sunday 9 August 2020

アンパンマンとあんパン

 こどもが、遅ればせながらアンパンマンにはまっている。遅ればせながら、というのは、通常こどもたちがアンパンマン好きになるのはもう少し早いからだ。生まれてまもなくからキャラクターを認識しているという場合が少なくないと思う。持ち物もおもちゃもアンパンマンで溢れている場合が多い。

それが、我が家の場合とくにアンパンマンにそれほどの興味もなくここまできた。ちなみにもうすぐ4歳。家でテレビを見ないということも理由のひとつだったかもしれない。最近どうしてこれほど興味が出てきたかというと、紙芝居を借りるようになったからだ。保育園でも読むらしいが、図書館が再開したのもあり家でもいくらでも読めるようになった。ちなみにアンパンマンをテレビで見たことはない。

かくして私は紙芝居を日々音読することとなった。やってみるとこれがなかなか難しい。登場人物が何人もいてセリフが続くときなどは、一体誰の発言かわからない。その証拠に子が「誰が言ってるの?」とよく聞く。そりゃそうだよなと思って声色を変えることを試みた。しかし二種類くらいしか出せない。かびるんるんとばいきんまんにはなれるが、ジャムおじさんとなると結構難しい。声優ってなんてすごいんだ。さらに紙芝居は絵本と違って、したのほうに「演出のポイント」というのがある。演出!そう、求められているのは演技なのだ。たとえば「遠くを見るように」とか「残念そうに」とか「説得するようにゆっくり」とか指示がある。そのとおりに、こだわって読んでみると結構それっぽくなるものだ。

こんな感じで、何を隠そう、こっちもかなり熱心になってくる。嫌いではないのだ。頼まれると「はいはいマンマ劇場〜」と言いながら適当な台の上に紙芝居を置き、背筋を伸ばして語り始める。

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子がアンパンマン好きになったのとほぼ同時期に、冗談みたいだが、私はあんパンをよく作るようになった。Elle groumet という雑誌を6月に購入して以来、簡単に作れることがわかったからだ。かなり本格的に好みのパンが焼ける。そしてまったく大変じゃない。誰のために作るわけでもなく自分のために作る。週2回くらい作っている気がする。家で作るようになってからというもの、パンを買うことがほぼなくなった。ホームベーカリーに任せっきりの食パンはいつでも作れると思っていたので以前から食パンを買うことはほぼなかったのだがあんぱんなどのいわゆる菓子パンは買うことがあった。それが、家で作るパンのほうが何倍も美味しいということを知って以来、すっかり買う気が失せてしまった。

手作りにシフトし始めたのはコロナ下の自粛生活がもたらした恩恵の一つである。

Saturday 8 August 2020

『一人称単数』

 村上春樹の「一人称単数」を読んだ。と言ってもそのなかの3話はThe New Yorkerに掲載されていたのですでに英語で読んでいた。なのできょうはそれ以外の話をいっきに読んでしまった。一番気に入ったのは最後の書き下ろし作品「一人称単数」ですかね。「らしさ」満載であるうえにクラシックで、スピード感があり、情景がありありと目に浮かんで楽しかった。これぞ村上さんと思った。

読み直したい部分は以下:

私のこれまでの人生には–たいていの人生がおそらくそうであるように–いくつかの大事な分岐点があった。右と左、どちらにでも行くことができた。そして私はそのたびに右を選んだり、左を選んだりした(一方を選ぶ明白な理由が存在した時もあるが、そんなものは見当たらなかったことの方がむしろ多かったかもしれない。そしてまた常に私自身がその選択を行なってきたわけでもない。向こうが私を選択することだって何度かあった)。そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう?


