Wednesday 29 April 2015

本当につらいとき

遅く寝たのに早く起きた。とっくに8時頃かなと思って起きたらまだ5時だった。それから考え事をしていたらまったく眠れなくなってしまった。

孤独を、つらい時期を、どうやって乗り越えたらいいだろうか。分からない。
この不安はどこから来るのだろう。どうして自分に確信が持てないのだろう。
誰かに助けを求めたい気もするけど、それが解決策になるとは限らないし、話したことによって楽になるのは一時的なことだし、その人にとってもいい迷惑かもしれない。
村上春樹曰く、こういうときはじっとだまって耐えるのがいいらしい。それは本当につらい。
何か本当にきついことを、つらいことを体験したときには、あまり直接的な、即効的な解決策を求めない方がいいのではないかと、僕も考えています。少なくともしばらくのあいだは、誰かに相談したりもしない方がいいだろうと。それよりはその「きつさ」をじっと抱えていた方がいいのではないかと。それを一人でしっかり抱えているうちに、何かしら自然に見えてくるものがあるのではないかという気がします。それがおそらくは、河合先生の言う「灯を消す方がよく見えることがある」ということなのではないでしょうか。
あまりに早く解決策を見つけてしまうと(あるいは見つけたと思ってしまうと)、人にとって大事な「心の年輪」みたいなのが、そこでうまくつくられないままに終わってしまいます。「今は年輪をつくっているところなんだ」と思って、じっと我慢することが大事です。僕が「井戸の底に降りていく」というのも、たしかに同じような趣旨のことなのかもしれません。

ここ数年は生理前の不調がはっきり分かるようになってきた。身体的にも、精神的にも。年のせいだろうか?どうしたらいいのか分からない。感情の起伏が激しすぎて自分がそれに追いつけない。穏やかな日もあれば、まともにものが考えられないくらいに慌てまくっているような日もある。

自分は一体誰なんだろう?私がいなくなって困る人はどれくらいいるのだろうか?人は誰しも与えられた役割をまっとうすべく生きている。私の役割とは?

たぶんもう少し成長しなければいけないのだろう。

どうしても逃げたくなるし、現実から目を背けたくなる。自分を支えるものが欲しいし、無条件に自分を愛してくれる存在が欲しい。

私は小さい頃から、特に大きな失敗もしたことがなく、学業成績も悪くはなく、金銭的に困ったことも、飢えそうになったこともなかったし、家族の問題も、犯罪に巻き込まれたこともなかった。ずっと友達は少なかった。きれいとかかわいいとか言われたことは滅多に無く、容姿は普通だった。男の子にもてるわけでもなかった。失敗経験を話して下さい、と何かの面接で訊かれたときに、無いです、と答えたらその人が笑った。参ったな、と。でも本当に無かったのだから、それ以外に答え様が無い。

失敗談なんてなくて良いと思ったし、失敗ばかりして暗い人たちについては心のどこかで軽蔑していた。そういう人たちの気持ちがわからなかった。相談をされても、ふざけたような回答しかできなかった。家族からは人の痛みの分かる人間になれと言われていたが、ピンと来なかった。痛みを経験しないと分かるわけは無い。激しい屈辱や、喪失、孤独を味わった経験がない限り。今だったら、もしかしたらだけど、少し気持ちが分かるかもしれない。

たぶん今は「心の年輪」をつくっている途中なのだろう。だから直接的な解決を求めないことにしよう。身体を動かして、規則正しく生活を送ろう。乗り越えられる強さは、自分の中にしかないし、自分の中からしか出て来ない。これは遺伝とか環境とか人間関係に影響されるものではない。井戸を掘るのは自分だ。時間をかけて、ずっと掘って行けば、きっといつか光が見える。それまでは耐えるしかない。

こうやって書くことで少し気持ちが整理できる。楽になったかと言うと、分からない。書いて、言葉にするという作業によって自分と向き合う。文章というものはどうしてもキザに映るが、それでもなるべく自分に正直になるように心がける。そうでないと、言葉は出て来ないから。本当に「何と言って良いか分からない」ような場合を除いて。書くことで少し前向きになれる気がする。

Sunday 26 April 2015

土曜日、吹奏楽部

25日のこと。続き。
美容院から帰ったあと、少し掃除と洗濯をした。先日、洗濯機が動かなくなったのでこれはそろそろ買い替えが必要かと思っていたらまたちゃんと動くようになった。助かった。

