Tuesday 16 August 2022

テレビの存在について

 何度か書いたが、東京の家にはテレビがない。

3年か4年ほど存在していたが、PC画面をコードでつないで映し出すというディスプレイとしての役割のみで、その間一度もつけたことがなかった。リモコンのありかも、わからなかった。それでも誰も困らなかった。

それでも最後に見たときのことは覚えている。育休から復帰した初めての冬、羽生結弦がメダルをとるかもという日だった。2月だったと思う。つまりオリンピックだったのだろう。大会を職場で途中までみて、羽生結弦は家でみるしかない、となったときだった。どうにかして家で見れるようにと、床で寝る我が子を起こさないようにそのケーブル(コード?)を探しあて、つないでみたのだった。

それからはTVはディスプレイとしての役割に徹した。そしてある日、壊れた。つかなくなった。廃棄するとなったとき、多額の費用がかかることを知った。予測はしていたが、テレビに関しては粗大ゴミの枠に入らない。業者に依頼しなければいけない。新しいものを買えば引き取ってもらえたのかもしれないが、新しいテレビは買わなかった。必要だとも思う人が家にはいなかった。

そんなこんなで文字通りのテレビなし生活になった。

そういう生活をしていて、実家に戻ると、テレビの音にびっくりすることがある。そして流れる情報のレベルの低さに唖然とする。見ない方がましではないかと思うものが大半である。まさに「垂れ流し」である。ただの騒音と変わらないような時もある。口をあけていてどんどん食べ物が入ってくるような感じがする。

食事中に流れているとこどもが「ぽかん」としてくる。

とくに凄惨な事件について食事中に流れてきたりすると、私は気持ちが暗くなる。「かわいそうにねえ」という同情の気持ちに行き着く先は何だろうか、と思う。そしてそれをこどもに見せる意味について考えてしまう。世の中ってこういうもんなんだよ、と知らせる手段としては確かにありなのかもしれない。しかし、たとえば日々報道されるこどもの虐待についてこどもが知る必要はあるのか。窃盗集団について、交通事故について、振り込め詐欺について。「ねえなにが起きたの」と言われると、たしかに説明する義務は親としてはあるのだろうが、あまり言いたくないときもある。

しかし、だ。自分自身もこうやって育ったのだ。テレビのある環境で。祖父母とごろごろしながら夕方のテレビをよく見ていた。それによって害があったのだろうか。ある程度の制限はあっただろうが。同時に、テレビ以外の媒体は新聞とラジオしかなかった。ざわざわと騒音のように降り注ぐ、それらの情報を選びとる力が、もしかしたらそれによってついていたのかもしれない。

いま、あふれる情報の渦のなかでどれを選びとっていくのか、リテラシーが問われるなかで、テレビという昔からあった媒体について、逆にこうやって考えている。

ありがとうとカルボナーラ

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