ドラえもんの映画を見に行った。
金曜の夜、ふと「連れて行くか」と思い立った。しかも自分が。普段だったらこんなことはしない。そもそも電車に乗ってどこかに出かけること自体が億劫だし、お金もかかる。最近は映画も高い。そこで自分が連れて行くとなるとやりたいこともできなくなるしスケジュールが狂う。
なのに、「連れて行くか」と思ったのだ。
実家にいる間、Mちゃん(弟の妻)の子育て(というか甥っ子であるうちの子をひっくるめた子ども全般の扱い方)っぷりを見ながら感心させられることが多かった。たったの数日で、我が子はMちゃんのおかげで8年間で一度もやったことのない経験をたくさんして成長の機会を与えられた。なんでもやらせてみないとダメだなと思った。我が子をみて臆病者だなあと思っているけど臆病者にさせているのはほかでもない親なのかもしれない、と思った。
だからといって、映画に連れて行く程度でそんな大袈裟なと思うかもしれないけど、連れていこうという気持ちになれたのは紛れもなくMちゃんのおかげなのだった。
あまり迷うことなく、近郊の映画館を探して席を予約した。
土曜朝、早くに合気道に行くので7時半ごろにはすでにフリーである。合気道は2週間ぶりで、だいぶ疲れた。2週間空いただけでこんなに疲れる。でも気持ちよかった。
映画館へは9時ごろに出かけた。
劇場は子どもたちでいっぱいだった。小学生以下から中学生までいる。こんなにこどもに囲まれて映画を見るのは初めてだった。
見たのは『のび太の絵世界物語』。これが期待以上に面白かった。大人だってじゅうぶん楽しめる。最初は「とくにドラえもんに興味はないんだけどな〜、これに1900円も払うのか〜」と思っていたが、とんでもない。十分以上の価値があった。後半あたりはもはや誰が何をしても泣けるようになってしまって、のび太の下手な絵やしずかちゃんが飛んできたシーンだけで涙が出てきた。そうかこどもたちはこんなにいい作品を楽しんでいたのか。
久しぶりに全編とおして見てみて、ドラえもんの道具が出てくるときのワクワクする感じ、想像力が掻き立てられる感じが、小さい頃見たときの気持ちを思い出させた。この先に、常に希望がある、なんとかなる、という気持ちにさせる。
いつだったかドラえもんは刷新されて、自分が幼少期に見たドラえもんからはだいぶ変わっている、ということは知っていた。声優も違うしドラえもんのしゃべり方も性格もちょっと違う。圧倒的しっかり者のドラえもんとおっちょこちょいのび太だったはずが、ドラえもんもすこしおっちょこちょい度が増している。だんだんとこっちに慣れてきているのも事実。
そして気づくのはしずかちゃんの変化だ。それは自分がこの年になって女性の権利などが気になりアニメでの女性の絵が描かれ方などが以前より目に留まるようになったせいなのかもしれないけど、以前より勇敢になったような気がする。果たして30年以上前のしずかちゃんはこんな感じだっただろうか。今回はほうきにまたがり空を飛び、大活躍で、ドラえもんとはまた別枠の確固たるヒーロー像を構築していた。本当にかっこよかった。危機の寸前でみなを救う。
さて我が子は、2時間近くの間、席に座って集中して映画を見ていた。終わってから、言葉にならないようだったけど興奮していて、「おもしろかったねー」と言ったら「うん」と言った。感じるものがたくさんあったようだった。来年の春も見にいこう、と約束した。
それにしても子どもたちに囲まれて見る映画はいい。笑い声がある。同じところでみんなが笑うのだが、大人が面白いと思うタイミングとちょっと違う。これがまた新鮮。ジャイアンの行動が面白くても、そっちで笑うのか、というときに笑う。ふきだすのではなくアハハと笑う。まあ5歳の子供が笑いを抑えるわけはない。海外の映画館では、笑い声があったり同情の声があがったりするのが珍しくないけど、日本の映画館では静寂だ。だから昨日のように子どもたちとみる、映画館はにぎやかでいいなと思った。
ところで映画の中に出てくる「アートリア公国」、調べてみたらイタリアがモデルらしい。中世ヨーロッパの衣装や建造物を振り返ってみたくなった。