昼から神田へ出かけた。ライブハウスで吹奏楽部の演奏が聴けるという。
ジャズがメインのライブハウスで、高校生が、部活として演奏という、滅多に聞かない組み合わせにひきつけられた。

お昼は神田で食べようと思って、家では何も食べずに出かけた。
冷たいうどんが食べたい気分だった。
しかし、いざ着いてみると、その希望の実現は難しそうだということが分った。

というのは、蕎麦屋だらけなのだ。
チェーン店も含めて、視界に入ってくるのは蕎麦屋ばかり。
大人しく、つめたい蕎麦を食べることにした。
ごまだれせいろ蕎麦。
あまり期待していなかったのだが、これがとても美味しかった。

演奏自体は3:30スタートなのだが、リハーサルが公開されるというので1時半からずっと見た。

演奏しているのは10代の少年少女である。
プロの演奏を聴くよりもずっと心を打たれる。
表情が輝きを放っている。この子たちは可能性のかたまりなのだ。

高校時代、顧問のことが嫌いで吹奏楽部を退部した。
我慢して続けていれば良かったかなとも思うが、あのときの自分には無理だった。
そのことを後悔してはいない。

指導者の重要性というものをそれ以来、身をもって理解しているつもりだ。
可能性を伸ばすもつぶすも、指導者次第であるところは大きい。

この子たちの可能性をつぶしてはいけない、と心底思う。


いい音楽を聴いたら心が満たされた。
いい映画や、音楽や、本は、心の栄養である。

美味しい食事をすると身体が元気になるのと同じで、いい文化に触れると心が元気になる。
文化に触れることは、目には見えないけど、化粧品や洋服を買う以上に大きな影響をもたらす。



神田周辺はとにかく静かで、歩行者も車も少なかった。
風を感じられるくらい。
主に新宿、渋谷で動く私にとっては新鮮で、歩くのも気持ちが良かった。

帰ってから少し買い物をして、注文していた本を買って、ブレイキング・バッドを見た。

Saturday 25 April 2015

髪切った

日付が変わる前に何か書いておこう。

朝、あまりにも天気が良くて、外が美しかったので、髪を切りに行くことにした。
ここ数日、行こうかどうしようか思い切れずにいたのだった。
ほぼ開店と同時に店に入った。
切るといっても大した変化は見えないものだ。それでも、プロに髪を触ってもらい、洗ってもらうというだけでも行く価値はある。

いつも担当してくれる美容師さんがいる。ここ2,3年は彼女に担当してもらうようにしている。前髪の切り方が上手いのと、ちゃんと勉強して、努力している感じが好きだからだ。

頭のマッサージも、とてもうまい。
空いている時間帯に行ったので、アシスタントでなく彼女が、最初から最後まですべてを担当してくれた。
やたらとしゃべりかけたりもしないし、きちんと敬語を使うところもいい。
エル・ア・ターブルを読みながらぼけっと過ごした。
それからゆっくり自転車でその辺をまわった。
気持ちの良い土曜の午前中。

髪のスタイルや色に大きな変化があるわけでもないが、これだけ天気が良くて爽やかだと、なんだか良いことが起きそうな気さえしてくる。

Friday 24 April 2015

ポーチ不要


「春になったし、とにかく軽くなりたい。風に飛ばされるくらい軽くていい。」

さすがですね。
桜の花びらが舞う時期で、新生活の始まる時期。この短い一言にすべてが凝縮されている。
4月の間はずっとこの一言が頭のどこかにあった気がする。

「もの」をたくさん持つのはそもそも好きではない。
留学中、ヨーロッパを旅しているときに知った"Travel Light"という表現は、それ以来私のベースにある。
この言葉は旅だけではなく、生き方そのものに関係する。

少しの、しかも自分の気に入ったものだけを所持する。
それには過去への執着や未来への不安を捨てる勇気がいる。

人間関係も同じだと思っている。
「広く浅く」の時期もあっていい。
しばらくその時期を経たら、大事にしたいもの、本当に気に入るものがだんだんと見えてくる。
誰かとの縁が切れることにショックを受けていた時期もあったが、人の縁なんてそんなものだと思うようになってからは楽になった。
全員に気に入られる必要は無い。

