Monday 3 December 2018

耐えるしかないのは分かっているが

やっぱり限界がくる。週末には限界がくるのだ。

と、きのう思った。こどもと1日じゅう一緒に過ごすのが本当に大変である。以前より言うことが通じるようになったとはいうものの、そんなに素直に言うことをきいてくれるわけもなく。

オムツを替えよう→いや
着替えよう→いや
手を洗おう→いや
スプーンを使って食べよう→いや
トイレにいこう→いや
お尻洗うよ→いや
おもちゃ片付けてください→いや
おふろ入るよ→いや
おふろあがるよ→いや


…だんだんイライラしてくる。
正常な自我の芽生えと意志の強さだということは十分わかっている。そして立派に成長している証拠でもあるのもわかっている。だけどやっぱりイライラしてくる。耐えるしかないのもわかっているが、やっぱりイライラする。こっちも人間なので。

そして文字通り朝から晩まで「きゅうきゅうしゃ」「しょうぼうしゃ」「パトカー」の繰り返しで、聞いているうちにノイローゼ気味とまではいかないがだんだん頭がおかしくなってくる感じがした。1日で同じ単語をこんなに何度も聞くことは日常生活であまりない。図書館から借りた消防車と救急車の本はきのうだけでもう50回くらい開かされた。「もういいよ、もうごはんたべようよ/おふろ入ろうよ」をこちらも繰り返す。しかしどこまでも追っかけてきて「ほん」と言って渡してくる。

自由時間は当然あるわけもない。ネットをゆっくり見られる時間、お茶が飲める時間は朝の5時から6時まで。昨日について言えば食事がまともにとられなかった。朝はそもそもあまり食べないのだが、昼ごはんは食べさせている間に自分が食べるものも時間もなくなった。そして夜には疲れ切ってしまって食べるより寝たいと思った。夕方に少し外を歩かせてもらいそこで買ったセブンイレブンのいくらと鮭のおにぎりを歩きながら食べたのがよかった。

辛抱するしかないのだ。こういう時期が永遠に続くわけでもないし。

それにしても疲れ切ってしまい、世話をしている二人とも夕方には無気力かつ無言になってしまった。二人がかりでもこんなに疲れる。

週末はつらい。やっぱりつらい。つらさの種類は変わったかもしれないけど辛いことには変わりない。土曜の午前は仕事だったのだがそれが「幸い」と思えるくらいである。毎週金曜に憂鬱を感じるのはやはりまだ変わらない。そして土曜の夜に「はあ、まだあと1日あるのか」と思うのも同じ。そして日曜に「早く月曜になれ」と思うのも、同じ。仕事のほうが何百倍も楽である。

だから、保育園に行かずに家で2歳児とすごす人々ってどんだけすごいのだろう、と思う。これほんとに。発狂しそうになるよね。慣れるものなのだろうか。2、3人分は手がないとやっていけないはず。正直言ってひとりの人間の精神と肉体で抱えられるものではない。

「子育てってそんなもんだから」とか
「みんなそうやってるのよ」とか
「あなたもそうやって大きくなったのよ」とか
「もっと大変な人も周りにいるから」とか
「こどものかわいさで大変さも吹き飛ぶ」とか
極め付けは「すぐに忘れるから」とか

そういう言葉ははっきり言って要らない。この大変さをリアルタイムで実感している人にとってどんな言葉も励ましにはならないと思う。以前、職場の健康診断で「子育てで疲れている」と言ったら「嬉しい叫びですね」と医者から言われて「はぁ?」と怒る寸前になったことがあった。嬉しくもなんともない。辛いものは辛い。

実際に、「手が欲しい」のだ。言葉はいいから、リアルに手伝って欲しいのだ。週末の1、2時間でいいからひとりの自由時間を与えてくれるとか、食器洗ってくれるとか、お風呂の後子供の髪乾かしてくれるとか、そういう、具体的な助けが欲しい。

…と書いていたときにこども起きてきました。はい、きょうの私の自由時間は終了。

いっさいはんは最強

 1歳半。 めいは1歳半である。26日から帰省していて、弟の一家と一緒に過ごしている。姪が2人。ひとつ屋根のしたに8人がいる状態。たいへん賑やかでいつもどこかから泣き声やわめき声が聞こえている。こどもの声は高くていい。なかでも1歳半の姪は、もうどこを切り取っても、おもしろくて、た...