Saturday 3 October 2020

ばばばあちゃんで思い出した草にまつわる思い出

 歳を経るごとに、あるいは子育ての最中であるせいか、両親が自分をどう育ててきたかについてよく考えるようになった。特に嫌なことを思い出すことが多い。まあそういうもんだと思う。娘が25歳だという同僚が「今になって、『私を育ててくれたのはおばあちゃん』とか言うんだよね〜。いやまいったよね〜」と言っていた。

昨夜、こどもに「ばばばあちゃん」シリーズの「よもぎだんご」を読み聞かせていた。子どもたちがいろいろな草を採る場面で、ふと小学校一年のときに宿題をしていなくて母親にとてもひどく怒られたことを思い出した。宿題というのも、確か、オオバコという植物をとってくる、という内容だったと思う。なぜその宿題をやっていなかったのか、思い出せない。悪意はもちろんなかった。面倒だからさぼろうとか、そういうことはない。なんてったって小学1年生だ。30年前の記憶だが、悪意はなかったということだけはわかる。号泣しながら家の近くの、オオバコの生えているところに、摘みに行った。場所までしっかり覚えているし光景が今も頭に残っている。涙で景色がにじんでいた。

今考えてみると、先生が軽く出した宿題が我が家ではおおごとになってしまったのだなあ。親から受けた指導のなかで「嫌な記憶」として残っているので、その記憶が思い出されそうになった瞬間に頭のなかで考えを必死に追いやろうとしたのだが、無理だった。なぜ嫌な記憶なのか。なぜ宿題をしなかったかとか宿題の意義を考えるのではなく、一方的に怒鳴られ続けたせいだと思う。人を叩くのが悪いこと、とかいうのはわかる。それとはちょっと違う。当時の私には、宿題をやらないということが悪いことだとさえわかっていなかったのかもしれない。ぼけっとした、ありがちな小学校一年生の春。反論さえできない、7歳の、その怒られたことに対する理不尽さみたいなものがいまだに刻み込まれている。

子どもに読み聞かせながらも頭ではそういうことを考えていた。機械的にひらがなをなぞって声に出しているだけでも読み聞かせることはできるので読み聞かせ中はこういうことが時々おきる。

子どもっていうのはそういうことがあるのかもしれない。今振り返って思う。悪いことを叱られるとき、心の中では「ちょっと待ってよ」みたいな感じなのかもしれない。子どもの気持ちに歩み寄る、寄り添う、と言っても大人になって忘れてしまった感覚を取り戻すのはなかなか厳しい。

ばばばあちゃんの世界に出てくる「のびる」とか「よもぎ」とかの、たくさんの草の名前を読みながら、今住んでいる環境にはそれらに出会うのは極めて珍しいことを悲しく思った。私の子供のころは植物と一緒に暮らしているようなものだったので大人になった今も草の特徴がわかる。私の子はそれらを肌で感じることなく育つのだろうか。早く田舎に連れて行って遊ばせてあげなければ、と思うが今年は3月以来一度も帰省できていない。3〜4歳のこの時期に田舎の秋を感じずにこの子は過ごす。だんだんとそれが当たり前になっていくのだろう。

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合気道で首を痛めて1週間。痛みに加えて吐き気とめまいのようなものが2日くらいは続いた。日を追うごとに痛みが消えてきた。 合気道はやめておきなさい、と言われるとやりたくなるというのが世の常(?)。不思議なもので、普段は「きょうはまあいかなくてもいいかな」とか誰も聞かない言い訳をつら...