ところで、どうしても「持っていても使わないもの」のなかに「ポーチ類」が含まれる。

私はメイク道具を持ち運んだりしないので化粧ポーチが必要ない。
職場で「お直し」なんかしない。
そもそもそれほど暇ではない。
というか、化粧自体にそれほどの道具を使わない。
マスカラと色つきリップと、BBクリームぐらいで十分だ。
旅行するときもそれくらいしかもって行かない。
ファンデーションなんて週に1回使えばいいほうである。

あと、ふでばこ、ペンケースも必要ない。
必要であればボールペン1本持ち歩く。
職場でもボールペン1本あればなんとかなるのでケースに入れておく必要は無い。
ペンケースというものを所持したのは高校生のときが最後だったと思う。
大学に入ってからは、シャーペンすら使わなくなったので、かばんにボールペンと蛍光ペンか何か入れておくだけだった。

財布も既に持っているから小銭入れも必要ない。

だから、たとえばこういう↑いいブランドのポーチなんかを手に入れたとしても、何を入れるかたぶん戸惑うだろうし、しばらくしたら捨てる気がする。
実際、ポーチ類というのはプレゼントなどでもらう機会も多い。
これっていつか使うかも、と思うのだが結局そのときは訪れない。

さっき、ファッション関係のウェブサイトで「5万円以下のポーチ特集」を見て呆れたのでちょっと書いてみた。

Thursday 23 April 2015

「メロス、走らなくていいよ」

天気が、なんとなく連休っぽくなってきた。
昨夜降っていた雨が嘘のようだ。

スペイン語講座で、命令文の否定形を練習するのに、例文が

「メロス、走らなくていいよ」

で、笑ってしまった。
それでも走らなかった場合に

「メロス、走れってば」
「メロス、走れよ」

で接続法を使うらしい。

ラジオ英会話が終わったあとでドイツ語→スペイン語→フランス語→イタリア語、と続くのだが、それぞれの言語の特徴というか国民性みたいなものが見えてきて結構面白い。そして、やっぱりラジオは良いと思う。

どれも、熱心に聴いているわけではないのだが、ただ流しておくだけで教養になるしほんの少しだけど情報が頭に残っていく。

さて、仕事に行ってきます。

Wednesday 22 April 2015

ぼちぼち行けよ

昨日の夕方、DVDを借りに行った。
店に入ってから、レンタルに必要なカードを忘れてきたことに気づいた。
あきらめて家へ戻り、ごく普通にごろごろだらだらして過ごした。
ブログを書き、ソファに横になってインターネットをカチカチやっている間に、だんだん眠くなってきた。
そういえば、その前の日の夜はあまりよく眠れなかったんだった。
夜中に起きてしまって、そのあと寝付けなくなったんだった。

ごはんも食べたことだし、もういっそのこと寝てしまえ、と思った。
9時半だったけど布団をかぶった。
ラジオを聴きながらi padを手に「村上さんのところ」を読み終え、電気を消した。

そのまま4時ごろまで眠った。
朝4時。
ぱちっと目が覚めたのだが、どうもこの時間帯に何かする気にはならない。
そのまままた横になったら、また眠りに落ちた。
6時半まで眠った。

これは身体が発するサインである。
「ぼちぼち行けよ」ということだ。

社会人になってから、どの時期までがむしゃらにやっていただろう?
と思い出してみると、あまりそういう時期は無かった気がする。
自分の担当する部分に関しては立派にやりたいと思っていたし、誰にも誇れるような技術が欲しいと思っていた。常にプライドがあった。
だけどそれ以外のことに関してはどうだろう。
集団の中でうまく振舞おうとか、自分がリーダーシップをとろうとかしたことはたぶん無い。

上司や、周りの人に媚びる集団を軽蔑していた。
そしてそれは今もそうで、変わっていない。
自分は自分だ。
人に好かれようと、必要以上に神経を使ったりしない。

「いっちょやってみっか」と思える時と場合があれば、いっちょやってみる。

仕事に私生活を侵食されるのはごめんである。
さて、ブレイキング・バッドを見ることにしよう。

Tuesday 21 April 2015

ビスケットにみる小確幸

入手した!!ついに入手した!


先日のブログにも書いた明治のリッチビスケット。
きょうはふと「そういえば西友にならあるかも」と思いついた。
見つけた瞬間に叫びそうになった。
棚にはなんと、抹茶だけではなくてイチゴとオレンジもあるではないか。
さらに、今まで190円ぐらいで買っていたのだが、なんと2つで280円だという。
こりゃ驚いた!
(さすが西友!)

