Thursday 23 October 2008

Absence of Absolutes

25歳になった。メールをくれた人たち、ありがとう。

昨日書いた文から引用:

「25歳になるにあたって」
何を目標としたいのかなーこの僕は、なんて帰りの山手線で考えていた。
「人にやさしく、自分に厳しくなる」
「ゴミの分別をする」
「首のシワをなくす」
「もっと責任感を持つ」
「ちょっとは連帯感とか協調性とかを感じれるようにする」
「もっと上品になる」

etc

電車の中で色々考えて、 お風呂に入ってからも結構色々考えて、
トマト刻みながらも考えてみたんだがその結果、


もうこのままでいいや


という結論に落ち着いた。どこも変えなくていいや。
目標立てたところで変わる気がしない。別にそんなに悪いところもないんじゃないか、そして結構素敵に生きてるんじゃないか、何かがいい方向に動くとすればそれはその時なんじゃないか。私ががむしゃらに動いたって、時間、タイミング、運、そのへんに敵うものはないんじゃないか。すべてその辺が変えてくれるし、そこに従って良い。なにごともなるようになる、けど、「なるようにしかならんさ」とうのは父の言葉である。がんばってもどうにもならない時がある。運を天に任せる、てやつ。

一日中Downerだったんだが、村上春樹を読んでエヴァンスを聴いたら、結構解決されたような気がする。あと一時間くらいで25歳になりますよ。


朝起きたら、郷里の祖父からメールが届いていた。携帯で撮ったおじいちゃんの写真が添付されていた。おじいちゃんは80歳を過ぎてからパソコンをはじめ、携帯を使い始めた。今はどちらも駆使している。ついでにデジカメも使いこなす。ついでにおじいちゃんは、詩を書く。文章を書く。

それって超かっこいい、と思う。「いつまでも若い」なんていう決まりきった言葉ではうまく言い表せないが、私はおじいちゃんのお茶目さと、その新しいもの好きなところが、とても好きだ。

パカ、っと携帯を開いて「はいチーズ」と写真を撮る姿を見るたびに思う。


私は、両親を見ると「本当に、どこが似たのだろう」とよく思う。性格で「似てるなあ」と思ったことは、覚えている限りではあまり無い。しかしながら、祖父母に関していえば時々「ああこの人の孫だ」と思えることがある。

「いいんじゃない、それで」とか「放っておけばなんとかなる」とか「そんなこともあろう」とか、基本的に大雑把な性格は、父方の祖母みたいだ、と思う。よく言えば、大らか、ということ。そして、どこか残っている、堅さと頑固さは、祖父譲りだ。



祖父母の視点からものをとらえたら、どうだろう。私が悩んでいることなんて、どれくらい"些細"なんだろう。80年生きているってどんな感じなんだろう。80年間の経験と知識って。
25になったって、やっぱりKidだよなあ。成長したつもりでも、おじいちゃんみたいな「余裕」にはまだまだ届かない。

21歳のころ、早く25になりたいと思っていた。さして変わっていないような、変わったような。20の時に「これからの5年は大きな意味を持つと思う」と言っていたのを覚えているが、果たしてその意味とは!

ま、時は流れて、すべては移りゆく。流れるままにまかせていい。諸行無常。absence of absolutes

ありがとうとカルボナーラ

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