giovedì 27 marzo 2025

アルバムを見て

先日は雪が降っていて、やっと暖かくなったと思ったら30度近くまで上がった。なんなのだろう。春はどこへいったのか。

先日、こどもに「誕生日はいつ」とか「きょうは何曜日」とかきいてみた。時々答えられないときがあるので思い出したように聞く。ひとつレベルをあげて、「ではあなたは何年生まれか」という質問をしてみた。これはわからない。じゃあ今は何年か、ときいたらすぐに2025年と答える。これは意外だった。じゃあいまの年齢がわかれば、もうわかるでしょう、と言ってもこれがなかなかわからない。時間がかかる。一年ずつ数えてようやくわかった。

1年ごとにアルバムが一冊あるので、じぶんが生まれた年の写真を探したら、そこに書いてある年が自分の生まれた年だから、と言ったら探し出してきてページをめくりはじめた。今までだって何度も見たことがあるはずだが、えー、とか、わー、とか言いながら食い入るように見ていた。生後1ヶ月ではじめて飛行機にのったとき、スタッフから手紙をもらったのだが、それもはさんであった。泣き叫ぶ赤ちゃんをあやす祖父母や、おさんぽ中のようすや、まあとにかくいろんな人に抱っこされている写真がたくさんある。

しばらくしてふと気づくと、子、写真を見ながらうるうるしている。涙はこぼれていないけどすこし口がへの字になっていた。「どうした?感動しちゃった?」と聞いたら「みんなありがとう、と思って」と言う。優しい子だなと思った。大事にされて育ってきた、ということを知ってはいても生後すぐを覚えているわけではないので、こうやって見て知る。

成長過程によって感じ方や見方が変わるのでアルバムはおもしろい。

giovedì 13 marzo 2025

読み聞かせと授業参観

 今年度最後の読み聞かせ当番だったので朝8時半から小学校へ行ってきた。読み聞かせの本を選ぶにあたり、どの本にしようか、と相談すると子も楽しそうで、選んで、2人で練習をする。読み聞かせに行くと子どもたちの反応が楽しいので私にとってまったく苦ではなく、今年度は2回担当した。3月12日はおそらく今年度最後。とりまとめをしてくださっている保護者がいて、これもありがたい。

終わってからそのまま帰らず、算数と外国語の授業を参観していった。実は2月の授業参観以来、見かねたFが週に2回、3回と授業に行っている。保護者が授業に行く小学校なんて聞いたこともないのでこれは行き過ぎなのではないか、せめて週1にしたほうが良いのではないかと思っていた。

しかし、特段問題がないどころか効果が出ている。まず、担任は「いつでもどうぞお願いします」と言う。おかげで授業中に大きな問題は起きず、担任からの電話は2月の間、こなかった。私は授業の様子を聞き、情報を共有できている。そして子は、きのう見てみたら、とりあえず座って周りと同じことをやろうとしている。結果的に、よかった。

イタリア人だからできたことだろう。つまり、親が学校に行って様子を見る、などという思い切ったことは、私だったらできない。どうみられるかわからないし、先生に迷惑がかかると思ってしまうし、何よりもほかにそういう人はいないから。しかし日本の学校を知らず、いわゆる「常識」にとらわれない彼にとっては、「子がいうことをきかなくて先生がお手上げ状態なら親がなんとかするしかない」というシンプルな考えから授業参観に行き着いたわけだ。

話は昨日に戻る。2月のはじめに私が授業参観に行った時、あらゆる指示に対して「いやだ」と反抗しまくっていた我が子は、座って算数の問題に取り組んだ。「ママがいるとやる気がでるなあ」と言いながら次々に解いていった。1ヶ月前とは全然違う。これはもちろん親がいないとこうはいかないのかもしれない。でも2月は親がいても反抗していたくらいなのだから、大きな進歩ではないか。

最初からまったく席につかない子が数人いる。お手伝いの大人がずっと付きっきりでいる。ある子は読み聞かせの間ずっと廊下に座ってi padをいじっていた。またある子は私のいた3時間の間結局一度も座らず、空席のままだった。(そもそも遅刻してきた。)急に「校庭に出てサッカーする」と言い出し、どこかに行った。座っている子もいるけどずっとi padで遊んでいる。うちの子もこうだったのだ。

別の話題になるがi padの使用は本当に困ったものである。もはやi pad無法地帯となっている。課題プリントが終わった人は何をやってもいいことになっている。お絵描きや読書などいろいろな選択肢はあるが、子どもたちは当然i padに手を出す。これについて私は先日担任に「制限してほしい」と訴えたが「特にi padをやりなさいと指示しているわけではありません。どうすればよいか一緒に考えてください。i padじゃないことをやっている生徒もいる」とのこと。しかしきのう見に行った限りではほとんどの子がi padを開いている。課題プリントが10分くらいで終われば残りの35分はゲームし放題なのだ。小学2年生にこれはないと思う。