どうせなら違う種類を、と思ってイチゴと抹茶を買うことにした。
気分上々である。

家に帰ってすぐに食べたりはしない。
明日の朝までとっておくことにする。

「小確幸」である。
しょうかっこう。
村上さんの言う、小さいけれど確実な幸せ。
まだ広辞苑には載っていない。

小確幸を感じられるというのは一つの能力であると思っている。
ビールがおいしい、とか、おふろが気持ちいいとか、そういう小さな幸せ。
もっと言うと、生きてるだけでめっけもんなのだ。

それにしても、「あきらめなければ夢は叶う」というのは案外、嘘ではないようだ。
粘り強く続けていればいつかは夢も実現する。
たとえば、ビスケットを見つけるという夢。

きょうは夕方に、とりわけ心身が疲れる仕事をした。
それもあってか2箱で280円のビスケットがとても幸せに感じられる。

八百屋でエリンギを買い、魚屋で生鮭を買って夕食にした。
大量の野菜(玉ねぎとにんじんとピーマンとエリンギ)をきざんで炒め、鮭を焼いて食べた。
あとは、めかぶと、とうふと、納豆も食べた。
こういうのを食べてないとだんだん心がすさんでくるのだ。
身体に良いものは心にも良い。

Monday 20 April 2015

DVD日和

変な天気だ。
朝思ったとおり、仕事に行ってみると色々と楽しいこともあり、恐れていたほどではなかった。それでもやっぱり気分は晴れなかった。天気のせいだ。一日中どんよりしていた。

4時過ぎに窓の外を見たらあまり雨が降っていないように見えた。
よし、この隙にと思って外に出たら、思ったよりも雨が降っていた。
やばいなと思ってカッパを出して着て、自転車をこいでいる間にどんどんひどくなってきた。
後ろのリュックに入った本や携帯がやばいと思ったが、もう走り出したら後には引けない。
一気に家めがけて走るのみだ。
前がよく見えないほど降ってきたのでスピードを落とした。
傘差し運転はしない。
田舎ならまだしも、東京で傘差し運転は命取りである。
drenchedという言葉が浮かんだ。
いや、soakedか?どう違うんだろう?
びしょぬれの度合いはどちらがひどいんだろう?

いずれにせよ、帰り道にびしょぬれになることに関してはあまり問題と感じない。
仕事に行くときだと困るが、帰るわけだから、家についてすぐに着替えてシャワーをあびれば問題ない。持ち物が濡れてしまうのだけが困る。

5時ごろ。
家についた。屋根のあるところにいられるという幸せ。
protectedである。
お茶でも飲みながら家にこもるにはこれ以上無い天気である。
DVD日和。

Breaking BadのSeason 2を見た。
Episode 8と9。

よく海外ドラマを見る同僚がいる。
確か3月だったと思うが、彼にBreaking Badをすすめてみた。
そしたら案の定はまってしまったらしい。
私がゆっくり少しずつ見ている間に、彼はいつの間にかSeason 5に到達してしまったらしい。
最近では職場で主人公ウォルターの真似をしてくれるので、もう、毎日笑ってばかりだ。

日本のドラマは滅多に見ない。
見ないくせにこんなこと言うのもなんだけど、完成度としては比にならない。
だから見る気にならない。
単に、英語を聞いているほうが気持ちが良いというのもあるが。

さて、昨日あまりよく眠れなかったのでそろそろ寝ます。

「月曜の朝」的要素

眠い…。曇りだし、気持ちもなんとなく暗い。
「月曜の朝」的な要素がどうも好きになれない。
学生の頃はこんなことは無かったのだろう。
仕事に行ってしまえば何てことは無いのだが、行くまでが大変だ。
自転車通勤なだけマシだと思わないといけない。
これで電車通勤だったらもっと気が滅入っていたに違いない。
色々とプラスの要素を見つけてみようとするけど、これと言って特に無い。
まあ、生きてることに感謝、かな。
そろそろ腰を上げなければ。
村上さんも毎日早起きしてるんだぞ。
村上さんも毎日身体を動かしてるんだぞ。

Sunday 19 April 2015

明治 リッチビスケット 抹茶

最近、それほど忙しかったわけでもないのにブログを書かなかった。
4月になって最初の週はとにかく長く感じた。延々続くような気がした。
第2週は打って変わって、あっという間に過ぎていった。
普段のペースが戻ったということだろう。


