アマゾンで買うのはあまり粋じゃないかもなんて書いたけど結局買ってしまった。与三郎の手ぬぐい。ただデザインが良いからというわけではなくこの演目を実際に見たというところに意味があると思っている。美術館などで絵はがきを買うときにも同じことを考える。実際に見て、心を揺さぶられたような場合には、その絵はがきをミュージアム・ショップなどで購入することがある。今回も、やはり与三郎の話をとても面白いと思って見たからこそこの手ぬぐいを(わざわざアマゾンを通してまで)買おうと思った。
それにしても紺と白の二色っていうのが粋だ。「紺」である。「ネイビー」じゃなくて。格好良すぎて、窓枠にかけて眺めては満足している。なんという幸せ。大した買い物では無いのにこんなに満たされる。
ところで、手ぬぐいの裾はどうして切りっぱなしになっているのか、という点についてずっと気になっていた。つまり、裾が縫われていない。使っていると糸がほつれてくる。はじめ、それが気になって使うのを避けていた。洗濯もしにくいような気がした。
だけど少し調べてみたら、気にせずに使っていればほつれなくなってくる、とあった。さらに、切りっぱなしのほうが汚れがたまることもないし、清潔だということだ。なるほど、そう言われればそうである。確かに、手ぬぐいの裾が縫ってあったら「野暮」だ。
「野暮」という言葉は先日の歌舞伎で学んだ。お金を欲しがる蝙蝠安が、もらった額が少なくて受け取らないという場面があった。5万円あげられるのに2000円しかあげない、そしてそれを受け取るのを「野暮」だと言っていた。格好悪い、みたいな感じだろうか。「粋」の反対だと思えば分かりやすい。
となると、たいていのことは「粋」か「野暮」で片付いちゃうなあ。
洗濯したての手ぬぐいが、7月の太陽の下で風にひらひら翻る様子は、たいそう美しく、粋である。江戸の人々もこんな感じで洗濯物を干していたのだろうか。