幸か不幸かi pad故障中の我が子は粘土で遊ぶことにした。わたしも一緒に作ってこれは楽しかったが、これって授業なのか。小学校のことはわからないけど、授業の大半が「好きなこと」というのは、学年末だからこうなっているのか。日々の様子を子から聞く限り、どうもそうではないと思う。

さまざまなことが、来年度から切り替えられることを願う。

いったん帰って、昼を食べにいった。行った先で「麻婆春雨」があったのだがこれが美味しかった。チャンプルーとは違う。自分でも作ってみようと思った。「ほめる」を早速実践しようと思ってスタッフの人に「麻婆春雨がとても美味しかったです」と伝えた。嬉しそうだった。やっぱり、心掛けないと、褒める言葉は出てこない。

mercoledì 12 marzo 2025

人間関係、ほめること

 同じ職場に長年いるとうんざりすることも増えてくる。同僚どうし、お互いの性格や特徴を知っているので動きやすいがその反面、その性格や特徴にうんざりすることもある。さらにその性格や特徴によって仕事の量や質が変わってきてフェアじゃないなと感じることも多くなる。昨年あたり、タイミングよくここらでいったん外に出てみるかと思ったことがある。思っただけで実行はしなかった。ちょうど腰のMRIを撮ったりしていたし子どもも手がかかるし、なんだかんだ迷いがあった。年をとって腰が重くなっているのかもしれない。というわけで、出なかった。環境が嫌になって自分が出たら負けだ。負けと言ってもとくに戦ってはいないけど相手に主導権を握らせたことになってしまう。イタリア人がよくいう。「相手にpotenza(権力、主導権)を握らせるな」と。自分の人生だから自分が進むのみ。

きのう。ある同僚曰く「アドラーによるとね、人間の悩みはすべて、人間関係によるものだって」。なるほど、そう言われればそうかもしれない。相続、ご近所、いじめ、家族、友人、仕事、国際問題まで、すべては人間関係。世の中問題だらけなんだけど、いっぽうで人間関係で問題が起きないタイプの人間、というのがいて、どこでも好きな場所で生きられる。何人かそういう人を知っているけど、とにかくしがらみがない、そして当たり前だけど人当たりが良い。

先日、「ほめことばの見つけ方」という講座に行ってきた。無料だったので申し込んでみたわけだ。これが、とてもよかった。講座の前後で人生が変わった感じがする。大袈裟かもしれないが、そのくらい自分にとっては影響が大きかった。参加者のほとんどは高齢の女性だった。みんな一生懸命メモをとっていた。男性ももちろんいたけど圧倒的に女性が多かった印象。

前提として、人は、ネガティブなことばが無意識に出てくるようになっている。その逆のポジティブな言葉というのは相当意識しないとなかなか出てこない、ということ。たしかに。ほめるというのは、人、もの、イベントに対して価値を見出すこと。ダメ出しをやめた途端に営業成績があがる職場の例などがあった。面白かったので講師の本を読んでみようと思う。この、人生が変わるような、前向きな気持ちはいったいいつまで続くだろう。ずっと続けたいと思った。その日だけじゃなくて、意識してほめるようにしたい。

giovedì 6 marzo 2025

日本の教育は困ったことになっている

 5日。毎年三月恒例の婦人科検診。かれこれ20年前、治験で関わったのがきっかけで知った病院だがとても良いので結局20年間通い続けている。家の近くではないけどなにかと自分にとって都合が良く慣れた、なによりも信頼できる病院。

特に決められたわけではないが3月になると検診を受けている。ここ数年はマンモグラフィもこの病院で受けていたのだが、区の助成を受けたことがなかったのでマンモグラフィだけは4日に、区の施設で受けた。あっという間に終わった。値段も安いしこれでよいのかもしれない。

5日に戻る。9時半受付だと知ってはいたが、9時ごろに着いた。天気も悪いし交通機関の乱れもあるだろうし、なによりも朝8時ごろに家を出るのに慣れている。あえて遅くする必要もない。で、こんなに早く着いたのにもう受付できて、ほかに人もおらず、9時半には終わってしまった。早すぎる。びっくりした。検診以外にも診察で時々通っていたが、もう検診だけでいいでしょう、ということになった。つまり次に来るのは1年後か。

とにかく寒い1日。小雨が降り続いている。11時ごろには家に着いて、早めにお昼ご飯を食べた。1人しかいないのでチャンスだと思ってNetflixを見た。ひとりで座って映画やドラマをみる時間なんてほとんどない。というか、時間があっても家にいるとパンを焼いたり掃除したり、ほかのことに手を出してしまうのだ。