「明治 リッチビスケット 抹茶」について。

ニューヨークに行くときに、日本っぽいものをおみやげとして持って行こうと思った。
キットカット抹茶をはじめとする、抹茶フレーバーのお菓子をいくつか選んだ。
じゃがりこも買った。
高価なものよりこういう普通のもののほうが楽しい場合が多い。

そのなかには「明治 リッチビスケット」というものも入っていた。
今まで食べたことも無いのに買って行った。

着いてから、知人が「一緒に食べましょう」と言って最初に選んだのが、この明治リッチビスケットだった。
食べてみると…

これがびっくりするほど美味しかった。
ビスケットの間に挟まっているのが、まさに「リッチ」なチョコレートなのである。
しかもかなり抹茶が濃い。
キットカットどころではない。

この存在を知らずに今まで日本で生きていたとは…!

そこで帰国してから思い出したので買ってみた。
食べてしまってしばらくしてからもう一箱買った。

またしばらくして買おうと思ったら、お菓子のまちおかからは消えていた。
別の店で買った。

それからまたしばらくして行ったらその店からも消えていた。
そういえばこの前買ったときに、最後の一個だったなあ…

今のところ、入手できずにいる。
もういっそのことアマゾンで注文するしか無いか、と思っているのだが、こういうものでアマゾンを使うようになりたくはない。
うーん。

誰か、どこの店で手にはいるかご存知ありませんか。
いや、ほんとにおいしいんだって。
無くても生きていけるんだけどね…。

Tuesday 14 April 2015

雨ばかり

雨ばかりで嫌になる。これが別の季節だったらまだマシなのかもしれないけど、4月の一番過ごしやすい時期であるはずなのに雨、というのがまた残念極まりない。しぶしぶ職場までバスや電車を使って行っている。通常の2倍以上の時間がかかるため、朝家を出るのも早くなるし、帰りも遅くなる。早く晴れてくれないかなあ。今は雨が降っていないのだが、昨日職場に自転車を置いて帰ったので今日もまた早めに出てバスやら電車やらをつかまえなければいけない。

そして寒い。一体どういうことだ、というくらいに寒い。ダウンジャケットはもう必要がないと思っていたのに、またひっぱりだしてくることになってしまった。ブーツもまだまだ活躍中である。

話は変わって、ここ最近、朝はフレンチトーストを焼いている。朝にそんな余裕があるのか?あります。というかフレンチトーストはたいした手間ではない。単に卵を消費するためにと思っただけだが、作ってみるとやっぱり美味しい。朝ごはんという感じがする。明日まで続く。

最近あまりいいことがないうえに疲れやすい。唯一の楽しみは「村上さんのところ」を読むことである。毎日、村上春樹の新しい言葉に触れられるという幸せ。村上さんに支えられてばかりなので、彼がいなくなったらどうなるんだろう?と思うことがある。

さて、仕事いってきます。

Sunday 12 April 2015

井戸掘り

今日はようやく晴れた。先週は一週間寒かった。雨もよく降った。新年度最初の週だったのでとにかく疲れたし長く感じた。じんましんはだんだん治ってきたものの完治はしていない。なんとなく体調のすぐれない一週間で、日中にうとうと眠くなることがよくあった。少しずつ睡眠が足りなくなっていっているのは分っていた。8時間寝ないとだめだ。それでも自炊はするようにした。

自分の心にあるとてつもなく暗い部分が最近見えるようになった。そういうものがあることを意識するようになった。「黒い」部分というより、「暗い」部分だ。心の闇、と言うと隠れた悪い性質のように聞こえるが、ずーんと沈んだ、暗いところだ。たぶんこの世ではこれを「孤独」と呼ぶ。

心の闇を、孤独を、どうやって乗り越えるのか。5年、10年前には決して考えなかった。自分と向き合うこの時間に背を向けたくなる。少しでもいいから助けが欲しくなる。それは他者への依存なのだろうか。そんなとき、村上春樹の言葉を見つけた。

"There is one thing I can say for certain: the older a person gets, the lonelier he becomes. It's true for everyone. But maybe that isn't wrong... In a sense our lives are nothing more than a series of stages to help us get used to loneliness. That being the case, there's no reason to complain. And besides, who would we complain to, anyway?"

