Tuesday 19 December 2023

キャロットケーキの記録

 何ヶ月も前からキャロットケーキを作りたいと思っていて、材料を揃えては結局作らず、を繰り返していた。理由は

1. レシピが定まらない

シフォンケーキ、チーズケーキ、チョコレートケーキなどは、どのレシピを見てもだいたい同じような分量だ。キャロットケーキとなるとそうはいかない。レシピごとに分量が大きく異なる。あまり繊細さを要しないので手順もそれほど細かくない。なので、いろんな人がいろんな方法、分量で試しやすいのだろう。結果、どのレシピを見ればよいかわからなくなっていた。

2. すりおろすのが面倒

これが大きかった。人参をすりおろす手間は、パンを成形したりケーキをまぜたりするのとは違う。ただ面倒。そこでブレンダーが欲しいと思いながらも思いきれず、長いこと買わないままだった。

そこで解決:

1→ またしても若山曜子さんの新しい本が出た。しかし今回は買わずにぐっとこらえて、インスタのライブと、シェアされた分量を参考にして作ることにした。そのかわりバターを使わず太白胡麻油を大さじ1増やすことにした。なぜこのレシピにしたかというと、ほかのレシピにくらべて分量が少ないから。半分ぐらいだと思う。日本の家庭向け、という感じで若山さんのレシピは試しやすい。

2→ブレンダー買った。楽天スーパーセール期間中に。。。と言っても割引になってはいなかったけどポイント還元率は高い。メーカーはブラウンとパナソニックで迷ったけど、なんだかんだでパナソニックを信じてしまう。少し高くてもパナソニックを買う。

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とにかく簡単で美味しく、今月はすでに(たぶん)3回作った。誰かのために作りたいというよりは自分が食べたい。そして分量はこれで良い。少なくて、2日以内に食べ切るくらいでちょうどいい。レシピどおりではなくて自分で少し変更を加えてみている。たとえばフロスティングにはバターなしでもいける気がしたので今回はクリームチーズと砂糖だけにしてみた。

Wednesday 13 December 2023

おじがなくなった

 おじが亡くなった。具合が悪いとすら思っていなかったので「なくなりました」と聞いたときには「は?」と思った。

(私の家族は、悪いニュースを隠す傾向がありこういうことが多い。「間」を知らないので次に聞く知らせがとても急だ。私はとくに家族から離れているのもあり寂しさと疎外感を感じる。家族なのに、と思う。近くに住んでいてもそうなのかもしれないし、私自身も無意識にそうしていることもあるのかもしれないが。内容は良くなくても知らせるべきだと思う。)

たくさんいる私のおじ、おばのなかでも一番若いおじちゃんが亡くなった。しらせから一晩あけた今でも、やっぱりちょっと信じられず、きょうも明け方、ふとんに横になって考えていた。なくなる前の晩に、息子(わたしのいとこ)と過ごしたという話をきいて、なんとも言えない気持ちになった。やっぱり若すぎる。早すぎる。あとに残したもの、やり残したものが大きすぎるだろう。こんなに早いのは良くない、と思った。

頻繁に会っていたわけではないおじだけど、やるせなさと寂しさがつのる。「そうかもういないのか」ときのうから何度も思い返している。雲をつかむような、虚しい気持ちになる。死んだら何もないのだ。当たり前だけど。

最後に会ったのは、去年の秋、私の弟の結婚式だった。とても嬉しそうだったのが印象的で、具合が悪かったようだけど元気になったんだなと安心していたのに。病気は良くなっていなかったらしい。こんなことがあるだろうか。

痛みもなく苦しまずに亡くなったということで、おじちゃんらしい感じもした。「そいぎいっちょ」と言って挨拶をする姿が印象的だった。

死、喪失を受け入れるのは難しい。

Thursday 7 December 2023

家では仕事のメールをみない

仕事のメールを家で見ないようにしている。

と言っても、ほんの数日しか実行できていないが。少なくともこの前の週末は実行できた。

当たり前のことだけど、勤務時間外にメールをチェックする義務はないのです。

私が職場のトップだったら話は違うだろう。部下のことを気にしてメールを見る必要があるかもしれない。だが違う。ただの平社員だ。いちいちメールを見る必要はない。

というのもここ数年で(いつからかはわからない)家でメールを見るのは当たり前になっていて、無意識にログインしていた。自動で通知が来るようにはしていない。自分からチェックしなければいけない。その結果、暇さえあればメールボックスを見ているようになった。今年は特に外部とのやりとりが増えて忙しくなっているのもある。勤務時間だけでさばききれなくなっている。

