Monday, 24 June 2019

育てるのと育てられたのと

子供と意思疎通ができるようになってようやく「子育て」という感じがしてきた。イヤイヤ期までは「育てている」というよりも「制御する」というべきか、その場にいてとりあえず安全を保証し生命をつなげるのが精一杯だった。大げさかもしれないけど本当にそんな感じ。家のなかは誰もがギリギリの状態だったのでは、と今振り返ると思う。「つらいけどかわいい」じゃなくて「かわいいけどつらい」だった。本当に辛かった。それが今となってはそこに「やりとり」が存在するようになった。先日読んだ本のせいもあるかもしれないけど「そうだ、こうやって心を育てるんだなあ」とか思う。自分に余裕がでてきたのだろう。土日が怖くなくなってきたので「日曜日は何をしようか」などと話をするのが楽しい。新しい経験をさせてあげられるのが嬉しい。

こうしていると嫌でも自分がどう育てられたかを考えるようになる。親から課されたよくわからないルールの数々、親からたたかれたこと、しかられたこと、皮肉を言われたこと、きょうだいと比べられたことなどを嫌でも思い出す。ほかに客観的な視点を持たない子供時代なので、親の指導が正しいという結論のもとにものごとは動いて行ったし、我が家こそが「正解」の形であるのだと思い込んでいた。誰だってそうだろう。こどもにとってはその家庭が、世界である。早く自立したい、外に出たいとずっと思っていたし、その通りに18歳で家を出た。

親はきっといっぱいいっぱいだったのだろうと今、自分が人の親になって思う。誰だってそんなにいつもニコニコはしていられない。ただ「私が親にこう育てられたから」と言ってそれを無理に意識することは無いと思っている。こうされたからこうしないようにしよう、とかその逆とか特に意識しない。というのも私と親は別の人間だから。生きた時代も違うし育った環境も違う。それはそれ、なのである。

無理がきかない歳

 今週月曜の夜に、職場の外で、大事な会議があった。6時から8時まで。この時間というのは、普通は家にいる。こどもとの宿題が終わって、お風呂に入って、ごはんを食べて、歯を磨いて、寝る準備をする、というのが毎日の流れ。会議に参加するということは、ルーティーンを壊すことになるので、たいへ...