「人生というのは孤独に慣れていくためのステージの積み重ねである」
日本語が見つからないのだがもともとは日本語で発せられた言葉だと思うし、以前どこかで読んだことがある気がする。

困難は人生の一部である。じっと耐えるしかない。少し外の空気を吸いに出るとか、なんとかして自分で乗り越える。最終的には自分は自分以外になることはできない。心の闇に向き合うのは、たぶん村上春樹の小説でいう「井戸掘り」なのだと思っている。寂しいのは誰のせいでもないし、自分の人生は自分で選択をする。そしてすべてにおいて自分で責任を負う。

Monday 6 April 2015

じんましんに負ける

時差ぼけの症状たる症状は見られない。つまり日中に眠くて仕方なかったり、夜にどうしても眠れなかったりという症状。

経験上分るのは、西から東に飛ぶときのほうが大変だということ。アメリカにいる間は、午後になると猛烈な睡魔に襲われて大変だった。少し静かに座っていたりするものなら、持っているカメラを落としそうになったり電車を乗りすごしそうになったりした。

だから日本に帰ってからはそれほど問題は無い。比較的問題なく普通の生活が送れている気がする。ただ、睡眠時間が長かったり短かったりする。今日もやけに早く目が覚めてしまった。身体はもう少し休みたがっているのが分る。

それに困っているのは、ニューヨークにいるときからじんましんが出るようになってしまったことだ。初めての経験である。このかゆいのはなんだろうなあと思っていて、色々な可能性を探ってみたが、数日経ってようやく気づいた。これがじんましんというやつではないか、と。

そこでインターネットでいろいろ調べてみたらちょうど症状が該当することが分った。食べ物によるものではないようなので、アレルギー性では無いと思う。とするとストレスや環境の変化によるものだ。3月25日に仕事を終えて、荷造りをして、3月26日に知らない街に行った。その程度の変化についていけなかったことは今まで無かったのだが。私はこんなに弱かったのか?

色々な要因がストレスとして考えられる。年齢もあるかもしれない。いずれにせよ、ゆっくり無理せず過ごせという身体のサインなのだと理解することにした。

日本に帰ってきてからは症状が軽くなった。だけど完全に治ってはいない。少し汗をかいたりするとあっという間に腕が赤くなってくる。

肌に問題を抱えている人の気持ちが分った気がする。というか今まであまり分かっていなかったなと思った。自分の肌に快適でいられないということは、何をする気にもならない。スポーツも勉強も。知人、友人に会う気もなくなる。イライラがつのる。

今週から新年度が始まる。張り切らなければいけない時期だが、あえてぼちぼち行こうと思う。

Thursday 2 April 2015

日本に帰った

日本時間午後3時頃に日本に着いた。ふう。落ち着く。おだやかな気持ちになる。何だろう、ほかの海外から帰って来たときよりも少し嬉しい気がする。

なぜなのか考えてみた。たぶん、人の優しさがあるのかもしれない。東京で接客をしている人たちをみると過剰すぎてうんざりする。

しかしアメリカはアメリカで、あまりにも冷たくて悲しかった。口調も怖いし。ただの空港の職員でさえ脇から拳銃でも出てくるのではないかと思うような強い命令口調で話す。一体、人生において楽しいことがあるのだろうか?と思うようなうんざりした顔で仕事をしている。ヨーロッパでもそういう人はいるけど、せめてもう少し優しい。

そんな人たちを見ながら1週間を過ごしたあと、ANAの機内に搭乗し、成田に着くと感動すら覚える。バスのチケットカウンターのお姉さん、空港係員、バス乗り場のお兄ちゃんたち、皆がとにかく快活なのだ。

日本人は本当にまじめで働き者である。分かってはいたけど、しばらく離れて、あらためて感じた。ただそれが極度にまじめなものだから、仕事のレベルが半端ないところまで延長されてしまったり、限度を知らずに根詰めた結果、精神的に参ってしまったりすることがあるわけだ。どーんと大きな休暇を取ったり、適当に手を抜くところはやはり海外から学ばなければいけない。

時間はさかのぼって。
マンハッタンからJFKまではタクシーを使った。帰りの便は13時間を超えるフライトである。体力をとっておかなければいけない。荷物を持ってウロウロしたくないので余計な労力を使わないようにしようと思った。

機内は満席だった。今回はANAで往復した。エコノミーだが、それほど不自由が無かった。ルフトハンザに比べると席が広い気がする。そしてフットレストがある。さらに、今回は余った席しかなかったので両側に挟まれている形だったのだが、真ん中の2人の間には少し間隔があり、ひじかけがそれぞれについていた。今までそんな席に座ることが無かったので気にしていなかっただけかもしれないが、これはだいぶ助かった。

