きのうもまた、子は迷いもせずプールに行った。
私が5時半ごろ帰宅すると、同じマンションの隣の部屋に、いつものようにいるということだったのでピンポンをならしてみた。「遊んでいたら落ちて割れてしまい冷蔵庫に入らないのでもらってください」という巨大なスイカ半分を持って奥さんが出てきた。なんと。お礼を言って、「あしたから学校でもプールですね〜」なんて言いながら別れた。
宿題は半分終わったらしい。「マンマ〜ぼくnuoto(イタリア語で水泳)に行こうと思うんだ〜」。行っていいと思うよ、残りの宿題終わらせよう、と言ってさんすうのプリントなど終わらせた。いつの間にか時計の読み方がましになってきた。永遠に無理なのではないかとこの1年くらい思っていたのだが、なんとなくわかるようになってきたらしい。
私はきょうは留守番することにして、相方に行ってもらった。ママも来てよと言われたが1日ずつ交代にしよう、ということで落ち着いた。実際、私が行ったのは土、月、水だ。
見送ったあときのうのことを思い出した。こどもがいかに親に気に入ってもらおうと必死かを考えた。プールのなかで「ぼく、きょうは何も怒られてないよ」と言う。「そして宿題終わってるしこのあと怒られることもないよ」と。この子が怒られない日はほぼないのだなとあらためて気づく。
帰り道、突然
子「ママ、ぼくがもしうまれてなかったら、どう思う」
私「うーん それは寂しくて仕方ないだろうね。なにやったらいいかわからなくなると思う」
そのあとどういう会話が続いたか、思い出そうとしても思い出せない。ちょっと面食らったのだと思う。たぶん、私にとって自分がいかに大事かを確認したかったのではないか。似たような質問を、私も自分の親にしたことがあったなあと思い出した。「あなたがなによりも大事だよ」という答えが返ってきたのが嬉しくて嬉しくて、とびはねた。ちょうど小一くらいだったと思う。
私がニコニコしていることが嬉しくて仕方ない、そんなこどもの様子をみると、やはり普段の言動について反省せざるを得ないことがたくさんある。怒るのは仕方ないとしてもネチネチと、こちらの立場を利用したような嫌味な怒り方をすることがある。そして「それは言ってはいけない」という一言が出てしまうことがある。例えば、「なんでできないの」とか。言いながら、私は何を言ってるんだろう、と思うことがある。わかってはいるのに嫌な態度をとることがある。こんなに必死な6歳の、かけがえのない気持ちを、私はつぶしているんではないか。
「子育てはニコニコしてせんば」という父親のことばが時々よぎる。何年も前に言われたけど、その言葉を思い出すと必ず父の母、つまりおばあちゃんを同時に思い出す。どんな想いで5人のこどもを育てたのか。時々、おばあちゃんの写真を見て自分を立たせようとする。ニコニコできないような状況のときに彼女をささえたのは何だったたのか。こどもが生まれてからのこの6年(もうすぐ7年)、一番話してみたい人はおばあちゃんその人なのだ。