それが先日、ふとしたことから自分が使っているi padのアカウントからいったんログアウトしたら、メールのログインに手間がかかるようになった。自動でパスワードが入力されていたものがいったん消えたので、いちいち入力する必要が出てきたからだ。「めんどくさいな」と思った。

それをきっかけに、ログインするのをやめてみた。

ありがちな話なのだが、これが意外と快適。当たり前なのだが、仕事から離れているときまで仕事をする必要はないのだ。

特に夜、メールボックスを見たたったそれだけのために不快な思いで就寝しなければいけないということが今までたくさんあった。だったら見なければいいだけなのだ。すべては朝に回すことにする。

勤務時間外にメールをしてくる人のほうに合わせる必要はない。ときどき、一方的に爆弾を投げてきただけのようなメールもある。ストレス発散?メールをそのはけ口にしている?と思うようなメール。

しばらく前のニューヨークタイムズにあったけど、メールの受信箱を開くとき、人は心拍数があがるそうです。ストレスとかプレッシャーとか、無意識のうちに受け取っている。毎日の小さなストレスが健康状態にも影響しているかもしれない。そしてそれは、自力でコントロールできるストレスなのだ。

どうしようもないときはもちろんあるだろうけど、自分のなかのルールにしていきたいと思っている。忙しくなってきたからこそ、メールは見ない。


Sunday 3 December 2023

海外に住んでいたかもしれない自分

12月になった。今年書いたブログの投稿数がとにかく少ない。いままでの半分ぐらいだ。書くことがなかったわけではない。時間を割こうとしていなかったことが原因だと思う。忙しいというのは便利な言い訳。記録に残さない思考は流れていくだけ、というのを前に聞いたことがある。記録できるものは記録しようと思う。まあ、今年はこんなもんなのだ。

1日のうちで楽しみなこと、または時間は何かと考えてみると、朝5時に紅茶をいれて前日の新聞を読む時間だ。これは高校生のときから変わっていない。いや、高校以来復活した習慣だ。この1年くらい(だと思う)、毎朝、New York Timesを読んでいる。高校時代は家にある日本語の新聞を読んでいた。

この時間だけは日本から抜け出したような気持ちになり、思考が自由になる気がする。海外にいる、とまでいかないけど少し日常から解き放たれたような気持ちになる。すべての記事を読むわけではなく、タイトルだけ見たり、興味があるものだけ読む。ひとつの記事を読み始めても最後まで読み切らないときもある。

海外に住んでいたかもしれない自分、を想像することがある。何をしていただろう。海外に住むことを決めるなら20代だろう、と思う。人生いつでも好きなことを始められる、とはいうものの、いまから海外に移ろうというのは、20代のときにそうするよりは断然ハードルが高いと思う。気持ちの問題だろうか。

「どこにいても自分次第」

だと思っている。言い聞かせている気もする。職場とか、住む場所とか"somewhere not here"「ここじゃないどこか」的な考えはいつでもつきまとう。が、どこへ行っても人間関係がすべてで、その人間関係をどう作っていくかは自分次第である。人間関係というのは同僚や友人に限らず家族も含まれる。

とは言え3ヶ月くらい海外に住むのはいいだろうなと思っていて、ちょっとした夢でもある。いまはまず、地に足をつけて仕事をがんばり子どもを育てることに専念したい。

ありがとうとカルボナーラ

 新学期スタート。 子が帰ってくる時間に家に人がいる、というこの幸せ。保育園は4時とか5時まで預けていたのでこんなことはなかったけど小学校は本当に「帰ってくる」ので誰かいないといけない。自分が仕事していてその時間に家でFが子を迎えてくれているというこの安心感は、あらためて、ほかの...