午後、ふと気づいたらきょうは息子の保護者会だった。行かねば。どうしようかなと思ったけど、行かねば。準備する学校側の気持ちがわかるだけに、行くことにした。来年度の連絡があるだろう。でも、崩壊ぎみの学級懇談になって、いったいみんなどういう話をするのだろう。気まずくないのだろうか、と思った。

思いながら、クラスに行くと、誰もいない。同じように迷っている人がいたので「すみません、保護者会どこでしょうかね」ときくと「やっぱりここじゃないんですね」と言って調べてくれた。体育館らしい。知らないお母さんだったけど2人で歩きながら話した。スマホを見ながら「あれ、、でもおかしいですね、ほかの学年はぜんぶクラスでやるのにこの学年だけ体育館だって。」という。なるほど、おそらくうまくいっていないから、クラスになっても気まずいのかもしれない。先生に文句が出たり保護者どうしが不機嫌になったら、クラス懇談はうまくいくわけがないのだ。正解はないけど、わたしはそう見た。

来年度の説明などが、30分くらいで終わってしまい、お開きになったが、最後に担任が挨拶をするということで、クラスごとに、席はなく、体育館で立ったまま、担任を囲むことになった。パイプ椅子を保護者が片づける。ある組だけは、体育館ではなく教室に移動になった。

なんだか変な感じがした。

それで、子のクラスのところにいくと、保護者の人数はまあまあいる。先生を囲んで立った。担任から「ご協力ありがとうございました」と言い始めたとたん、なんと泣き出してしまった。「自分の指導力が足りなくて、2学期くらいから、うまくまとめられなくてすみませんでした」と言いながらボロボロ泣いている。なぐさめようにも大人どうしで、なんだかどうしたらいいかわからず周りの保護者もオロオロしている。「できる限りの形で、あと少しがんばります」と言って、終わった。

帰り道から夜までなんだかいろいろ考えてしまった。先生はこんなに追い詰められて、どんなにつらいだろう。そして先生の家族のことも考えてしまう。2学期に1週間くらい先生が休んだことがあったけど、あれはほんとうに限界だったのだろうと思う。

子どもたちがさわぐ→先生が注意する→保護者に報告する→保護者は子の味方になる→先生が生徒を注意できない→生徒はもっとさわぐ→崩壊→先生寝込む、ときに辞める

この悪循環をたちきれない。子のクラスメートからの話を、子づたいに時々聞くが、保護者は先生のことをさんざん言っているらしい。学校から電話が来たときの親の様子を、子供たちはよく見ている。「先生は先生辞めるべき」とか、電話が来たら話をきいてるふりをして寝たりとか、しているらしい。

先生は泣きながら「教室のほうも、素敵な絵が飾ってあるのでぜひ見て行ってください」と言った。最初から教室でやればよかっただろうに、たぶん先生が場をもたせることができなかったんだろう。なんだか悲しい気持ちになりながら子供たちの絵を見に行ってきた。この絵を壁に貼ったのは先生だろうか。誰かと話しながら楽しくやったのだろうか、それとも業務に追われながら、疲れてやったのだろうか。そのとき、さっき体育館ではなくクラスにいった1クラスが見えた。校長と副校長が話をしている。あとで子にきいたら、どうやらこのクラスは先生がいなくなったらしい。

日本の教育は困ったことになっている、というのは、ニュースなどではきくけど実際にこういうことか、と小学校を見てはじめて実感している。

イタリアだったらどうだろう、と家で話した。「先生は泣かない。」確かに。「生徒が勝手に何かしたら怒る。」

言われてみれば当たり前なのだがこれができない状況にあるのだ。親に責められ先生たちは病む、そして辞める。なり手がいない。学校が機能しないと、行き着く先は塾である。

mercoledì 26 febbraio 2025

休日は仕事メールを見ない

家で仕事のメールを見ないことにして、1年以上経つ。在宅勤務や、やむを得ないときを除く。思わずチェックしてしまうことがあるので、これは「がんばって」見ないようにしないといけない。チェックするのはとても簡単なことなのだ。それにくらべて、チェックしないようにするためにはだいぶ意識していないといけない。パソコンをはじめ、我々の生活に「画面」が出現して以来、いろいろなことをほぼ無意識にやるようになっているからだ。

