昨夜。保育園からもらってきたさつまいもを揚げることにした。年長さんたちが掘ったらしい。毎年こうやって各家庭にもおすそ分けされる。ありがたい。
5時ごろ、さつまいもを切って下準備。
子はいつものように、息を吐くように下品なことばを発しながら、くるくるまわる椅子の上におなかをのせてくるくる回っている。「すべてはち◯こ〜」というわけのわからない歌を歌っている。「おふろにはいろうか」というと「やーだよ」という。いつものことなのだがこれにはがっかりさせられる。
そしてついに発された言葉がこれだ。
「ばばあ」
!!!
カチンときた私が「ちょっといまなんて言った」とまじめな目で、怒って言ったところ、子はびっくりした様子で私をじーっと見つめた。その目をみて私も戸惑ってしまった。いつものようにいたずらっこの顔をするかと思っていたのに。
子にとっては「ばばあ」は「う○こ」「ち○こ」と同じような下品な言葉のひとつであり、全く悪気がなかった。つまり「ばばあ」は私に向けられたことばではなかったのだ。ほかのことばに対する私のリアクションは「ちょっとそれやめてよー」程度なのに、「ばばあ」に対してだけ激怒されるというのはよくわからないはずだ。それなのに急にしかられることになって、なぜこの言葉がこれほどこの人にひっかかったのだろう、という目で私を見つめたのだった。
ということが、説明をきいてよくわかった。
なるほどなあ。
平和におふろに入って、ぬか漬けをかじりながら芋を挙げた。揚げ物がそれほど面倒に感じられなくなった最近。
国連で歌うBTSをみながら:
子「このひとかっこいいねえ」
私「ねえ、かっこいいよねえ」
子「なんでかっこいいんだろうねえ」
私「うーん、いい質問だなあ。なんでだろうねえ。せかいじゅうみんなおもってるんだけど。」
子「マンマはBTSかっこいいとおもう?」
私「おもうよ。○○もおもうでしょ?」
子「うん」
私「かっこいいねえ」
子「うん」
そして今朝6時ごろ。ニューヨークタイムズのメールマガジンのなかに「パキスタンで地震」と書いてあるのをみて「ああそういえばこの前寝てるときに地震があったような。2日くらい前だったかな」と思った。
そのあとふと開いたヤフーニュースで「首都圏で地震」という見出しをみて、地震は昨夜だった、ということがわかった。寝ている時間帯だったのでもはや夢の中のようになっていて、数日前のような気がしていたのだった。
見ると、帰宅困難者がたくさんいたらしい。10時ごろ、外にこんなにたくさん人がいるのかと写真を見て驚いた。10時だよ?家帰ろうよ?
首都圏は弱い、とつくづく思った。少しの打撃でポキッと折れる感じがする。
ちょうどきのうの昼間、同僚に「そういえばずっと電車に乗ってない」という話をしていたところだった。おそらく最後に乗ったのは、8月に東京に戻ってきたときだと思う。それからあと、一度も乗っていない。
「帰宅できずにタクシーを待つ人たち」の写真を見ながら、この人たちはつまり歩いて帰れる距離に家はないだろうし、自転車があるわけでもないんだろうなあと当たり前のことを想像した。
職場まで片道5km、毎日自転車通勤を10年続けている私。雨の日でも自転車に乗る。もし自転車がないなら歩いたほうがましだとさえ思う。朝晩の電車通勤・通学ほど人のエネルギーを奪うものはない。電車通勤は5年間経験したことがあるけどもう2度とあの日々には戻りたくない。あの5年でどれだけの時間とエネルギーを失っただろう。職場近くに住むより郊外に住んだほうが家賃は低いだろうが、私は時間をお金で買えるなら買うし、その意義は大きい、と思っている。時間は戻らないし増えない。
それにしても地震一回でこんなに困る人たちが出てくるのだ。やっぱり東京に未来はないなあとあらためて思う。田舎を知っているからこそ思う。なのに住んでるこの矛盾。やれやれ。