あとは「ヤクルトスワローズ詩集」。ここから気に入ってメモした部分が以下:

そう、人生は勝つことより負けることの方が数多いのだ。そして人生の本当の知恵は「どのように相手に勝つか」とりはむしろ、「どのようにうまく負けるか」というところから育っていく。

こういうのを例えば10代、いや20代で読んでもピンとこなかったかもしれないなあ。あと気に入ったのは、ビールの売り子とのやりとり:

「すみません。あの、これ黒ビールなんですが。」

「謝ることはないよ、ぜんぜん。だって黒ビールが来るのをずっと待っていたんだから。」

ああ、素敵だ。死ぬまで新作を読み続けていたいなあと思うのだが村上さんは私よりだいぶ先に生まれているから先になくなるに違いないんだよなあ。なんてことを、読むたびに考えてしまう。


村上作品が出るたびにたくさん分析して批評して、たくさん対談とか執筆とかする人たちがいるんだけど、私はそういうのはどうでも良いと思っている。私が読んでいるときに私が楽しければそれでいい。「作者の言いたいこと」みたいなのが昔から好きではない。その比喩や表現に裏も面もない。なぜ分析しなければいけないのか。面白ければそれでいいではないか。読むことに対して自由になれた、あるいは本当に読みたいものを読めるようになってきたのは、いわゆる「現代文」とか「国語」とかを終えてからかもしれない。感想文も親や先生に言われて書いてはいたものの、周りからの評価を受けるために、あるいは宿題だから書いていただけだ。好きだったかというとちっとも好きではなかった。

そう考えると学校教育ってなんだろうな。



Sunday 2 August 2020

8月になった。

土曜日。8月になった。どうもsurrealな感じがする。シュール。8月か?これが8月1日なのか?と。異様に涼しいのと、普段と違うスケジュールで仕事その他動いているためだと思う。学校が終わったのは昨日。通常なら7月末はすっかり夏休みモード。

夏休みなのにどこにも行けない。Facebookが毎日「5年前のきょう」みたいな感じで過去の投稿を知らせてくれるのだが、この10年間くらいの投稿によれば7月末はすでにローマにいる、という場合がたいていである。ちなみに5年前のきょうはウクライナにいた。1年前はそろそろローマへ出発するころ…とか、たくさん思い出して「本来なら今頃…」と考えてしまう。今年は実家にすら帰ることができない。東京に残る夏、というのはこれまでの人生で3回目になる。1回目は卒論執筆中の21歳ごろ。2回目は妊娠中。それから3回目がコロナ。

しかし、だ。それほど悲観的にならずに済んでいるのは4月と5月の経験があるからだろう。4月末に緊急事態宣言延長になり保育園休園と、在宅勤務要請が出た時ほどの絶望感はない。「あと1ヶ月か!長い…」と思ったことを覚えている。それでもなんとかやっていけた、という経験と自信がある。「どこかバカンスに行けたはずの期間にじっとしている」のも二週間くらいなものだ。「どこにも行けない」こと自体よりも「夏といえば旅に出るはずなのに」という部分が大きい。そのうち涼しくなって秋がやってきて、あの夏はコロナでどこも行けなかったね、という話になっていくだろう。

さて、土曜日。きのうは朝から3人でプールへ行ってきた。最高の天気である。それほど暑くない上に、比較的カラッとしている。自転車に乗ると爽快感を得た。

こどもはまだちっとも泳げないが水の中にいるだけでやっぱり楽しい。パパとママがいる、というそれだけでとても幸せそうだ。1時間近く遊んで、3人で蕎麦を食べに行った。それからゴロゴロして過ごした。

子がアンパンマンの紙芝居にすっかりハマっていて、図書館からいくつも借りてくる。読んでと言われると断れず、読むのだが、1日に同じものを3回も4回も読むことがあり、これが結構疲れる。発声練習にはちょうどいいと思ってやっている。

ありがとうとカルボナーラ

 新学期スタート。 子が帰ってくる時間に家に人がいる、というこの幸せ。保育園は4時とか5時まで預けていたのでこんなことはなかったけど小学校は本当に「帰ってくる」ので誰かいないといけない。自分が仕事していてその時間に家でFが子を迎えてくれているというこの安心感は、あらためて、ほかの...