この3連休も、少しもメールを見ずに過ごした。きのう三日ぶりに出勤してみると40〜50通くらいが行き交っていた。ざっと見てみて、自分に関連あるものはほとんどない。私の名前が出てきて「これ、よろしく」と言われている仕事は1件だった。しかも「週明けで問題ない」とある。それ以外に「時間のある時によろしければお読みください」とある、誰かの語りみたいな、数人に宛てたメールがあった。不快以外のなんでもない。つまり読む必要がない。読むわけがない。そんな暇ではない。やっぱり週末にメール見なくてよかった、と思った。不快なまま過ごしたくない。不快になるなら、日中で、職場で見たほうがいい。自分の精神衛生は自分で守らなければいけない。メールやSNSは自分の生活にすでに深く侵入してきている。

martedì 25 febbraio 2025

連休の記録

 3連休が終わった。

22日(土)。合気道の朝稽古へ。7月に昇段したのだがまだもらっていなかった賞状を受け取る。みなさんにおめでとうと言ってもらえてとても嬉しかった。励みになる。土曜朝の稽古は定着してきた。

この日に返すべき本があって、あと少し読んでしまいたかったので保健センターのカフェで読む。四方田犬彦の『サレ・エ・ぺぺ』。めちゃくちゃおもしろかった。食に関する本です。前半の理屈っぽいほうが好きだった。

日中は結構寒い。お昼は家族でいつものレストランに行ったがこれがだいぶ待った。1時間近かったかもしれない?外で待つのが寒すぎるが順番が「次」なので辛抱した。

2時から息子の友達が遊びにくる。わたしはその間、図書館で週刊文春を読む。

休日はこの流れが最高だと思っている。合気道→昼→図書館。昼が終わるともはや1日終わったような気持ちになる。あとはもう寝るだけ、みたいな感じ。

23日。

友人の家に行く。子を連れて行った。移動に時間がかかり、電車を乗りついだ。これは結構疲れた。往復で2時間かかるので10時に家を出て帰りは5時になる。子は辛抱してついてきたので、大きくなったなあと思った。ご馳走になったグリーク・サラダがとても美味しくて、自分もフェタ・チーズを買って食べようと思った。いつもいくスーパーにはない。カルディにあった気がするので近々行ってみよう。

24日。

やはり寒いが、天気は良い。3日間ずっと天気はいいのだ。今日こそプールに行くことにしていたので、私以外はあまり気が進まなそうだったが、10時に行くと決めて3人で行ってきた。気持ちよかった。水に浮かぶだけで気持ちいい。

昼、レストランに行ったらだいぶ待つことになりそうだったので、結局やめて家に帰ってパスタを食べた。とても美味しかった。

1時過ぎから、子の友達が舞台でバレエをするというので見に行った。チャリティ・イベントなので途中から出たり入ったりできる。みんなとてもかわいかった。

2時半ごろからその子がまたうちに来て、いっしょにマイクラをして遊んだ。

夕方、麻婆豆腐を作った。

この3日間で焼いたもの:食パン、バゲット、チーズケーキ、アーモンドボール、バナナブレッド、全粒粉ショートブレッド。ほかにもあったかもしれない。焼き過ぎじゃないのか、と思うだろうけど、順調にすべて消費されている。もはやほとんど残っていない。

venerdì 21 febbraio 2025

ずっと寒い。

今年の冬は寒い。少し暖かくなったかと思ったら極寒が戻ってきた。東京は雪が全然降らないけど雪が降って困っている地域がたくさんあるようで、こんなので寒いなんて言ったら怒られそうだけど。

1月ごろは、冬はうちでぬくぬくできていいなと思っていたけどさすがに2月後半になってまだこんなに寒いと、ちょっと疲れてきた。寒さに疲れている。もういいよ、という感じ。頭が、かきごおり食べた時みたいにキンとしてつめたい。きのうはちょっと痛かった。あと何日くらい辛抱すればいいんだろう。

去年は「今年は全然寒くないな」と言っていた。10年以上使っている最強のフリースがほぼ活躍することなく終わった。それが今年は、ずっとそのフリースを来ている。寒さから解放されたい。

毎日8時間は寝ているんだけど最近パッと起きれなくて、たぶんこれは睡眠が足りていないと言うことだと思う。先日、何かの雑誌で読んだけど、自分に適正な睡眠時間を知るために、4日間、就寝時間を30分ずつ早め、起床時間を変えずに過ごすとよいらしい。最終日の睡眠が、ほんとうに必要な睡眠時間らしい。おそらく、いったんリセットするための3日間なのだろう。

さて、朝の準備をしよう。

風邪ぎみ、とマリオのスター

 乾燥に弱い。喉が。 先週ちょっと喉が痛いかなと思った。よくあるビリビリした痛さはなくて、3連休はのどをそれほど使うこともなく休んだので悪化しなくてよかったと思った。たいていパターンは決まっていて、「ビリビリ」がおわると鼻水が始まり、咳が残る。そしてきのうがその「鼻水期」の始まり...