機内で見た映画:
ナイト・ミュージアム3
Laggies
Love, Rosie

ナイト・ミュージアムはちょうどおととい自然史博物館に行ったばかりだったのでより面白かった。本当は映画を見てから博物館に行くべきだったのだろうけど。

さて、眠くなってきたのでそろそろ寝ます。まだ9時だけど、あと12時間後には新年度の会議なので。

Wednesday 1 April 2015

ニューヨーク6日目: Metropolitan Museum of Art part 2

昨日は朝から晴れた。大したことはしていないようだがあっという間に自由行動のできる最終日になってしまった。

10時過ぎにメトロポリタン美術館に入場。この前も行ったのにどうして行くのかというと、全然まわりきれなかったから。今度はやっぱり朝から行こうと思った。

列にも並ばずに入館できて、見たいものを静かに鑑賞することができた。これは正解だったと思った。前回行くことのできなかったセクションを中心に回る。同じ場所でも2回目だと前回通ったはずなのに見てなかったものが目に入って来る。やっぱり1回では足りない。

で、カタカナ表示の「メトロポリタン」からふとあることを思い出した。頭の中に流れる音楽…「メトロポリタン・ミュージアム♪」

あれだ、「みんなのうた」だ。
「エジプトでは ファラオねむる」てやつ。館内にいる間に気づいたので、ipadを取り出して、どういう歌だったかもう一度その動画を見て、確認した。ミイラと踊ったり、彫刻が動いたり、怖いイメージがあった。私の世代で、日本で幼少期を過ごして、あの曲を知らない人はたぶんいない。

最後に「大好きな絵の中に閉じ込められた」とあったので、あれは一体どの絵だったのか、調べてみた。すると、出て来た。ドガの踊り子である。

実物はどこにあるのだろうと思って探し出した。その絵は、ほかのドガの作品よりもだいぶ小さかった。ここにはドガの作品がかなりたくさん所蔵されている。前回、どうやらこの部屋まるごと見逃していたようだ。

それにしても30年前の「みんなのうた」でこの場所の、この絵が扱われていたとは。当時のみんなのうたはいろいろと意味深な歌が多かった気がする。この歌を口ずさんでいた頃は、この美術館がどこにあるのか、どんな場所なのかさえ知らなかったわけだが、怖いながらも楽しげなメロディーで、なんとなーく素敵なイメージがあった。

30年を経て、その場所に身を置いて、「だいすきな絵」の前に立っているわけだ。ふしぎな縁である。途中で思い出してよかった、と思った。

2回目なのにかなり長時間を費やした。昼もカフェテリアで食べたので午後3時すぎまでここにいた。

結局一番気に入ったのはどこかというと、中世ヨーロッパの展示である。特に有名な作品があるというわけでもないのだが、居心地の良い空間だった。なかでもタペストリーが面白い。ローマでも似たようなものはみたことがあったがこっちのほうが、描かれている人物がより中世っぽかった。表情はあまり無いが動きがコミカルだ。
捕われたユニコーンを描いたものをミュージアム・ショップなどで何度も目にしたので、こんなのあったっけと思ってもう一度係の人に尋ねてみたら、クロイスターズ美術館まで行かないとだめだと言われた。ここには無い、と。しかもメトロポリタンの入場券があればクロイスターズも無料で入場できるらしい。しかしそれを知ったのは昨日で、時既に遅し。仕方ない。ユニコーンの絵の存在を知ったのがおとといで、しかもクロイスターズは遠い。次回にまわそう。これでニューヨークを訪れる理由がまたひとつできた。

「○○があるから」と、有名な絵画を見ることを目的としてその美術館に行くこともある。たとえばルーブルならモナリザ、とか。たぶん10年前だったらそんな感じ。しかし見ている間に面白い絵、気に入った絵にばったり出会うことがある。本で見るだけではなく実際に美術館を訪れる意味はそういうところにあるのかもしれない。

さてそろそろ空港に向かいます。

いっさいはんは最強

 1歳半。 めいは1歳半である。26日から帰省していて、弟の一家と一緒に過ごしている。姪が2人。ひとつ屋根のしたに8人がいる状態。たいへん賑やかでいつもどこかから泣き声やわめき声が聞こえている。こどもの声は高くていい。なかでも1歳半の姪は、もうどこを切り取っても、おもしろくて、た...