きょうだい家族と両親で海に行った。1時間半、車を運転してこんな良いところに着くとは素晴らしい環境だと思う。「これが東京だったら」と思わずにはいられないのは、どこに行っても同じだ。それは東京がひどいとか恵まれていないとかそういうことではなくて、人はだいたい自分の知っている環境と比較をするものだから。それがイタリアだろうが広島だろうがふるさとだろうが、自分の日常と比べたがる。そして嘆き、羨ましがる。いつも「ここじゃないどこか」を求める。自然なことだと思う。大学のときに先輩が「比較によって成り立つことってあると思うんだよね」というようなことを言っていた。比較は悪ではなく、という文脈だったと思う。気がつくと旅に出ている、そういう人だった。
海はとても穏やかで、人が少なく、水が澄んでいた。入場にお金を払う必要もなかった。近年の、自分にとっての海水浴といえばイタリアだ。日本で海水浴に行った記憶ははるか遠い昔、小学生くらいだ。というわけでやはり、イタリアと比べずにはいられない。人が少ないので比べるほどでもないのかもしれない。
なによりも、肌を出している人がいない、という点がまず気づくところ。みんな、もちろん水着は着ているのだろうが、いわゆる「水着」の格好をしている人がいない。男女ともに上半身を覆っている。ラッシュガードや、Tシャツを着ている。それが理にかなっていると思うので、私も真似してみた。日焼けして痛い思いをするのは自分なのだ。
そして成人女性で泳いでいる人はほぼいない。水にはとうてい入りそうになく、砂浜で待っている人が多い。イタリアで海に行っていなかったら私もきっとそうだったかもしれない。水や砂が嫌だというよりは、日焼けと水着に抵抗があるのだと思う。気持ちはよくわかる。
ただ、いったん水のなかに入ると、日焼けはさほど気にならなくなるものだ。これは経験でわかる。日焼け止めもどうせ流れ落ちて海水の汚染につながる。
日焼け止めを塗って水の外で暑い思いをして待つよりは、いっそのこと水のなかで自分を自由にしてあげたほうが、自分にとっては良いし、楽になる。なによりも暑い夏につめたい海水は気持ちがいいものだ。
これが海のそばで育った人たちだとまたいろいろと事情が異なってくるのかもしれない。そして首都圏の人たちが行きそうな海でもまた違うだろう。文化の違いは面白い。
こんなにいい場所だが、宿泊先では海外からの観光客はほとんど見当たらなかった。海辺では誰もみなかった。海外からはまだ発掘されていないということだろう。
海のほうに歩きながら子と話した。
「イタリアがなつかしくなるね」
「そうね」
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