イタリアについて。
何を今更、と思うだろうけど最近やはり私の持つ性質のなかの一つになっているのだなと客観的に見ることがあったので。私はイタリア人になりたいわけでもないしイタリア人を無条件に礼賛しているわけでもない。最悪だなこの人たちと思うこともあるしそもそもイタリアに住みたいかと言われるとすぐに肯定の返事は出てこない。それでもイタリアとイタリア人から少なくとも10年、いやもっと長い間、大きな影響を受け続けていてそれが自分という人間の一部を成している感があるようになってきた。
一般的に「海外では…」という文脈でものごとを語ることがよくあるが私は「イタリアでは…」という始め方だったら話せることが多い。それ以外についてはよく知らないし知っているうちに入らないがイタリアについては、住んでもいないのになんだかんだでよく知っていることが多い。いやもちろん浅いけど。
そして各国の「常識」についてイタリア以外の出身の人と話していると、そうかそれぞれの国で違うんだなと思う。同時にイタリア人がいかに美感覚と独創性に秀でていて洗練されたスタイルの持ち主でありチャーミングな存在であるかを一歩引いて感じることができる。
イタリア=海外ではない。イタリアの常識を「海外では」の文脈で自分がとらえ、自分のなかの二つ目の常識にしかけていたことに気づく。私が知っているイタリアという国は、別の場所から見てもやっぱりこれだけ魅力があるのか、と思う。つまり;
「私 - イタリア」の構図ではなく
「私 - 別のどこかの国 - イタリア」の三者の中で見たときに、一歩引いて客観的に見られる、ということ。
だから、たとえば「思っていることは溜めずに外に出して表現する」ことはイタリアのやり方なわけだが、それはわかっていても私のなかで「日本じゃないところのやり方」つまり選択可能な二者のうちのもう片方のやり方として認識している。ただし「思っていることはすべて表現する」文化がたとえばヨーロッパ全土について言えるのかというとそうとも限らなということに、三つ目の国を通すと気づく。
そして「選択可能な二者」のうちのひとつになってしまっているのだ、イタリアが。やり方考え方はいろいろあるけど自分のなかでイタリアだったらこう、という二つ目の基準、常識がいつの間にか出来上がっている。イタリアに初めて行った21歳当時は憧れでしかなかったかもしれないしもしかしたら「選択可能な二者」というよりは日本を否定する立場にあったかもしれない。それが最近、並列・共存している感じがある。どちらが良いとか悪い、というわけではない。上がったり下がったりしながら日伊が共存してきた。
話変わって、言いたいことをすべて口に出してしまう文化ってすごく良いです。日本の対極にあるけど。日本がそうなるのはかなり難しい。論理的にものごとを話すのがとても苦手な民族だと思うし「意見を言う」ことがいとも簡単にケンカとつながってしまう。下手すると意見の否定は人格否定みたいになっちゃったりして。そういう意味では損な集団。
Wednesday, 26 December 2018
無理がきかない歳
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