Tuesday 8 October 2019

親になって思う親と子について

ある同僚の話。娘が25歳になるらしい。もっと小さいかと思っていたのでびっくりした。そうか、もう25なんですか〜と話していた。同僚曰く、今になって「親と一緒にあまり過ごさなかった」とか「遊んでもらった記憶がない」とか言い出す、とのこと。たとえば10代の頃はそんなこと言わなかったのに、と。「そういうのてずっと記憶に残るらしいね。だから聞くたびに、あーそうか、そうだったな、って昔を悔いる気持ちもちょっとある」

そうかもしれないな、と思った。数日前に聞いたその話が私も結構印象に残っていて、よく考える。自分の親が自分をどう育てたかについて考えるのはもちろん自分が親になったからだろうけど、家を離れてしばらくした20代のころ、年子の妹と「あの時のあれはひどかったよね」「うちって実は色々変なのかもね」と話し始めた記憶がある。それぞれに忘れられないひどい思い出と光景が残っていて、話し始めると涙が出そうになるくらい、小さい子どもにとてそれは辛かった。あと、よく皮肉を言われていやな気持ちがしていた。怒られるときも「いやそれはそういうつもりじゃなくて」と言いたい場面が山のようにあった。だけど親だったからそれはもう絶対の存在で、逆らう術も弁解の余地もなかった。高校時代、何が嫌だったかって、親のお金で生きているという事実。自由がない代わりに、親にお金を出してもらっている状態をどうにかして脱したかったので早く自分で稼げるようになりたかった。

とまあ、いま思い出すとそれはそれは色々なことがある。親が望んだ通りにはならなかっただろうけど、私は、親からは切り離された、独立した人間になった。そして、また別の人間を養育する立場にある。未熟なのだ、親は。親とは言え、何をどうしたら良いかわからないことだらけである。全能でもなんでもない。この、不安定で情けない存在。

ひとつ確実に言えるのは、親も子も人であり、人として同じだけの権利と自由を持っていること。表現の自由も、ものを言う権利も、健康で安全に暮らす権利も。ただ今のところ3歳のわが子にとっては親が世界の大きな部分を占めていて、私の影響の大きさたるや、驚くべきレベル。最近は「まんまだいすきー。ぎゅー」と言いながら抱きしめてくれる。私が「この時間は貴重だな」と思っているより、子にとってもずっともっと貴重なのだろう。

緑地の民家園

子の友人一家に誘われて、川崎にある生田緑地に行ってきた。ずーっと前にプラネタリウムに行ったことがあったので、もしかしてあの場所かなと想像できた。日本民家園というのがあってこれが面白かった。その、かつてプラネタリウムに行った時に入り口だけは見たことがあったけど実際はそのずっと奥まで...